先日、図書館で鎌倉市の古い地図をながめていました。明細地図といって、一戸、一戸の名字まで出ている細かい地図で、大船地区だけでも、10ページぐらいあります。こういう地図の存在すら知りませんでしたが、ちょっと覗いてみると、なかなか面白いものです。とくに私のような、新参者には、昔の大船の様子がわかり、いい勉強になります。昭和34年(1959)のものが一番古かったので、それを取り出して、みてみました。
昭和34年というと、東京タワーが建った翌年です。それで思い出しました, 「Always3丁目の夕日」です。心に残るいい映画でした。東京下町の夕日町三丁目の人々の人情味あふれる、ほのぼのとした物語です。ある日、自動車修理工場「鈴木オート」(堤真一と薬師丸ひろ子夫妻)に、東北からの集団就職の六子(堀北真希)が訪れます。 立派な自動車会社と期待していたのに、町工場、どこかがっかりした様子です・・・ 一方、駄菓子屋をほそぼそとやりながら、売れない小説を書いている茶川竜太郎(吉岡秀隆)は、近所の飲み屋の美人ママ、ヒロミ(小雪)に淡い恋心を抱いている、そして彼女に身寄りのない少年、淳之介の世話をするようを頼まれる、そして・・・映画評論は、本題から、はずれますので、この辺で止めておきます。
また、34年の人気テレビ番組には、私の秘密、ジェスチャー、お笑い三人組、アイラブルーシーなどでした。団塊の世代以降の人なら分かるでしょうか。ちょうど一般家庭にもテレビがどんどん入りはじめた頃ですね。こういう時代に、大船はどうなっていたのでしょうか。
さて、まず、大きな敷地を見てみましょう。松竹大船撮影所が、どーんと大きな存在感を示しています。正門の位置まで書かれています。まだまだ撮影所が幅をきかせていた時代でしょうか。ここは、その後、1995年に敷地の多くが、鎌倉シネマワールドになり、イトーヨーカドー、三越鎌倉店もそのときに、建てられたようです。しかし、シネマワールドは3年で閉鎖し、本体の撮影所も2000年に閉鎖になります。そして、現在、鎌倉女子大の大船キャンパスになっています。鎌倉芸術館は、1998年から稼働し始めています。
現在は松竹関係の建物はありませんが、所々に「松竹」の名前が残っていて、かっての栄華が偲ばれます。昔の正門前の交差点は「松竹前」の標識(写真)が、私を忘れないでね、と言っています。バス停も松竹前、通りの名前も松竹通り、松竹離れ山通り、砂押川の橋の名前も松竹1号橋、2号橋とあります。松竹社員の社宅も一部残っています。鎌倉女子大の提供公園には、松竹映画の渥美清と美空ひばりの大きなモザイク画が飾られていますし、校内のホールにも、松竹映画の関係の資料や写真の展示をしています。
さて、資生堂鎌倉工場は、この地図では、建設工事中と出ています。資生堂のホームページをみると、この年(1959)から稼働開始となっていますから、この地図の作成時には、まだ工事中ということなのでしょう。現在郵便局のある場所は、三菱化成大船工場となっています。隣の芝浦製作所(当時の社名でしょうか)も記載があります。近くに保土ヶ谷ゴム工業とい会社名も見受けられます。高度成長期に入る頃ですから、大船も工業都市を目指していたのでしょうか。
駅前に目を移しますと、駅の回りに、現在の商店街への発展を十分予測できるほど多くのお店が並んでいます。駅前の魚屋さん魚広(かんのん)は、当時もあります。その隣にオデオン座とありましたが、なんだったんでしょうか、映画館にしては、敷地が狭いような気がしますが、それとも、パチンコ屋さんでしょうか。
旅館も、結構あります。好養旅館は、いまの西友あたりにあります。西友に買われて、現在地に移動したのでしょうか。今は、見あたらない大船旅館や大船ホテルなども東口にありました。
個人のお宅では、万城目正さんの名前がみられます。レストラン「みかさ」のある松竹通りに面しています。現在保険会社のビルがあるところでしょうか。りんごの歌の作曲者として有名です、作詞:サトウハチロー、作曲:万城目正、唄:並木路子です。
赤いリンゴに 口びるよせて だまってみている 青い空
リンゴはなんにも いわないけれど リンゴの気持ちは よくわかる
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ
調べてみますと、万城目正さんは、松竹大船の映画音楽を担当されていました。263もの映画音楽をつくっています。ここは、仕事場兼住宅だったのですね。
俳優さんも住んでいたはずですが、おそらく本名で登録してあり、この地図では分かりません。
