中日新聞の日曜版「おじさん図鑑」、飛島圭介さんのコラムより、今回のタイトルは「男らしい」
「男(女)らしい」というのは、今や禁句に近い。
両方とも、そうありたいというそれぞれの性の長所を意味している。
しかし、男女平等の観点からいえば1種の差別言葉になるからと、
いつの間にかためらわれるようになった。
つまり、男は(女は)こうあるべきだと、
片方の「性」の理想に、限定的に閉じ込めてしまうのではいけないと
いうわけだ。
強く、潔く、行動にメリハリがあって小気味よく、
人間としての魅力にあふれていることが、
「男らしい」の中身だ。
これを女と置き換えても違和感はない。
全く同様の徳目を兼ね備えた、
人としての魅力溢れる女性もあまた存在する。
何も「男らしい」ということはない。
おじさんの亡母は、優柔不断な息子をしかりつけるとき、
「キッサリしろ」とよく言った。
キッパリとアッサリがくっついた語であろう。
幼少期からキッサリしなかったおじさんは、
今さら「男らしい」という言葉を復権せよ、と少しも思わない。
ただ現実には、優しく、粘り強く、柔らかで、
笑顔のすてきな「女らしい」人にはどうしてもひかれてしまう。
言葉は失われても、実体は連綿と生き続けるのだ。
以上です。
「男らしい」。
学生の頃は柔道や剣道を学んで、男らしくなりたいと思ったこともありますが、
私の性格では無理ですね。
子供の頃から優柔不断な性格は変わらないです。(苦笑)
でも卑怯な男にはなりたくないです。
例えていえば、嘘を平気でつくような男にはなりたくないです。
「女らしい」。
結婚前は女らしい人に憧れたこともあります。
でも、この作者が書かれているような、
優しく、粘り強く、柔らかで、笑顔のすてきな女性なんて
いるのかな?(笑)
そこまで欲張りません。
笑顔が素敵で、女性を捨てていなくて、おしゃれな女性なら
言うことなしです。(笑)
<本日まで、コメント欄を閉じさせていただきます>
JOHNNY ANGEL -Shelley Fabares (1962) A Tribute to the 50th Anniversary Golden Hit
「男(女)らしい」というのは、今や禁句に近い。
両方とも、そうありたいというそれぞれの性の長所を意味している。
しかし、男女平等の観点からいえば1種の差別言葉になるからと、
いつの間にかためらわれるようになった。
つまり、男は(女は)こうあるべきだと、
片方の「性」の理想に、限定的に閉じ込めてしまうのではいけないと
いうわけだ。
強く、潔く、行動にメリハリがあって小気味よく、
人間としての魅力にあふれていることが、
「男らしい」の中身だ。
これを女と置き換えても違和感はない。
全く同様の徳目を兼ね備えた、
人としての魅力溢れる女性もあまた存在する。
何も「男らしい」ということはない。
おじさんの亡母は、優柔不断な息子をしかりつけるとき、
「キッサリしろ」とよく言った。
キッパリとアッサリがくっついた語であろう。
幼少期からキッサリしなかったおじさんは、
今さら「男らしい」という言葉を復権せよ、と少しも思わない。
ただ現実には、優しく、粘り強く、柔らかで、
笑顔のすてきな「女らしい」人にはどうしてもひかれてしまう。
言葉は失われても、実体は連綿と生き続けるのだ。
以上です。
「男らしい」。
学生の頃は柔道や剣道を学んで、男らしくなりたいと思ったこともありますが、
私の性格では無理ですね。
子供の頃から優柔不断な性格は変わらないです。(苦笑)
でも卑怯な男にはなりたくないです。
例えていえば、嘘を平気でつくような男にはなりたくないです。
「女らしい」。
結婚前は女らしい人に憧れたこともあります。
でも、この作者が書かれているような、
優しく、粘り強く、柔らかで、笑顔のすてきな女性なんて
いるのかな?(笑)
そこまで欲張りません。
笑顔が素敵で、女性を捨てていなくて、おしゃれな女性なら
言うことなしです。(笑)
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JOHNNY ANGEL -Shelley Fabares (1962) A Tribute to the 50th Anniversary Golden Hit