まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

西国三十三所めぐり~熊野本宮大社へ

2021年08月21日 | 西国三十三所

西国1番の青岸渡寺を回り、そろそろ大阪に向けて戻ることにする。現在の時刻は12時を回ったところで、レンタカーの返却は18時。まあ、間に合うとは思うが・・。

ここまで来たので、熊野三山めぐりの最後である熊野本宮大社に参詣し、そのまま十津川村を経由して紀伊山地をぶち抜くルートで戻ることにする。再び国道42号線に戻り、新宮高校がある交差点から国道168号線に入っていく。熊野川に沿って走る国道である。熊野本宮までは35キロとある。

熊野川に沿って走るうち、雲が広がって来る。朝は雲一つない晴天だったのだが、場面が山になるとまた変わりやすい天候となる。

そして突然の大粒の雨。前日も、昼間の時間に局地的な大雨に遭った。

かと思えばすぐに青空が姿を現す。引き続き熊野川だが、川幅に比して水量が極端に少なく、河原の砂利が目立つ。結構中まで乗り入れるクルマも目立つ。

熊野本宮大社に到着。隣接する駐車場にクルマを停めて、熊野大権現の幟がずらりと並ぶ長い石段を上がる。途中、祓戸大神に手を合わせる。

神武東征の折、熊野から八咫烏の導きで橿原にて即位したことで知られている。熊野本宮大社の創建は不明だが、第10代の崇神天皇の頃、家都美御子大神、熊野夫須美大神、速玉之男大神の神勅により現在の大斎原の地に社殿を設けたという。この家都美御子大神は熊野坐大神とも呼ばれ、奈良時代以降は仏教とも融合して、熊野権現として信仰を集めることになった。言うまでもなく、全国の熊野大社の総元締めである。

その後、平安から鎌倉にかけて多くの法皇や女院たちが参詣したのをはじめ、中世以降は庶民も多く参詣するようになり、「蟻の熊野詣」と呼ばれるほど盛んになった。

かつては上社・中社・下社十二殿を有していたが、明治の大水害で中社・下社が倒壊し、現在の地に上社を移して現在に至る。

ここまでクルマでやって来たわけだが、かつての熊野詣はいくつかのルートがあるにせよ、いずれも難所が続いており、厳しい道中だった。それだけに熊野本宮までたどり着いた感動はひとしおだっただろう。

新宮、那智と回って本宮に来たわけだが、これまでの朱色のイメージから昔から続く木の色が基調で、重みを感じる。また神門の両脇にはメッセージが書かれ、訪れる人に訴えるものがある。

門をくぐり、第一殿から第四殿まで順に手を合わせる。

境内には八咫烏の風鈴や、黒い八咫烏ポストもある。

社務所の玄関に「前」という文字が掲げられている。熊野本宮の宮司の揮毫で、「祈コロナ終息」とある。毎年、来年への期待を込めて一文字をしたためるそうで、この「前」も昨年の12月に書かれたものとある。ちょうど昨年はコロナ禍で足踏みの1年で、新しい年に少しでも前(未来・夢・目標)を見据えた1年になるようにとの願いだが、8月を迎えた現時点で、その願いは果たして叶ったのかどうか・・・。

これで熊野三山めぐりを無事に終えた。これから遅めの昼食としようかと周囲を回るが、入りたい店もなく、多少これかなという店も行列で、この日も昼食は欠食。まあ、この後紀伊山地の山深いところを抜けなければならないので悠長に食事をしている場合ではないのだが、ともかく大阪に向けて出発・・・。

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第1番「青岸渡寺」~西国三十三所めぐり3巡目・29(熊野三山めぐりその2)

2021年08月20日 | 西国三十三所

西国四十九薬師めぐりから西国三十三所めぐりにバトンタッチして、そこに熊野三山めぐりを組み合わせるというありがたい旅。

熊野速玉大社を出て、那智山、青岸渡寺を目指すべく国道42号線をそのまま進む。途中から紀勢線の電化区間に沿って走り、海べりも通る。

那智駅前から山道に入る。途中、大門坂の入口を通るが、その向かいの駐車場にはかなりの数のクルマが停まっている。それだけ熊野古道の最後を歩いて上がろうという人が多いのかな。この暑い最中だが・・。

この道を自分で運転して上がるというのも楽しみではある。いくつかのS字カーブを曲がりつつ、その前方にちらりと那智の滝のてっぺんが見えるのもよい。

那智の滝への入口である飛瀧神社前を過ぎ、土産物・食堂が並ぶ通りを行く。そのまま観光センターまで走り、バス停と合わさった無料の駐車場に停める。

さて、ここから400段あまりの参道である。ちょうど大門坂からの熊野古道を上がって来る人もいるが、一様に汗だくで疲れているようだ。そういう中でもきちんとマスクをしているから余計にしんどそうだ(特に親の言いつけをきちんと守る子ども)。屋外の歩きで、人混みがそれほどでもなければマスクは外してもいいと言われている。熱中症とコロナ、どちらが命に関わることだろうか。私はマスクを外し、ただ外道の輩ではないことを示すために手に持って石段を上る。

那智大社と青岸渡寺の分岐に到着。これまでもそうなのだが、まずは那智大社への石段を上がる。西国三十三所をめぐっていても、やはりここは那智大社があって、青岸渡寺はその次という位置づけに見える。

那智大社の拝殿にて手を合わせる。那智大社の祭神は熊野夫須美大神で、速玉大社にも祀られていた。

その脇の入口から青岸渡寺に入る。かつては神仏習合で、青岸渡寺は元々熊野那智権現の中で如意輪観音を祀る如意輪堂として存在していた寺である。本堂は豊臣秀吉により再建されたもの。明治の神仏分離、廃仏毀釈の中でも、西国三十三所の第1番ということもあり、破壊されずに残された。そして新たに青岸渡寺として独立して、現在にいたる。まあ、こうした山の中に並ぶのだから、那智大社、青岸渡寺それぞれがお互いに人々の願いを叶えましょうやという感じだ。

その青岸渡寺だが、ちらほら「施無畏」の文字が入ったTシャツ姿の人が本堂の内外で目につく。施無畏とは観音菩薩の別称だが、西国めぐりのグループか何かだろうか。

本堂の外陣にてお勤めとする。ちょうど内陣ではどなたかのご祈祷か、観音経の偈文が唱えられていた。

そして先達用納経帳の第1番に朱印をいただく。これで西国めぐりの3巡目は残り4ヶ所。このうち第14番の三井寺は8月末に訪ねる予定で、それ以外の残り3ヶ所のどこで満願となるかが楽しみである。

那智大社~青岸渡寺と来れば、この先那智の滝まで下りるコースである。滝と三重塔のツーショットを収めた後、ぶらぶらと坂道を下る。

そしてやって来た那智の滝。ここ飛瀧神社は現座には那智大社の別宮だが、那智大社よりも人出が多く、そこらじゅうで記念撮影である。先ほど、那智大社と青岸渡寺の神仏習合、神仏分離がどうのこうのと書いたが、ここ那智全体では、この「瀧」が「絶対」といっていいだろう。そもそもこの滝を拝むことが那智権現の成り立ちであった。

飛瀧神社では延命長寿の水をいただける。参入料(300円)を納めると、滝により近づくことができる。その前に湧き出ている水を汲む。ちょうどペットボトルがあったのでこちらにいただき、この先の道中でいただく。ありがたいものだ。

これで那智を回り、今度は車道を歩いて上って観光センターの駐車場に戻る。この先は熊野本宮大社にて熊野三山めぐりとして、大阪に向かうことに・・・。

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西国三十三所めぐり~熊野の奇勝と新宮速玉大社

2021年08月19日 | 西国三十三所

8月1日、前日に引き続きレンタカーを使用して、熊野市から熊野三山を回って大阪に戻り、新幹線で広島に戻る1日である。ここからは旅のカテゴリを西国三十三所とする。

朝食を終え、7時半前に「ホテルなみ」をチェックアウト。ホテルの前が鬼ヶ城へ続く道となっていて、そのまま鬼ヶ城センター前に駐車する。こちらが鬼ヶ城の東口で、反対側の西口まで約1キロの遊歩道が続いている。太陽も空高く、また海や岩場に照り返すので歩く前から暑いのだが、ともかく西口まで向かうことにする。