今回は、これで終わりますが、実はもういくつか、別の貴重な資料を手に入れています(笑)。次回以降に(気が向いたら)、俳優さんの住宅や、彼らが通った食堂について、報告したいと思っています。
古い地図は、本当に面白いです。
昭和34年というと、東京タワーが建った翌年です。それで思い出しました, 「Always3丁目の夕日」です。心に残るいい映画でした。東京下町の夕日町三丁目の人々の人情味あふれる、ほのぼのとした物語です。ある日、自動車修理工場「鈴木オート」(堤真一と薬師丸ひろ子夫妻)に、東北からの集団就職の六子(堀北真希)が訪れます。 立派な自動車会社と期待していたのに、町工場、どこかがっかりした様子です・・・ 一方、駄菓子屋をほそぼそとやりながら、売れない小説を書いている茶川竜太郎(吉岡秀隆)は、近所の飲み屋の美人ママ、ヒロミ(小雪)に淡い恋心を抱いている、そして彼女に身寄りのない少年、淳之介の世話をするようを頼まれる、そして・・・映画評論は、本題から、はずれますので、この辺で止めておきます。
また、34年の人気テレビ番組には、私の秘密、ジェスチャー、お笑い三人組、アイラブルーシーなどでした。団塊の世代以降の人なら分かるでしょうか。ちょうど一般家庭にもテレビがどんどん入りはじめた頃ですね。こういう時代に、大船はどうなっていたのでしょうか。
さて、まず、大きな敷地を見てみましょう。松竹大船撮影所が、どーんと大きな存在感を示しています。正門の位置まで書かれています。まだまだ撮影所が幅をきかせていた時代でしょうか。ここは、その後、1995年に敷地の多くが、鎌倉シネマワールドになり、イトーヨーカドー、三越鎌倉店もそのときに、建てられたようです。しかし、シネマワールドは3年で閉鎖し、本体の撮影所も2000年に閉鎖になります。そして、現在、鎌倉女子大の大船キャンパスになっています。鎌倉芸術館は、1998年から稼働し始めています。
現在は松竹関係の建物はありませんが、所々に「松竹」の名前が残っていて、かっての栄華が偲ばれます。昔の正門前の交差点は「松竹前」の標識(写真)が、私を忘れないでね、と言っています。バス停も松竹前、通りの名前も松竹通り、松竹離れ山通り、砂押川の橋の名前も松竹1号橋、2号橋とあります。松竹社員の社宅も一部残っています。鎌倉女子大の提供公園には、松竹映画の渥美清と美空ひばりの大きなモザイク画が飾られていますし、校内のホールにも、松竹映画の関係の資料や写真の展示をしています。
さて、資生堂鎌倉工場は、この地図では、建設工事中と出ています。資生堂のホームページをみると、この年(1959)から稼働開始となっていますから、この地図の作成時には、まだ工事中ということなのでしょう。現在郵便局のある場所は、三菱化成大船工場となっています。隣の芝浦製作所(当時の社名でしょうか)も記載があります。近くに保土ヶ谷ゴム工業とい会社名も見受けられます。高度成長期に入る頃ですから、大船も工業都市を目指していたのでしょうか。
駅前に目を移しますと、駅の回りに、現在の商店街への発展を十分予測できるほど多くのお店が並んでいます。駅前の魚屋さん魚広(かんのん)は、当時もあります。その隣にオデオン座とありましたが、なんだったんでしょうか、映画館にしては、敷地が狭いような気がしますが、それとも、パチンコ屋さんでしょうか。
旅館も、結構あります。好養旅館は、いまの西友あたりにあります。西友に買われて、現在地に移動したのでしょうか。今は、見あたらない大船旅館や大船ホテルなども東口にありました。
個人のお宅では、万城目正さんの名前がみられます。レストラン「みかさ」のある松竹通りに面しています。現在保険会社のビルがあるところでしょうか。りんごの歌の作曲者として有名です、作詞:サトウハチロー、作曲:万城目正、唄:並木路子です。
赤いリンゴに 口びるよせて だまってみている 青い空
リンゴはなんにも いわないけれど リンゴの気持ちは よくわかる
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ
調べてみますと、万城目正さんは、松竹大船の映画音楽を担当されていました。263もの映画音楽をつくっています。ここは、仕事場兼住宅だったのですね。
俳優さんも住んでいたはずですが、おそらく本名で登録してあり、この地図では分かりません。
今回は、これで終わりますが、実はもういくつか、別の貴重な資料を手に入れています(笑)。次回以降に(気が向いたら)、俳優さんの住宅や、彼らが通った食堂について、報告したいと思っています。
古い地図は、本当に面白いです。