原題:VALS IM BASHIR/WALTZ WITH BASHIR(製作年度:2008年)。 4月23日、雨。
"戦場でワルツ"は、兵士が恐怖のあまり、ショパンのピアノでワルツを踊るように銃を乱射することから来ている。
主人公の彼は、戦友から犬に追いかけれる恐怖の夢を日々見ることを聞く。
だが、彼は戦友と同じ現場にいたはずなのに、彼には戦場での記憶がなかった。
恐怖やショックがあまりに強く大きすぎると記憶をなくすことが人間にはあるらしい。
彼は、医者に勧められて、かつての戦友を訪れ戦場での話を聞いていく。
彼は、徐々に断片的に記憶を取り戻していく。
これは、彼が友人と語り合うシーンである。
ご覧のように、この映画は「アニメーション」である。
だが、宮崎駿作品のアニメーションのような色彩鮮やかなものとはだいぶ趣・雰囲気が違う。
宮崎のはオールカラー、こちらはあたかもセピア色の二色のような感じだ。
それは、単に彼の記憶がセピア色だからと言うことではない。
オールカラーにしてしまうとあまりにも現実的過ぎるというか、生々しくどぎつくなってしまう。
また、動きが実際の動きのようになめらかではない。
テレビの"ゴルゴサーティーン"のアニメもそうであった。
その時も、ストップモーションのようなぎこちない動きがかえって良かった。
普通の実写の映画やアニメや3Dにする方がリアリズムがあるように思えるが、かえってリアリズムが損なっているのかもしれない。
つまり普通の映像にしてしまうと、見る側の想像力を損なってしまいかねないのだと思う。
場合によっては、色調や動きの制限・制約がある方が、かえって我々の想像力が膨らみ、台詞もより味わえることもあるような気がするのだ。
私は、予告編を以前見た時は、このぎこちなさに違和感・おかしいと思っていたのだが、
今回、本編を見てその試みはかえって成功しているとのだと思った。
彼が記憶を取り戻した時、実際の映像が流れ、映画はおわった。
少し不謹慎だが私にはかえって実際の映像の方がリアリティ・迫力が無く、かなり無機質に感じた。
確かにその映像はきめが粗く、色調・色彩はクリアではなかったのではあるが。
だが、映画の出来と言うとやはりイマイチであった。
それは、制作者を見れば明らかだ。
イスラエル・アメリカ・フランスのサイドが作った限界はとても大きい。
虐殺の一番の責任は本来イスラエルとアメリカにあるのに、キリスト教徒グループにその責任があると言わんばかりだ。
彼は、悲惨な現実に大きなショックを受けるのだが、彼はその現実にほとんど無関係・責任がないかのようなのだ。
虐殺されたパレスチーナの人々の悲しみや怒りとは無縁の所に彼らはやはりいるのだ。
私には何とも後味が悪かった。
多くの国際的賞を取り、佳作ではあるが、やはりオスカーには届かない・及ばない。
『シリアの花嫁』にも同様の思いを感じた。
大国・抑圧する側・人々を高見から見下ろす、そんな傲慢さを感じる。
もう一つの問題点は、ヘブライ語と言うことだ。
これは制作者の責任ではないが、この映画の重要なポイントは会話そのものにもあるのだから、
ヘブライ語が分からない私としては、字幕ではなく、日本語の吹き替えの方が良かった。
"指圧"はヘブライ語でもそのまま「Si-a-tu」だった。
怖い夢を見る友人に対して、「指圧をしたか?」と聞いていた。
この日のもう一本は『シリアの花嫁』であった。それ以前見たので『戦場でワルツを』だけを見た。
私の『シリアの花嫁』のブログはここ です。
"戦場でワルツ"は、兵士が恐怖のあまり、ショパンのピアノでワルツを踊るように銃を乱射することから来ている。
主人公の彼は、戦友から犬に追いかけれる恐怖の夢を日々見ることを聞く。
だが、彼は戦友と同じ現場にいたはずなのに、彼には戦場での記憶がなかった。
恐怖やショックがあまりに強く大きすぎると記憶をなくすことが人間にはあるらしい。
彼は、医者に勧められて、かつての戦友を訪れ戦場での話を聞いていく。
彼は、徐々に断片的に記憶を取り戻していく。
これは、彼が友人と語り合うシーンである。
ご覧のように、この映画は「アニメーション」である。
だが、宮崎駿作品のアニメーションのような色彩鮮やかなものとはだいぶ趣・雰囲気が違う。
宮崎のはオールカラー、こちらはあたかもセピア色の二色のような感じだ。
それは、単に彼の記憶がセピア色だからと言うことではない。
オールカラーにしてしまうとあまりにも現実的過ぎるというか、生々しくどぎつくなってしまう。
また、動きが実際の動きのようになめらかではない。
テレビの"ゴルゴサーティーン"のアニメもそうであった。
その時も、ストップモーションのようなぎこちない動きがかえって良かった。
普通の実写の映画やアニメや3Dにする方がリアリズムがあるように思えるが、かえってリアリズムが損なっているのかもしれない。
つまり普通の映像にしてしまうと、見る側の想像力を損なってしまいかねないのだと思う。
場合によっては、色調や動きの制限・制約がある方が、かえって我々の想像力が膨らみ、台詞もより味わえることもあるような気がするのだ。
私は、予告編を以前見た時は、このぎこちなさに違和感・おかしいと思っていたのだが、
今回、本編を見てその試みはかえって成功しているとのだと思った。
彼が記憶を取り戻した時、実際の映像が流れ、映画はおわった。
少し不謹慎だが私にはかえって実際の映像の方がリアリティ・迫力が無く、かなり無機質に感じた。
確かにその映像はきめが粗く、色調・色彩はクリアではなかったのではあるが。
だが、映画の出来と言うとやはりイマイチであった。
それは、制作者を見れば明らかだ。
イスラエル・アメリカ・フランスのサイドが作った限界はとても大きい。
虐殺の一番の責任は本来イスラエルとアメリカにあるのに、キリスト教徒グループにその責任があると言わんばかりだ。
彼は、悲惨な現実に大きなショックを受けるのだが、彼はその現実にほとんど無関係・責任がないかのようなのだ。
虐殺されたパレスチーナの人々の悲しみや怒りとは無縁の所に彼らはやはりいるのだ。
私には何とも後味が悪かった。
多くの国際的賞を取り、佳作ではあるが、やはりオスカーには届かない・及ばない。
『シリアの花嫁』にも同様の思いを感じた。
大国・抑圧する側・人々を高見から見下ろす、そんな傲慢さを感じる。
もう一つの問題点は、ヘブライ語と言うことだ。
これは制作者の責任ではないが、この映画の重要なポイントは会話そのものにもあるのだから、
ヘブライ語が分からない私としては、字幕ではなく、日本語の吹き替えの方が良かった。
"指圧"はヘブライ語でもそのまま「Si-a-tu」だった。
怖い夢を見る友人に対して、「指圧をしたか?」と聞いていた。
この日のもう一本は『シリアの花嫁』であった。それ以前見たので『戦場でワルツを』だけを見た。
私の『シリアの花嫁』のブログはここ です。