鬼ヶ城はかなり以前に一度訪ねたことがあるが、その時はおそらく熊野市駅に近い西口から回ったのではないかと思う。ならば今回は逆方向からとなる。

その昔、熊野の海を荒らし回り、鬼と恐れられた海賊の多娥丸(たがまる)という人物が根拠にしていて、それを坂上田村麻呂が征伐したという伝説がある。そのことから鬼の岩屋、鬼ヶ城という名前になったが、いかにもそうしたならず者が根城にしていてもおかしくない造りである。

鬼ヶ城は志摩半島から続くリアス式海岸の最南端で、熊野灘の波に削られた無数の海食洞が、地震によって隆起したものという。さすがに風だけではこれだけの「自然の造形物」はできないだろう。

まず目を見張るのが千畳敷。高さ15メートル、広さ1500平方メートルある。1500平方メートルは畳に換算すると900畳ほどというから、千畳敷という表現も言い得ている。ここが多娥丸の根城だったと言われると素直に納得する。

千畳敷から西は厳しい地形が続く。岩を加工して階段にしたり、手すりも設けられているが、結構スリルがある。また岩と岩の隙間も多く、鉄橋も架けられているが、一つ間違えば落ちそうだ。これまでにも、台風などの被害で通行止めとなることもしばしばあったそうだ。

サルでもここから引き返す猿戻り、犬もここから引き返す犬戻りという断崖もある。緊張と暑いのとが合わさって結構汗だくになる。そんな中、多少足元に余裕がある岩場では釣り糸を垂らす人もちらほら見かける。これぞ磯釣りという光景だ。実際、鬼ヶ城は釣りのスポットとしても知られており、結構大物も揚がるそうだ。

その後、鬼の見張り場、水谷、鬼の洗濯場などの場所を過ぎる。それぞれ鬼の生活の場としての名前だが、海賊たちもこうしたところを使っていたのだろうか。

30分ほどで西口に近づき、遠くに七里御浜を見る。リアス式海岸は一転してまっすぐ伸びる砂浜の海岸線となる。この組み合わせも不思議といえば不思議である。

さて、体は西口に来たがクルマは東口に停めている。鬼ヶ城をもう一度眺めながら東口に戻るところだろうが、先ほどの断崖で結構ヒヤッとしたものだから1回で十分である。松本峠をくぐる歩行者用のトンネルがあるので、そちらをくぐることにする。

集落の先にトンネルの入口がある。木本隧道と呼ばれているが、現在の国道42号線や紀勢線のトンネルよりも古く大正時代の開通である。509メートルは当時の車道トンネルとしては長いもので、かつては国道42号線の一部としても使われた。新たに国道42号線の整備で鬼ヶ城トンネルができたので、そちらを自動車専用にして木本隧道は歩行者・自転車用となった。熊野古道ならばこの上の道を行くところだが、ここはショートカットする。トンネルの中なので多少は涼しい。

東口に戻ってレンタカーで出発する(これなら、ホテルの駐車場に停めておいてもよかったかなと思う)。今度は国道トンネルを通り、熊野市の市街地に入る。国道沿いの堤防の向こうが七里御浜で、先ほどとは対照的な穏やかな景色が広がる。その昔、伊勢方面から熊野詣に来た人たちもホッとしたことだろう。

そんな中でアクセントなのが獅子岩。

その南にあるのが花の窟神社である。ここも熊野古道の世界遺産の一つである。以前に三重県内をサイコロの出目に従ってめぐる旅をしたことがあるが、その時に熊野市まで南下して(北は桑名から南は熊野市まで、三重県は「長い」と感じた次第)花の窟神社にも参詣した。

花の窟神社はイザナミノミコトを祭神として、日本最古の神社と言われている。国産み伝説の中で、イザナミノミコトは火の神であるカグツチノミコトを産んだ後に陰部に火傷を負って亡くなるのだが、その亡骸がここ熊野に葬られたという。同じようにイザナミノミコトが葬られた場所として、中国地方では比婆山が該当するというが、まあ、その辺りは諸説いろいろということで。

神社といっても立派な社殿があるわけではなく、目の前にそびえる巨大な岩がご神体である。この麓の岩陰にイザナミノミコトが葬られたとして、玉垣で囲んだ拝所がある。

またその対面には、火の神のカグツチノミコトの墓所とされる岩もある。一応、母と子が向き合ってという形である。

花の窟神社で知られるのは年に2回の大祭。高さ45メートルのご神体の岩の上から巨大な綱を境内のご神木に渡す「御綱掛け神事」が行われる。しかしこの1300年以上続くというこの神事も、昨年の10月、そして今年の2月と、コロナの影響で中止されたという。とすると、今垂れ下がっている綱は昨年の2月の神事のものかな。コロナが騒ぎになり始めたのは確かその頃だから、コロナの災厄がこの綱にも集まっているようにも感じられる。

国道42号線を走る。左手には七里御浜が広がるが、道路との間には防風林があって見通すことはできない。そんな中、熊野市から御浜町に入り、七里御浜ふれあいビーチに差し掛かる。ちょっと面白そうなのでこちらに立ち寄ってみる。

ヤシの木など植えて南国ムードを出している。三重県とは思えない景色だが、この向こうはどこまでも続く太平洋。ここまで来た甲斐があったと思う。

熊野川の橋梁を渡り、これで長かった三重県とはお別れ、ここから和歌山県に入る。熊野川を渡ってすぐのところに、熊野三山の一つである熊野速玉大社がある。駅から中途半端に離れていることもあり、鉄道の旅で新宮は何度か通っているがかなり前に一度参詣したくらいだが、今回は絶好の機会ということで、まずはこちらのお参りとする。

熊野速玉大社・・・かつては紀勢線の夜行列車に「はやたま」というのがあったがここから来ている。その昔、熊野速玉大神と熊野夫須美大神が神倉山のゴトビキ岩に降り立ち、景行天皇の時代に現在の地に遷座したという。新しく宮が設けられたから、この地を「新宮」と呼ぶようになったと伝えられる。

「新宮」という名前は「熊野本宮」に対する「新宮」だと思っていたのだが、そうではないようだ。当の速玉大社がそう言うのだから、そういうことなのだろう。

現在改装のため休館中の神宝館の前に、武蔵坊弁慶の木像がある。ここ新宮は弁慶の出身地という・・・。あれ、弁慶は同じ紀州でも田辺の生まれではなかったか。いや、以前に島根県に行った時には松江の出身という案内もあった。父親が熊野大社の別当とされることからこの新宮出生説もあるそうだが、物心ついた時から一族で住んでいたわけでなく、各地で修行生活を送っていたら、弁慶本人ですら自分がどこの生まれかわからなくなった・・ということもあるのではないかと思う。

朱塗りの拝殿にて手を合わせる。速玉宮、結宮、上三殿、八社殿などを順にお参り。今は神社として神を祀るが、かつては神仏習合の歴史があった。境内にそうした案内はないが、記録によると速玉宮に祀られる熊野速玉大神の本地仏は薬師如来、結宮に祀られる熊野夫須美大神の本地仏は千手観音という。

その脇に新宮神社というのがある。新宮市内のさまざまな神々を一緒に祀ったそうで、ここにお参りすればあらゆるご利益が一気に受けられそうな気がする。ここにも手を合わせた後、ちょうど神官の方たちもお参りをしていた。

拝殿の前に「熊野御幸」と書かれた石碑がある。平安時代後期から盛んに行われた皇族方の熊野参詣の履歴がずらりと並ぶ。合計23名、141回(度)とあるが、最も多いのが後白河上皇(法皇)の33回、次いで後鳥羽上皇の29回、鳥羽上皇(法皇)の23回、白河上皇(法皇)の12回などとなっている。その中に交じって、花山法皇の1回というのがある。西国三十三所の中興の祖である花山法皇だが、この1回の時に那智山にて修行し、青岸渡寺を含む三十三所のベースを作ったと伝えられる。

それにしても、一度や二度ならまだしも、33回も行くとはかなりのものである。当然現代のような交通手段があるわけでなく、1回の御幸で往復1ヶ月ほどかかるといわれており、上皇(法皇)となると当然多くのお供がつくわけで、費用も多くかかったはずだ。まあ、それだけ力を持っていたとも言えるが・・。

