音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

ニューイヤーコンサート100数年の歴史

2023-01-02 09:36:00 | コンサート
改めて、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

実家の京田辺の家に着いたら、道路で異変が!

倒れている人が。
目の上に擦り傷があり、意識はありますが、口はきけなくて起き上がることができません。

救急車を呼んで、母を呼んで道路に座布団を敷いてもらって、横になってもらいました。

救急車は出払っていて、本署から来てくれるとかで、何分か待ちました。
その間に少し回復されてきたようで椅子を出したらそこに座って。

ご自分の携帯を出されたので、ご家族に電話をしたら、すぐ近くの方で走って来られました。

そのうち救急車が来て、ご家族と乗っていかれました。

新年早々びっくりしました。

ご家族が2度目の脳梗塞かもしれないとおっしゃっていました。

長く患って救急車で何度も運ばれた父のことを思い出しました。

軽い梗塞なら、また歩けるはず。
軽いといいな。

ウィーンフィルハーモニーのニューイヤーコンサートの歴史はそう古くはありません。

伝統のあるウィーンフィルハーモニーのメンバーたちは、シュトラウス一家が行っている「娯楽音楽」と関わることで伝統ある楽団の社会的地位が脅かされると感じたようです。

変化が起きたのは、リスト、ワーグナー、ブラームスがこの一家を高く評価していたことと、ヨハン シュトラウス2世に直接会うことで、ヨーロッパ中を魅了していた作曲家本人の人柄を知った時でした。


1873年4月22日
ウィーン国立歌劇場主催で楽友協会のホールで舞踏会を行いました。

シュトラウス2世の指揮とヴァイオリンで

1873年11月4日ウィーン万国博覧会の中国主催のガラ・コンサートで「美しき青きドナウ」が演奏され、1877年12月11日宮廷歌劇場でソワレ(夜の演奏会)で集大成とも言える「古きウィーンと新しきウィーンの回顧録」父のヨハン シュトラウスと自分の作品のメドレーを演奏しました。

この楽譜は失われています。

1894年10月14日ウィーンフィルはシュトラウス2世の音楽ビジネス50周年記念コンサートを行いました。
シュトラウスの音楽にウィーンフィルから感謝の電報が送られています。

1899年5月22日シュトラウスは宮廷劇場で初めて「こうもり」を指揮しました。
この時風邪をひいたシュトラウスは回復することなく
6月3日に亡くなりました。

彼の死後すぐにはウィーンフィルのメンバーは彼の音楽を支持するようにはなりませんでした。

1921年になってアルトゥール ニキシュが「美しき青きドナウ」「ワインと女と歌」「芸術家の生涯」を演奏しました。

1925年10月25日シュトラウス生誕100周年のコンサートでシュトラウスだけのコンサートを行いました。
これがニューイヤーコンサートの元になりました。

1929ー33年ザルツブルク音楽祭でシュトラウスのコンサートを行い、ニューイヤーコンサートの下地を作りました。

最初のニューイヤーコンサートは最も暗い時期に行われました。
1939年1月31日キャンペーンに使われ、冬の貧しい人の救済に全額使われました。
が、反面ドイツ放送のプロバガンダに悪用されクレメンス クラウスにより指揮されました。
そのためクラウスは連盟国により2年間の指揮を禁止されました。

しかし、その後復帰1954年までニューイヤーコンサートを指揮しました。

その後ボスコフスキーが25年指揮しました。

マゼール、カラヤン、クライバー、メータ、ムーティ、プレトル、バレンボイム、メスト、デュダメル、ティーレマン、ネルソンズ。

そして今年はメスト。

ヨハン シュトラウス2世(1825-1899年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没の

1867年作曲「美しき青きドナウ」
ニューイヤーコンサートの定番曲になっています。