音楽の喜び フルートとともに

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世俗のアート

2023-01-17 09:00:00 | ルネッサンス
日曜に行った知恩寺手作り市の収獲の一部です。
全長3cm位、とかげの木工と、それをくり抜いた時の枠。
なんだか使い道意味不明なアート!って感じの作品が好きです。

他の作品はこれ。

全部もらったらカレーができるぽち袋や、リコーダーケース(笛入れにします。)あみぐるみのキラキラトカゲ、スマホケース、スタンプ(ケーキ)、トリケラトプスクリップ、ポーチ大小、福助バッチ。他に椎茸の佃煮買いました。

福助バッチとポーチ大は夫にプレゼント。
実用品はポーチ小、印肉とハンコ両方入れます。
スマホケース。カバン変えたら前に使っていたのが合わなくなりました。
あおりの中に入れて使いますがトカゲバッチをつけて使おうっかな?
つけてみました。

おかしいかなぁ〜?

ジョスカン・デ・プレ(1450.55?-1521年)フランス北部サン=カンタン近郊生まれ、フランスオー=ド=フランス地域圏コンデ=シュル=レスコー没

少年聖歌隊から、作曲家になりました。詳しいことはわかっていませんが、生前から有名な作曲家でした。
オケゲムに学びました。

1475年エクス・アン・プロヴァンスのアンジュー家のルイ善良王


の音楽団の一員であったことがわかっています。
1480年にルイ善良王が亡くなると、フランス王ルイ11世に財産ごと引き継がれます。

1481年この王は脳卒中で倒れ、8人の声楽家に毎朝7時にミサ曲を歌わせました。この中に彼も入っていたと思われます。
1484年に枢機卿アントニオ スフォルツァの庇護を受けていたようです。

1484年にはミラノ公ジャン ガレッツオ スフォルツァの地位を得ていました。
然し充分ではなく安定した教会の役職を願って訴訟を起こしたりしていますが、うまくいきませんでした。

ローマでフィリップ美公に近づくためにスターバト・マーテルを送っています。

1500〜1502年にはルイ11世に雇われていましたが、未払い報酬があり、思い出してもらうためにモテット「御言葉を思い出し給え」と「人慈を持ってあしらいたまえり」を送っています。
1503年フェラーラの宮殿楽長職につこうとしていましたが、ペストの流行がはじまり、公爵も移住し、ジョスカンもフェラーラを去りました。
晩年のことはよくわかっていませんが、1509年、1513年と教会と俸禄のことで交渉しています。

彼の不安定な身分のせいで、教会音楽ばかりでなく世俗曲を多く残すことになりました。

これは世俗曲の1つで夫婦喧嘩の一シーンでしょうか?

三声の世俗音楽より
Mon mary m'a diffamée
夫は私を侮辱した。