昨夜、一月前亡くなった初任同僚のご主人に電話した。ずいぶん躊躇ったのちの電話。
今日、だれかと初めて話したって。ああやっぱり、と。
今は何やかやと書類関係のことでいろいろと大変だけど、子どもたちに助けられながら
なんとか手続きしているんですって。何しろ初めてだから、とおっしゃるから経験が
あったら困ります、なんて。
広いマンションでの80過ぎてのひとり暮らしが、どんなものか想像ができようというもの。
同僚は何もかもきちんとこなす人だったから、よけい日々の暮らしが戸惑うことばかりだろう。
台所のどこに何があるかから分からないよ、幸い長女が近くに住んでいるから来てくれて
助かるって、息子さんも料理好きで作ってくれるんですって。ってな話など。
何回か書いているが、同僚とは私が横浜に就職してからの会社の先輩でずいぶんと
お世話になった人だ。新婚さんで、徒歩通勤途中のアパートに暮らしていたから、我ら会社仲間は
帰りに何かと押しかけてはごちそうになっていた。ご主人もえらい迷惑だっただろうな。
そんな同僚たちが結婚やら転勤やらで抜けていき、最後に残った仲間が先輩二人とヤマナカサンと私。
かれこれ55年になる付き合い。
それが4年前のこと。年賀状が来ない、いつもやり取りしているのに来ないの。
変だ変だと思いつつ聞くわけにもいかず、どうしたんだろうと思うばかりで時が過ぎた。
埒が明かないから、意を決して電話したら、そういうわけなのとのことで。
すい臓がんでステージⅣ、手術はできず、いきなり余命まで宣告された、と。
で、放射線治療もできず化学療法で闘病生活、といっても寝込んでいたのではなく
外出こそできなかったが、日常生活をふつうに送っていたの。ヤマナカサンと私は
4年間の間に何回かおじゃまして手料理をごちそうになっている。
今年も3月に3人でもう一人の同僚のお墓参りをした後、ご自宅に寄ってごちそうに
なった。彼女が病気だということをいつも忘れるほどにいろいろもてなしてくれて。
ひとつ変わったことといえば、それまでは、バス停まで必ず送ってくれていたのが
3月はベランダで手を振るだけだったから、ふたりで「疲れさせたのかしら」なんて。
9月に入り、それはそれは見たこともないような立派なシャインマスカットが送られてきた。
初めてよ。まあ、とびっくりするのと同時になんだかちょっとの思いが複雑に交錯して。
お礼の電話をすると、彼女が出て話すことができたけど、声はいつもと違い弱々しくて
それも気になったりした。
そうこうしているうちに、ご主人からもう飲めない食べられないから入院することにした、
との連絡をもらって。彼女からもしばらく入院するとのメールをもらって。
入院期間は1週間くらいだったかしら、退院することになったと、最期をどこで過ごすかとの
選択に彼女は自宅を選んだ。そのメールをもらってから1週間も経たないうちに旅立ってしまった。
四人の仲間はとうとう二人になってしまった。
もてなしを受けた後の帰り道でいつも「私たちの方が〇さんから励ましてもらっているね」
と、その心遣いに感心するやら感謝するやらだった。
亡くなってそろそろひと月経つ。思い出すたびにさびしい。
ご主人はこれからひとりで暮らしていかなくてはならない。
寒くなってくる、日暮れが早くなる、夜が長くなる。
それでも日常は続いていくからね。心身に気を付けてください、と電話を切った。
毎年、生きたカニを送ってくれていて、昨年はなかったので電話すると催促しているようでしたから話すのを控えてました。
お祝いのつもりだったのが、不幸の連肉と重なった齢を考える最近です。
なんとも大変でした、お気持ちお察しいたします。
いつものことがいつも通りになされないという
ことは、よくない理由が裏にある、ということを
この頃しみじみつくづく感じます。
歳をとるとはそういうことかしもしれませんね。