これで熊野三山のうち熊野速玉大社を終え、いよいよ西国三十三所の那智山、青岸渡寺に向かう・・・。

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西国三十三所めぐり3巡目~乗り継ぎにて帰広

2021年07月25日 | 西国三十三所

西国33番の華厳寺の参詣、満願そばの昼食を終えて谷汲山のバス停に戻る。12時12分の谷汲口行きまで少し時間があるので、近くにある旧谷汲駅に向かう。

名鉄の谷汲線が廃止されたのはちょうど20年前、2001年のこと。駅舎は現在も谷汲昆虫館として使われており、ホーム、車両もそのまま保存されている。こういうガタゴト電車というのも全国的にほぼなくなりつつあるのではないかと思う。

谷汲口駅行きのバスは、往路に乗ったのと同じ揖斐タクシーが運行する車両。乗客は私だけで、本来なら途中の停留所もあるのだが放送も流れずそのまま駅に直通する。送迎バスにでも乗ったような感じで駅に到着。

次に乗るのは12時25分発の大垣行き。しばらく待合室にいると、このような貼り紙を見つけた。谷汲山行きのバスの案内だが、土休日ダイヤでは1日4往復の運行のところ(前日の7月10日までは谷汲農協前まで延長運転していた模様)、平日は「揖斐川町はなももバス」という予約制の乗合バスでの運行というものだった。さすがに土日は観光客の便を図ったようだが、平日となると果たして地元の人ですらどの程度利用するのやらというところなのかな。バスは当日の1時間前まで電話予約ができるとあるが、平日にふらりと華厳寺を訪ねようという客は要注意だ(同じ貼り紙は車内にもあった)。

大垣行きが到着。車内はオールロングシートだが、冷房も効いていて快適である。谷汲口を出た時は私を含めて乗客は3人だけだったが、本巣、モレラ岐阜など駅ごとで乗車があり、立ち客も出るほどになった。

大垣ではすぐの接続で米原行きの列車が出るが、コインロッカーに荷物を預けているし、汗をかいたので着替えもしたい。米原行きを1列車遅らせたが、それでも当初の予定より早く進んでいる。

駅ビルをちょっとのぞくと、手羽先の「世界の山ちゃん」がテナントで入っている。この店はランチ営業もやっていて、ということは当然昼飲みもやっていて、テーブルにジョッキが乗っているのも見える。思わず唾をごくりとしたが、ここは見送りとする(実は「世界の山ちゃん」は広島にも支店があるそうで、頃合いを見て行ってみたいものだ)。

13時42分発の大垣始発米原行きに乗る。往路は夜行バス~近鉄特急~名鉄に乗り、復路はJR東海道線~新幹線というルート。今回もある意味「循環旅行」と相成った。

関ヶ原の合戦場や伊吹山の景色を楽しみ、米原に到着。

普段の感覚ならすぐに接続の新快速に乗るところだが、今回は広島になるべく早く帰るということで、米原から新幹線に乗る。その新幹線も当初、米原15時10分発の「こだま723号」に乗る予定だったが、1本早い14時53分発の「ひかり643号」に変更。

米原から新幹線に乗ることはこれまでにあったかな?というくらいかえって新鮮である。ホームで待つうち、通過する「のぞみ」の速さに改めて感心したり。

米原から近江平野に入り、右手に繖山を見る。西国32番の観音正寺の幟がちらりと見える。

新大阪に到着。次は「のぞみ」に乗り換えればいいのだが、少し時間を空けて16時06分発の「みずほ609号」に乗る。これも後続の「さくら565号」から変更したのだが、やはり「のぞみ」よりゆったり快適なシートを選びたい。

ホームの窓から、ダイキンエアコンの広告にある温度計をのぞく。新大阪駅に来るといつもこの温度計をチェックするのだが、この時間で34℃を示している。これはたまらん。

直前に変更したにも関わらず窓側、隣席なしという席が取れて、これから広島に戻るまでの時間で少し早いが一献とする。「みずほ」は途中新神戸と岡山にしか停まらないので、あまりグズグズとはしていられないが。緊急事態宣言の解除で新幹線改札内の売店でもアルコールの販売が復活しており、ホッとする。

アテの中で今回よかったのは、「ささ燻」というもの。若狭名産のささ漬を燻製風にアレンジしたもの。白ワインにも合う一品だ。

乗り過ごすと小倉まで行ってしまうのでそこは気をつけながら車内での時間を過ごし、17時33分、広島に到着。大相撲中継には間に合わないがサザエさんは観られるくらいに帰宅できる時間である。このくらいだと、翌日にも疲れが残らずに済む。

さてこれで西国3巡目も残り5ヶ所、これが満願となるといよいよ「中先達」への昇補となる。西国めぐりも一つの区切りを迎えることに・・・。

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第33番「華厳寺」~西国三十三所めぐり3巡目・28(まだ満願ではないですが・・)

2021年07月24日 | 西国三十三所

大垣から養老鉄道、揖斐川町コミュニティバスを乗り継いで谷汲山に到着。帰りは逆に樽見鉄道の谷汲口に抜けることにしてバスの時間を確認し、ムワッとした暑さの中、山門までの参道を歩く。

さまざまな巡拝用品や、納経軸の軸装を扱う店も並ぶ。満願となった帰りに店に預け、完成したら送ってくれる仕組みだ。私も1巡目の途中から親に納経軸を託され、その他寺院ということで信濃の善光寺と高野山金剛峯寺の朱印を集め、親が心当たりある表装店に出して仕上げてもらった。もっとも、その後軸を広げたのは一度だけで、今も実家の押し入れに眠っているはずだ。

その代わり、3巡目では「西国観音曼荼羅」ということで、八角形の札に記された太字と朱印を集めている。この用紙と、33枚の札を貼りつける台紙は西国先達の特典でいただいたが、全部集まった時には額に入れようと思う。もっとも、額の大きさは80cm×77cmと結構大きい。新幹線で持ち帰るにはじゃまだろう。別送とかしてくれるのかな。

山門に到着。境内にはちらほらと参詣者の姿も見える。参道の木陰に入ると多少は暑さもましになる。両側に「南無十一面観世音菩薩」の大きな幟を見ると華厳寺に来たという感じがする。

本堂に入る。立ち止まるとかえって汗が噴き出て、ここで少し休んでからお勤めとする。

満願の寺ということで、満願記念の額などがさまざま奉納されている中、本堂の外側に大相撲の番付を見つける。こういうのがあったとは初めて気づいた。昭和37年4月の彦根場所とあり、横綱は大鵬、若乃花(初代)、柏戸の3人である。ちなみにこの巡業の前後では、春場所で大鵬との優勝決定戦に敗れたものの、関脇の佐田の山が場所後に大関昇進を決定、そして、夏場所前に若乃花が引退している。栃若時代から柏鵬時代へと移り変わる頃に当たる。前日に大相撲を観戦したこともあり、ついこうしたものに目が行ってしまう。

本堂の裏に回り、身代わり地蔵にお参りする。水で濡らしたお札を地蔵像の、自分の体でよくなりたい部位に貼りつけるのだが、もう私なんか貼りたいところだらけである。

笈摺堂、満願堂と回る。お堂の順番で行けば満願堂が西国三十三所の本当の最後かなと思うが、正式には本堂(現世)の次に満願堂(過去世)と回り、最後に笈摺堂(未来世)の順番だという。まあ、ちょっと考えれば、本堂にお参りして、満願堂で満願を報告し、最後に笈摺を脱いで奉納する・・ということでわかることだが。

華厳寺の納経帳はこの3つのお堂が1セットで、並び順も本堂(大悲殿)、満願堂、笈摺堂となっている。

お参り後は、本堂の柱に打ち付けられた精進落としの鯉に触れる。本来ならば満願した巡礼者がこの鯉に触れて、精進生活から解放され、満願の祝いとして酒、肉、魚を口にすることができる・・・のだが、もう私なんか最初から関係ないところだ。

いや、西国三十三所の1巡目の満願を華厳寺で迎えた時は、やはり一つの感慨があったのだが、2巡目は札所順関係なく、華厳寺も途中でたまたまタイミングが合ったので先にお参りしており、「ここで満願」ということはなかった。そして、西国四十九薬師めぐりとも組み合わせて回っている3巡目も、華厳寺を最後にすればよいものの、名古屋に相撲を観に行くそのついでに行ってしまおう(そう、広島から何度も足を運ぶのもしんどいので)ということで、28番目と後半だが満願前にお参りとなった。

まあ、そこは自分のペースで。別に西国先達会も固いことは言わないだろう。

これで西国三十三所の3巡目で残るのは第1番青岸渡寺、第10番三室戸寺、第11番醍醐寺、第14番三井寺、そして第22番総持寺の5つ。いずれも西国四十九薬師めぐりと絡めており、どこで満願になるかはサイコロ次第である・・。

バスまで時間があるので、ここで昼食とする。入ったのは山門のすぐ脇にある富岡屋。明治以来の老舗で、建物も昔ながらのもの。エアコンはないが、よほど私が暑がっているように見えるのか、店のおばちゃんが扇風機を全開にして風を送ってくれる。

そんな暑い中だが、いただくのは温かい「満願そば」。メニューの中では、精進落としで、夏場のスタミナ補給ならウナギにも目が行くのだが、ちょっとお値段が・・。

「満願そば」は、そばの上にニジマスの甘露煮やシイタケ、タケノコがトッピングされた一品。五木寛之「百寺巡礼」の中でも紹介され、店のほうもPRのネタにしている。これはつゆも全部飲み干すのがポイントで、丼の底には「満願成就」の文字が現れる。

私の3巡目はまだ満願になっていないが、この先も巡拝を続けていこう・・・。

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西国三十三所めぐり3巡目~一宮から揖斐川町へ

2021年07月22日 | 西国三十三所

7月10日、大相撲の観戦後、地下鉄で名古屋駅に戻る。これから、この日の宿泊地へ移動である。

翌日は大垣から養老鉄道で揖斐、もしくは樽見鉄道で谷汲口まで移動して華厳寺に向かう。これに合わせて宿泊を名古屋駅近辺、あるいは大垣駅近辺のどちらにしようかと考えていたが、この時点で名古屋市はまだまん延防止等重点措置地域だったし、大垣まで行くとちょっと遅いかなというところ。また、名古屋、大垣は過去にも宿泊したことがある。

そこで出たのが、途中の一宮。なかなか愛知県内に宿泊する機会もないし、名古屋からもほど近い。札所めぐりと合わせて、初めての宿泊地も増やしたいところだ。

一宮はJR、名鉄が接しているが、これもせっかくなので名鉄に乗って行こう。ちょうど岐阜行きの特急が出発するところで、そろそろ外が暗くなる中、濃尾平野を快走する。

19時前、名鉄一宮に到着。コンコース、駅前には七夕飾りが見られる。毎年7月、一宮では大規模な七夕祭りが開かれていて、多くの人を集めるそうだ。ただ今年はコロナの影響でパレードや歩行者天国などのイベントは取り止めとのことで、せめて飾り付けだけでもというところのようだ。

今回宿泊するのは、名鉄側、駅西側のABホテル。一宮はもっと賑やかなところなのかなと思ったが、商店街や飲食店は反対側のJR、駅東側に集まっているようだ。

これで旅装を解き、まずは大浴場に向かう。日本各地の名湯を本物のように再現したのがABホテルチェーンの売りの一つのようで、この日は「嬉野の湯」とあった。

一宮の街中に出てもよかったのだが、今回は夕食の弁当付きのプランを選んだ。名古屋場所からどのくらいの時間で移動するか読めなかったし、外での一献はいいかと部屋でゆっくりするつもりだった。他のプラントの差額が500円程度だったので、弁当といってもそれなりのものかなと思い、駅構内のコンビニでアルコールの他に何品かつまみを買って持ち込む。

フロントで渡された弁当がこちら。地元の仕出し弁当店の手によるもので、和風のおかずが多い。これはこれでヘルシーではないかと思う。コンビニで買ったものと合わせて、しかるべく食べ、しかるべく飲んで良い心持である。

この後はパソコンにてブログ記事の更新を行う。テレビ?NHKのスポーツニュースだけは見たかなあ・・。

翌11日、レストランの開店に合わせて朝食を取り、しばらく部屋でゆっくりした後に出発。とりあえず大垣に向かうことにして、JR乗り場に向かう。やって来た快速の大垣行き。車内ではハイキング姿の人が目立つ。その人たちは岐阜で一斉に下車したが、岐阜近郊なのか、高山線に乗り換えるのか。

大垣に着いた。大きな荷物をコインロッカーに預けるため、いったん改札を出る。谷汲山華厳寺に向かうには、9時11分発の樽見鉄道で谷汲口に行くか、9時28分発の養老鉄道で揖斐に行くか。えらいゆったりしたプランだが、それぞれの駅からのバスもゆったりした時間にしか出ないので・・。時間的には樽見鉄道の発車に間に合うかなと思ったが、今回は養老鉄道から行くことにする。

養老鉄道の大垣は行き止まり式のホームで、桑名方面、揖斐方面それぞれの列車を分ける構造。ちょうど桑名行きの列車が発車するところだったが、初めて目にするステンレス車両である。元東急の車両で、2018年から順次譲渡されたものだという。今は分離されたとはいえ、元々近鉄の路線だったところに元東急の車両が走るというのも複雑なところだ。

これから折り返しで乗るのは、かつての近鉄のマルーン一色の車両。やはりこちらのほうが似合っているように思う。

乗客もほとんどいない中、大垣の近郊を走り、終点の揖斐に到着。

揖斐駅前から出る、揖斐川町コミュニティバスに乗り換える。揖斐駅発の便は1日2本で、これから乗るのは始発の10時発。駅前にはマイクロバスが停まっている。以前に谷汲山から揖斐駅まで利用した時は名阪近鉄バスの普通の路線バスの車両だったと思うが、車両も小型に、そして運行会社も揖斐タクシーとなっている。やはり利用客が少ないのか、数年前と比べても運行を縮小しているようだ。

バスは揖斐川を渡り、ショッピングセンターや町役場などを回り、次第に山深くなってくる。

谷汲山に到着。これから参道を歩いて華厳寺に向かうが、さすがに7月半ばとなると歩くのが暑い・・・。

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西国三十三所めぐり3巡目~もう何が目的なのやら、名古屋経由で谷汲山を目指す

2021年07月21日 | 西国三十三所

7月の大相撲名古屋場所は横綱白鵬が6場所連続休場明けからの復活で45回目の優勝、それも全勝優勝という結果になった。そして綱取りを目指す照ノ富士も、千秋楽で白鵬との全勝対決には敗れたものの、14勝1敗の好成績で、先場所、先々場所の優勝と合わせて場所後の横綱昇進を決めた。

白鵬の取り口への賛否両論はあるが、千秋楽の両者の一番はお互いの意地がぶつかる激しい相撲で、実に見ごたえがあった。千秋楽当日は朝から出かけていたのだが(それはまた書くことに)、早めに切り上げて帰宅して、その時をテレビ桟敷で観ることができてよかった。

さて、その名古屋場所だが中盤、7日目の観戦にわざわざ出かけた。観戦記は以前の記事にしたのでさておき、ここからはこれに絡めての話である。

7日目の7月10日は名古屋で相撲観戦して1泊、翌11日は西国三十三所第33番・華厳寺に向かうということで、西国三十三所めぐりと大相撲名古屋場所を絡めるぜいたくなお出かけだ。もっとも、華厳寺に行った後はそのままそそくさと早い時間の新幹線で広島に戻るつもりである。

その名古屋場所の開場は13時。館内飲食禁止のため事前に昼食をすませるとしても、午前中には名古屋に着いておきたい。広島から新幹線で行けば済むことだが、ここでふと、大阪から名古屋まで近鉄特急に乗ろうという気になった。デビューから1年が過ぎ、現在名阪特急「アーバンライナー」全列車で運行となった「ひのとり」である。到着から逆算して、大阪難波9時発がちょうどいいかな。そしてどうせ乗るならプレミアムシートだ。「ひのとり」はデビュー当時の3月、プレミアムシート、レギュラーシートの両方に乗ったが、あの快適な乗り心地をまた味わいたい。

近鉄特急券の発売日だが、従来は1ヶ月前からだったのが、コロナ対策で2週間前からに変更されている。感染状況次第で列車本数が変更される場合があるための措置である。その発売日にネットから申し込んだのだが、それでもプレミアムシートはほぼ満席だった。かろうじて、名古屋寄り先頭車の1人用シートを押さえる。

さて、大阪難波9時発となると、広島からの「こだま」では間に合わず、「新幹線直前割きっぷ」も使えない。「のぞみ」で行こうかとも思ったが、ここは2週間前と同様、9日夜発の夜行バスで出かけることにする。こちらは直前の照会でも席に余裕があり、無事に確保する。

これには価格面以外の理由もある。この直前、7月7日~8日にかけて中国地方にも豪雨の被害があり、広島県内のJRが8日~9日にかけて福山周辺を除いて全線で運転を見合わせた。自宅周辺も、広電は通常運転だったがJR山陽線はまる2日運休した。10日の始発から運転再開とあったが、上記のように「のぞみ」に乗るとしても、点検や何やらで山陽線の運転再開が遅れれば間に合わない恐れもある。

ならば9日夜からバスで出てしまおう。ということで、結局広電でガタコトと広島駅まで直接やって来た。

JRのコンコースに上がると、この日も全線運休だったことで改札口もロックされていた。なかなかお目にかかれない光景である。

さて、広島駅23時15分発の「グランドリーム大阪2号」に乗る。名古屋に行くことだけが目的ならば名古屋行きの夜行バスもあるのだが、予約サイトでは4列シートとある。夜行便だとちょっと抵抗があるのだが、いずれこのバスに乗る機会があるかもしれない。

今回、前方の席は埋まっていたので最後尾の座席を選ぶ。とりあえず前と横は空席のままなので、ある程度周りを気にせず移動することができそうだ。

広島バスセンター、不動院前、中筋駅と停まる。山陽自動車道に乗り、いったん消灯される。この後、深夜1時前に八幡パーキングエリアでドア開放の休憩があるのだが、そのまま気づかずに過ぎたようである。実際には休憩したのだろうが、最後尾なので前面の様子がほとんどわからず、それで気づかなかったようだ。まあ、これは夜行バスの後部座席の特徴だろう。ただ、エンジン音は響く。気になる人は気になるだろう。

やはり目覚めたのは、兵庫県に入った白鳥パーキングエリア。前と横の客がいないのでちょっと楽な体勢を取らせてもらう。これで多少はぐっすり眠れるだろう。

案内放送が入り、大阪駅に到着。次の湊町バスターミナルで下車。定刻の6時23分より若干早く着いた。

次に乗る近鉄特急は9時発。2週間前の8時発の南海特急より時間はある。そこでその時と同様、「グランドサウナ心斎橋」に向かう。夜行バスを選んだのは、この朝風呂を楽しみたいというところもあった。朝から汗を落とし、今回は休憩室でしばらく横になることもできた。朝のニュース番組では、九州南部の豪雨について中継も交えて伝えていた。

朝食は松屋のセットで済ませ、大阪難波駅に向かう。奈良線の列車が次々に発車するのを待ち、8時55分、桜川方面から「ひのとり」が入線。ホームからカメラやスマホが向けられる。この列車、プレミアムシートは満席、レギュラーシートも結構な入りだったようだ。

ハイデッカーの車内にはクリーム色の本革張りのシートが並ぶ。リクライニング、レッグレストをそれぞれ別に操作することができるし、リクライニングも前面にスライドするバックシェルタイプなので、後ろの席の客を気にすることもない。私の前に座った客もフルにリクライニングさせたが、全く気にならない。

通路の間から前方の景色をのぞくうちに、大和八木に到着。ここで最前列から3列目までの客が乗って来た。同じ年輩のグループのようだ。展望席の造りになっているとは知らなかったようで、口々に賞賛していた。

こちらは夜行バス、朝風呂の影響もありまったりしながら過ごす。大和から伊賀、伊勢に入り、伊勢中川の短絡線から名古屋線に入る。

濃尾三川を渡って愛知県に入り、名古屋に到着。久しぶりの近鉄特急を楽しむことができた。

さて、名古屋場所の開場まで時間があるので、それまでに昼食だ。いわゆる名古屋めしがいろいろ頭に浮かび、どうしようかと思ったが手軽に済ませようと、JR名古屋駅構内の「名古屋うまいもん通り」に向かう。

さまざまなジャンルの店があるが、味噌カツでビールがいいかなと・・・。選んだのは、「キッチンなごや」という店。いかにも、出張帰りでちょっと飯を食おうか、一杯やろうかというところである。味噌カツと海老フライがセットになった「金しゃち定食」を注文し、ジョッキのビールをあおる。

かくしてこちらも上機嫌になり、地下鉄を乗り継いで場所入りするのであった・・・。

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第3番「粉河寺」~西国三十三所めぐり3巡目・27(粉河から一気に大阪へ)

2021年07月19日 | 西国三十三所

6月27日、どんよりした天気の中和歌山駅から出発。前日いったん通過した粉河駅まで和歌山線に揺られる。

日曜朝のことで列車はガラガラなのだが、それをいいことにロングシートのこちらと向こうでわざわざ顎マスクで大声で会話する2人組がいる。その内容が鉄オタ的なものだったのが余計にムカつき、思わず(あくまで丁寧な口調で)「静かにしてもらえますか」と注意する。「何やこいつ」みたいな顔をして隣の車両に移って行ったが。

8時23分、粉河に到着。ちょうど雨が落ちて来た。幸い、粉河駅にはコインロッカーがあり、ここに大きな荷物を置いて寺まで歩く。両側には地元商店が並び、そろそろ開けようかというところである。粉河寺にも数回訪ねているが、この道はいつも淡々と進む印象である。

10分あまりで仁王門に到着。続いて中門である四天門をくぐる。雨も降っているので、ともかく先に本堂に急ぐ。

粉河寺の開創は奈良時代、この地の猟師だった大伴孔子古の発願によるものだが、後に豊臣秀吉の紀州攻めの兵火で焼失した。本堂をはじめとした現在の建物の多くは江戸時代のもので、紀州徳川家の保護を受けた歴史がある。

本堂の前の庭園は桃山時代の作風というが、南国らしさを感じさせる。

こちらの本堂も立派な造りで、軒下にてお勤めとする。

朱印はこちら。西国三十三所の3巡目も大詰めとなり、中先達への昇進も近づく。その中、同じ和歌山県ではもう1ヶ所、南紀の青岸渡寺が残っている。こちらは今回と同じ西国四十九薬師めぐりとの組み合わせで出かけることが決まった。西国3巡目で最後の大掛かりな札所めぐりとなるだろう。

帰りに改めて諸堂を回り、駅に戻る。ちょうど雨も止んだ。

さて、この後は京セラドームでの野球観戦のために大阪に向かう。一般的なルートなら、再び和歌山まで戻り、阪和線~大阪環状線と乗り継ぐところだが、ここは初めてのルート、かつ和歌山回りより若干早いコースを見つけた。

コインロッカーから荷物を取り出し、連絡地下道をくぐって駅の南側に出る。ここにバス乗り場があり、阪和線の熊取に向かう便が出ている。和歌山バスの運行で、1時間に1本の割合だからそれなりの本数だ。地図で見るとちょうど和歌山線、阪和線との三角形の1辺をたどることになる。

乗客は私だけで出発。このバスは犬鳴山を経由する。以前、近畿三十六不動めぐりで犬鳴山の七宝瀧寺を訪ねた時は、南海の泉佐野からJR日根野を経由する便に乗ったのだが、こういうルートもあるのかと新たに気づく。

途中で数人の乗客もあり、40分あまりで熊取駅に到着。ここからは天王寺行きの快速に乗る。

天王寺に到着。この後の野球観戦がなければ久しぶりに天王寺・アベノで昼飲みするところだが・・・。

そのまま京セラドームに移動。以前、先に記事にしたとおり10対0でバファローズがライオンズに圧勝。弘法大師、もとい宮城投手の粘投もあり、(この時点で)イーグルスと同率首位をキープした。その後は勝ったり負けたりで一気に突き放すとまでは行かず、オールスター戦、五輪中断期間を迎えて1.5差での首位。中断明けが本当の勝負だが、今後に期待したいものだ・・・。

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西国三十三所3巡目~大相撲名古屋場所7日目観戦(後編)

2021年07月13日 | 西国三十三所

大相撲名古屋場所7日目の観戦の続き。ここからは関取衆の取組である。

幕下の芝と荒篤山の一番から十両の土俵。ここは新十両を目前にしている芝が勝った。

続いては、不祥事で番付を下げ、今場所から十両に復帰した阿炎。四股でよく足が上がることで知られている。この日も大翔丸を圧倒して7戦全勝とした。

十両前半で拍手が多かったのが、魁勝。元大関・魁皇の浅香山部屋から初めての関取だが、地元愛知県西尾市出身ということでの応援である。やはり地方場所はご当地力士が人気で、幕下の取組でも、愛知、三重、岐阜、静岡各県出身と流れると拍手も大きくなる。この日の一番で勝って6勝目として、(この記事が出る)10日目で勝ち越しを決めた。

十両の土俵も背筋を伸ばして見守るのがこちらの「溜席の妖精」。結局、ここまでの名古屋場所に来たのはこの7日目だけだそうだが、14日目、千秋楽となるとまた来るのだろうか。

炎鵬が登場。各方向で炎鵬のタオルが掲げられる。若元春との一番は投げの打ち合いできわどい一番になり、物言いがついた。最後は炎鵬のちょんまげが先に土に触れたとして、若元春の勝ち。そして炎鵬は10日目にして負け越し。幕内復帰がさらに遠のいた。

十両の最後2番を裁くのは木村銀治郎。土俵では「この一番にて~、中入り~!」のいい声で拍手を受けるが、大の鉄道ファンということを近頃知った。行司の仕事の一つとして地方場所や巡業に向かう「相撲列車」の手配や座席割りも担当しており、その辺りの裏話を綴った「大相撲と鉄道」(交通新聞社新書)という一冊を読んだのがきっかけである。その中に日田彦山線の大行司駅を訪ねるくだりがあり、私もそれを読んで大行司駅を訪ねたことがある。

もし、声を出しての応援が可なら、銀治郎に一つ応援の声をかけていただろうな。

十両最後の一番は豊山が勝ち、帰り入幕に一歩前進。

そして幕内土俵入り。まずは東方から、それぞれの力士に大きな拍手が贈られ、最後は全勝の照ノ富士が締める。

一方の西方も大きな拍手があるが、やはり大関がいないのは淋しい。

そして白鵬の土俵入り。場所前はさまざまな不安説も流れていて、「序盤で黒星が先行すれば引退」とまで書いていたものもあったが、6日目を終えて全勝である。ナマで横綱土俵入りを見ることができてよかった。もっとも、次に私がナマで土俵入りを見ることができるのがいつになるか、その時は現役なのかはまだわからないが・・。

気は早いが、もし照ノ富士が横綱になったならば、土俵入りはやはり師匠(旭富士)、兄弟子(日馬富士)と同じ不知火型になるのかな。

中入後は三重出身の千代の国対旭大星から始まり、千代の国の勝ち。

続いて、新入幕の一山本、そして帰り入幕の宇良がいい相撲で白星を挙げる。

これもご当地ということか、タオルも多く掲げられ、懸賞も多かったのが石川県出身の輝。徳勝龍に勝って拍手も起こる。

中盤は照強の豪快な塩まきがあり、若手で期待の琴ノ若や豊昇龍らも好調な動きを見せてくれる。実際に現場にいると、一番一番があっという間に過ぎるように感じられる。

三役が登場し、若隆景対明生という新小結同士の一番。激しい攻防の末、若隆景に軍配。若隆景はその後星が伸びずに黒星先行だが、まだ白鵬戦を残している。

続いては御嶽海、そして隆の勝が白星を挙げる。隆の勝と対戦した髙安だがこの日敗れて今場所後の大関復帰はほぼ絶望。もっとも、10日目を終えて6勝2敗2休で、終盤の成績次第では来場所につながるか。

そして照ノ富士が登場。懸賞も3周したかな。相手は初顔の琴恵光ということで、まあ普通に取れば勝つだろう。場内もそうした予想が大半で、ここは危なげなく照ノ富士の勝ち。

続く大関の正代は逸ノ城と対戦。相変わらずピリッとしない正代で、案の定逸ノ城にあっさり寄り切られる。これについて横のマス席に座っていた爺さんは「白鵬相手にその相撲取れよ」と、逸ノ城に向けてぼやいていたが。

いよいよ結びの一番。白鵬に挑戦するのは初顔の翔猿。白鵬に勝つにはとにかく動き回って、横に着く、足を取るといったところかなと思うが。

そして時間いっぱい。翔猿は仕切り線から大きく下がり、下から白鵬の動きを注視する。そして立ち合いとなったが、両者ぶつからずその場で立って様子を見る形。立ち合い成立に見えたが、行司は軍配を返さず不成立となった。

そして仕切り直し。今度も同じように両者その場で立った。翔猿は何とか中に入ろうとするも難しく、両者の間合いが開く。

そのうち翔猿が離れて、また何とか食いつこうとするも敵わず、ボクシングか格闘技のようにここまで開いた。白鵬は「どっからでもかかってこい」と見下ろす形で、逆に翔猿が攻め手を失ってしまったようだ。場内からは拍手、笑いが起こるが、隣のマス席の爺さんからは「殴れ殴れ!」という声も飛ぶ。ホンマにボクシングにしたらあかんでしょう。よほど白鵬嫌いなのかな。

最後は翔猿が万策尽きたように飛び込んだが、白鵬は慌てずにまわしを取るとあっさりと投げ捨てた。解説陣からは翔猿は結局何もできなかったという評価、特に北の富士さんは「初っ切りみたい」と切り捨てたそうだが、少なくとも場内は沸いた。

これで7日目を終えて白鵬、照ノ富士が全勝をキープ。さらに、この記事を掲載した10日目を終えても両者10戦全勝。下位の力士が弱すぎるという声もあるが、終盤戦はどうなるか。全勝対決が濃厚かな・・?

弓取式まで見て打ち出し。

さて、このところ相撲協会では退場時の密を避ける取り組みとして、お楽しみ抽選会というのを行っている。テレビ中継で、最後に取組結果や解説の親方のコメントが流れるバックで何やらマイクの声や拍手が起こるのを耳にすることがあると思うが、場内ではこういうことをやっていた。

正面、東、向正面、西とブロックを区切り、それぞれのブロックで5名の抽選を行う。当選すれば力士のサイン色紙のほか、お楽しみのセットがもらえるという。入場券の半券をくじにして場所係の親方が引くもので、呼ばれた人はその場で手を振る、◯印をするなど反応し、もし(早々と帰るなどで)席にいなければ周りの人がバツ印をするというもの。当たればいいなと思ったが、残念・・・。

まあ、お楽しみ抽選会をしたといっても退場時刻にそれほどの差はなく、会場の外はそれなりの人だかりがしていた。ただ地下鉄まで来るとそこまでのラッシュでもなく、乗り継いで名古屋駅に戻った。この後の宿泊、そして翌日のことについては(かなり後だが)別記事ということで・・。

今回久しぶりに大相撲を観戦したが、やはりいいものである。久しぶりに大阪場所も見たいし、今は広島ということで福岡も近いので、初の九州場所もいいかな。いやいや、何と言っても国技館かな・・。

早くそうした日が戻ることを願うばかりである・・・。

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西国三十三所3巡目~大相撲名古屋場所7日目観戦(前編)

2021年07月12日 | 西国三十三所

2年ぶりの開催となった大相撲名古屋場所(昨年は「7月場所」として東京開催)。久しぶりの地方開催ということ、白鵬が進退を懸けての出場、また照ノ富士が綱取りなるかということで注目された場所だが、9日目を終えて全勝はこの両力士のみ。早くも優勝争いはこの2人に絞られた。

その中盤の7日目、名古屋まで観戦に出向いた。昨年、今年と大阪場所の観戦ができなかったし、かといって東京に行くわけにもいかず、名古屋なら大丈夫かということで、久しぶりに相撲を生で見たいという思いがあった。その名古屋も入場者を定員の半分である約3800人に絞り、チケットの争奪戦も激しくなるのではと言われていたが、従来の場所のように前売り開始⇒即日完売ということもなく、無事に購入することもできた。日によっては当日でも購入可能な席も出ている。

記事のタイトルが変なことになっているが、名古屋に行くのだから・・ということで、帰りに岐阜県を回って、西国三十三所の第33番・華厳寺をセットにしたのでこのような形になった。もっとも、華厳寺に行ったところで3巡目はまだ満願にはならない(2巡目の時も、華厳寺は青春18の日帰り旅で出かけ、満願になったのは第27番の圓教寺)。3巡目も残りが見えてきたが、どこで満願になるかは、一緒に回っている西国四十九薬師めぐりとの兼ね合いで決まる。

名古屋・岐阜への行き帰りについてはまた別のシリーズで書くが、その前の札所めぐりの記事がこれから始まるので、いつのことになるやら・・。

地下鉄の市役所駅から会場のドルフィンズアリーナに向かう。取組そのものは朝8時から行われているが、観客の入場は13時からである。これまでの相撲観戦は最初から最後まで会場にいることにしていたが、13時開場となるとゆったりである。名古屋に前泊する必要もない。

入口は「向・東」、「正・西」で分かれている。13時開場とあったが、12時45分頃には入場が開始された。入場時は場所担当の親方が交替でもぎりをしてくれるのも楽しみだったが、コロナ禍の影響もあり現在は取りやめとなっている。

取組はちょうど三段目から幕下に入ったところ。

今回は東の1人マス席を確保。通常開催であれば2人マス席で使われているところだが、ここに座布団2つあって2人が座るとなるとものすごく窮屈だろう。

今場所のルールとして、場内での飲食禁止がある(水分補給はOKだが、アルコールはダメ)。13時開場というのも、昼食を済ませてから会場に来いという措置である。マス席ならば缶ビールやワンカップ大関を並べ、弁当や焼き鳥をいただくのも楽しみであるが、時節柄、当分はお預けである。まあ、特にマス席は定員を半分にしても野球観戦よりも密な空間だし、そこに酒が入ろうものなら・・。

まずは場内をいろいろ回る。このところ相撲応援の定番になっている四股名入りの応援タオルは専用の売り場も出ている。白鵬や炎鵬などは入荷待ちのようだ。一方、不祥事で出場停止の朝乃山のタオルは出ていないし、貴景勝や遠藤といった上位力士も相次いで休場。

回るうちに行列を見つける。その先は相撲協会の公式グッズ売り場である。ここでは場所担当の親方衆が接客や会計を行っており、ある意味、ファンと「力士」が唯一触れ合えるところである。元豊ノ島の井筒親方が注文を聞いてくれ、パンフレットやクリアファイルなどを購入。おまけで相撲協会「親方ちゃんねる」のうちわがついてきた。

並んでいるところの外は関係者用の駐車場で、ちょうど関取衆が場所入りする時間。たまたま、炎鵬が到着したのが見えて行列からはちょっとした歓声が起こる。

幕下あたりだと期待の若手、関取から陥落した力士も入り交じり、攻防も激しくなる。物言いがついた取組も何番かあった。

2時前くらいだったか、向正面のタマリ席に一人の女性がやって来た。相撲ファンやネットで「溜席の妖精」と一部話題になっている方である。東京場所では毎日決まった席に座っていて、常に背筋を伸ばし、特定の力士を応援する様子もなく上品に拍手する姿がテレビに映るので話題になっていて、どこのお嬢様なのか、誰かの関係者なのか、素性を確かめようとした記事もあった。

土日ということで名古屋まで来たということかな。私の周りでも「あの人だ」と気づいた声が聞こえる。いや、それにしても目を引く。

幕下の取組がもう何番か進み、十両土俵入りとなる。アナウンス役の行事が土俵下に下りてきて力士を読み上げる。手には原稿もないが、何も見ずとも力士の出身地、部屋名を言うことなど当たり前なのだろう。

この後は幕内上位5番の取組を挟み、十両の取組である。関取衆の取組については、また次の記事にて・・・。

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第31番「長命寺」~西国三十三所めぐり3巡目・26(自動車道のありがたみを体感)

2021年06月29日 | 西国三十三所

話は再び6月13日に戻る。この日は西国四十九薬師&西国三十三所の滋賀県東部にある合計5ヶ所めぐり。ここまで西明寺、観音正寺、そして桑實寺と回り、レンタカーが向かうのは琵琶湖畔の長命寺。

これまでの西国三十三所めぐりでは近江八幡から路線バスで来て、808段の石段を歩いて上っていた。今回も行程に余裕があれば近江八幡の町並み見物などと合わせて路線バスで来るところだったが、これまで触れているように関西に来たついでで薬師と観音を一気に回ろうとエリアを広げたので、道中を点で結ぶ形での移動となっている。

ただ、今回レンタカーなのをいいことに、これまで未経験のクルマでの参道を通ることができる。3巡目であるし、西国三十三所の各札所にはさまざまなアクセス方法があることを経験しておくことも必要かな・・と都合よく解釈して上る。

この自動車道がいつ整備されたかの案内はないが、先ほど通った観音正寺よりは年季が入っていそうだ。道幅が狭いところもあるし、ヘアピンカーブの勾配、角度も厳しい。

それでも文明のおかげというのか、800段あまりの石段をクリアできるのはありがたい。ただ一方で、石段を「疲れた~」と言いながら上ってくる人も多い。延命長寿のご利益があるとされる長命寺、そりゃあ、歩いて上り下りするほうが健康増進、ひいては延命長寿につながるのだが・・。

駐車場からだと石段も100段あるかないかで境内に入る。自動車道の通行も無料、そして入山料も無料というのは、先ほどの観音正寺とは対照的である。

まずは本堂に向かう。長命寺は聖徳太子が300歳の長寿を保ったとされる野見宿禰にあやかって開いたとされる寺だが、現在の境内につながる伽藍が整備されたのは平安時代後期のこと。後の兵火で焼けたこともあり、現在の本堂は室町時代の再建とされる。その他の建物も室町~江戸時代にかけて再建されたものが並ぶ。

本尊は千手観音、十一面観音、聖観音を「千手十一面聖観世音菩薩」として祀っている。西国三十三所の中でも最強の本尊ではなかろうか。本堂内にてお勤めとする。

境内の奥に進み、現在の三重塔~本堂~三仏堂を見やる。瓦葺ではなく檜皮葺、こけら葺きが並ぶのが、平安時代の趣を感じさせる。

その中に新しい建物がある。これは境内のトイレ。以前もこの場所にトイレがあったが、かなり年季が入っていてちょっと利用がためらわれたものだった。皆さんのお志によるものかな。

一番奥にある太郎坊権現社に向かう。本堂前よりも琵琶湖の眺望が利くところ。雨が降ったりやんだりで雲が垂れ込めていて、周囲の景色は今一つだった。

最後に朱印をいただく。これで西国三十三所の3巡目は残り7ヶ所。1番と33番が残っているのだが・・。

駐車場に戻る。上って来た時よりもクルマの数が増えていた。私が下る時も上りのクルマが続き、こちらがいったんバックして離合することもあった。参詣の人が重なるタイミングというのがあるのだろうか。

入山口に下りて、いったん駐車場に停める。こちらにある土産物店兼食堂もリニューアルされていた。もうこの時間なので昼食は抜きのままにして(帰りの新幹線で一献とするか)、滋賀に来たのだからと鮒ずし、赤こんにゃくを土産物で購入する。

ここまで来れば、残りの善水寺に行ってもレンタカーの返却時間に間に合う目処が立った。引き続き安全運転で・・・。

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第32番「観音正寺」~西国三十三所めぐり3巡目・25(近江商人+聖徳太子=SDGs?)

2021年06月23日 | 西国三十三所

西国四十九薬師の西明寺の参詣を終え、次は西国三十三所の観音正寺に向かう。カーナビは途中狭い道も選択するので、滋賀県名物の「飛び出し坊や」の姿も結構見ながら走る。

国道8号線に出て観音正寺の方向に進むが、その手前、五個荘に立ち寄る。近江商人の拠点の一つだったところで、前回観音正寺を訪ねた時、参道入口から案外近かったのを覚えている。今回歴史スポットとして、せっかくなので立ち寄ることにした。慌ただしい5ヶ所めぐりの中でも、五個荘に行くこと自体は計算に入れていた。

やって来たのは近江商人博物館。地域の歴史、近江商人の暮らしや文化について紹介する施設である。

近江は主要街道が通り、街道沿いの定期市や座が早くから発生したことで商業が活発だった。近江商人のルーツはさまざまあるが、中世の頃は若狭方面へ行商に出かける五個商人と、伊勢方面に出かける四本商人に分かれていた。江戸時代に入ると大きく分けて高島、八幡、日野、湖東商人に分かれ、進出地域や取り扱い品目などに違いがあったものの、活動の範囲は全国に広がった。

天秤棒一本から始めて巨大な富を得た者もいるが、当然ながら皆が皆成功したわけではなく、商人間の競争も激しく、厳しいものがあったことだろう。

一方で神仏への信仰が篤く、道徳を重んじる者も多く、その行動哲学がよく現れているとして有名なのが「三方よし」である。「売り手よし、買い手よし、世間よし」、特に「世間よし」の箇所は地域社会の発展や福利の増進ということで、昨今流行りの「SDGs」と結び付けて取り上げられることもある。もっとも、「SDGs」で掲げられている課題・取り組みは、世界規模、地球規模のものが多く、単に「三方よし」だけで解決できるわけではないのだが・・。

それにしても、「SDGs」・・・街中で、スーツの胸のところにこのマークのバッジをつける人をたまに見かけることもあるし、テレビでも番組の間などで「私たちのSDGs」とか言ってアナウンサーや芸能人が「こんな取り組みをしています」というのが流れるのを目にすることがあるが、どこか白々しさを感じる(昨今の状況で、単に私がテレビを素直に見られなくなっているだけなのかもしれないが)。

博物館を後にして、金堂の町並みに向かう。近江商人の屋敷などが保存されているが、さすがに屋敷の見学まではいいかなと、外側の風情だけ楽しむことにする。ちょうどいい具合に雨もやんだ。

ここから観音正寺への上り口は近い。観音正寺に来るのは3巡目。初めての時は、安土駅から歩いて石寺まで来て、表参道の1200段の石段を上がった。2回目は、能登川駅からバスで観音寺口まで来て、裏参道の山道を歩いた。

そして今回の3回目、クルマ用の林道を使うことにした。だんだん楽しているようだが、この日の5ヶ所めぐりには観音正寺、長命寺という「難所」も含まれている。ただ、クルマを使えば参道の時間もかなり短縮できるし、これまでと違ったアクセスを経験できる。

その林道だが、決して楽な山道ではない。カーブも多いし、対向車が来ればどちらかが離合可能なところまでバックする必要がある。途中に料金所があり、林道の維持費として600円を払う。この季節だから何の問題もなく通行できるが、冬は積雪・凍結で何度か通行止めになるという。

実際に上る時間は5分程度のものだが結構長く感じられ、駐車場に着く。この先もクルマが通れるだけの道幅はあるのだが、関係者用ということでチェーンで仕切られている。裏参道の山道を歩いた場合も、駐車場のあたりに出てくる。

ここからは観音にちなんで33の格言の立て札が並ぶ。カウントダウン式で、この言葉の意味を噛みしめながら歩くのもよい。今の心境にぴったり来るものもあれば、もう一つ自分のこととしては感じられないというものもある。

裏参道から来たためか、途中で先に奥の院に出る。岩窟が天然の祠となっており、巨大な岩に神が宿るとする昔からの磐座信仰の場と言われている。観音正寺は聖徳太子により開かれたとされるが、寺の言い伝えでも、太子がこの地を訪ねた時に天人が巨大な岩の上で舞っていたのを見て、岩に仏を刻んだことが由来とされている。

新幹線も見下ろす位置に来る。新幹線からも車窓を中止するとこの寺の境内の幟を見ることができる。ちょうど反対側の線路際にあるロッテの工場が目印。

露天に建つ仁王像のところに出て、境内に入る。

境内には「聖徳太子遠忌1400年」の幟も目立つ。2022年は聖徳太子が亡くなって1400年目ということで、聖徳太子関連の寺院ではさまざまな記念行事が行われるようだ。その記念事業として、江戸時代の観音堂、閼伽井堂の再建も含まれている。ただ、年の数え方の違いなのか、2021年を1400年御遠忌とする寺院もある。まあ、だいたいその辺りというくらいでいいのかな。

聖徳太子といえば十七条憲法、そして、先に触れた「SDGs」は「17の目標」で構成されている。17というのは全くの偶然だが、世の中には「SDGs」には聖徳太子の教えが込められていると説く人がいるとかいないとか。まあ、話のつかみとしては悪くないかな・・。

2004年に再建された本堂に上がる。インド産の白檀の原木で造られた千手観音が本尊である。白檀は本来禁輸されているものだが、インド政府のご厚意により特別に持ち出すことを許され、現代の名仏師である松本明慶氏の手による彫られたもの。丈六で、実際に千の手を持つ千手観音像は珍しいものとされる。本堂の床に座り、ちょうど千手観音像と相対する形でのお勤めである。

本堂の横から改めて周囲の景色を見渡す。新幹線の走行音も響くところだ。

西国三十三所、四国八十八ヶ所をそれぞれ38度巡拝したことを記念した人が奉納した石碑もある。上にはいくらでもいるものである。

境内の横に、観音寺城跡、そして桑實寺への道案内がある。これから向かう西国四十九薬師の桑實寺だが、同じ繖山の反対側にあり、登山道が続いている。初めて観音正寺に徒歩で来た時は、帰りに桑實寺を経由して安土駅まで戻った。今回も山道を通れば距離は近いが、レンタカーを置いているし、同じ山道を通るのも時間がかかる。このため、繖山を回り込む形で桑實寺に向かうことに・・・。

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第25番「播州清水寺」~西国三十三所めぐり3巡目・24(徒歩登山道を歩く)

2021年02月24日 | 西国三十三所

西国四十九薬師めぐりの前に、今回セットで訪ねる西国三十三所の第25番・播州清水寺に向かう。前泊した赤穂で日の出を見てから出発して、山陽道~播但道~中国道と走り、滝野社インターで下車。その後は県道を走り、赤穂を出て1時間半ほどで清水寺に到着する。

清水寺に到着といっても、寺へ続く参道の入口である。寺の本堂はさらにこの奥にある。

清水寺を訪ねる人のほとんどはクルマである。そのために清水寺がクルマでの参道を整備した。その参道維持費として入山料500円(普通車)が必要で、駐車場の向こうに高速道路のインターにあるような料金ゲートがある。また、私がこれまで2巡の西国三十三所めぐりで訪ねた時は1日2往復の路線バスで来たが、バスの下車時にバス代とは別に500円を支払う仕組みだった。

今回はクルマで来ていて、このままゲートで500円を払えばすぐに寺の駐車場に着き、仁王門から入れば済む話だ。ただ、3巡目ということだし、また時間に融通がきくクルマで来ているということなので、ここは初めての方法で行くことにする。とは言え、クルマの参道は歩行者、自転車の通行は禁止されている。ということで上るのは昔ながらの参道である。

クルマの参道が整備されたのは1975年のことで、それまでは参道の入口にクルマを停めて歩いて上っていたわけだ。駐車スペースがある程度取られているのはその名残である。参道の距離は18丁(約2キロ)、所要時間40分とある。結構急な斜面でもあるのだろうか。とはいえ、2キロなら徒歩でもカバーできる範囲である。中には相野駅から12キロほどを歩くという剛の者もいるから、それに比べれば・・。

「推古・聖武両帝勅願所」の石碑や祠がある中、参道に入る。杖立てがあったので手ごろなのを1本借りて進む。猪避けの扉を開け、これから上りである。

初めは整備された道で、治水事業の堤もあるが、そのうち自然な道となる。結構石もデコボコしているし、木の根が地表に出ている箇所も多い。

九十九折の道が続くが、勾配は思ったほどきつくない。息が上がる場面もなく、沿道にある丁石に刻まれた数字も順調に減っていく。

清水寺にたどり着く登山ルートはいくつかあるようで、その分岐らしきところも見える。

残り3丁近くに稚児岩というのがある。時は南北朝の戦いの頃、南朝の武将・赤松氏範が山名・細川の大軍に攻められ、清水寺に立て籠もった。その際、観音様のお告げにより子の乙若丸を薩摩に落ち延びさせるべく、郎党二人をつけてここで決別したという。結局赤松氏範はここで自害するのだが、乙若丸はその後どうなったのだろうか。ただこの看板、読みようによっては氏範自身が薩摩に落ち延びるために乙若丸と別れた・・とも読めてしまう(稚児岩を紹介するブログ記事でもそう読んだ人も結構いるようだ)。日本語は難しい。

残り1丁を過ぎて、石段の下に出る。かつてはこちらが清水寺の玄関口で、立派な石垣も見える。

途中に礎石がある。かつての仁王門跡である。仁王門は1965年の台風で全壊したが、1980年に現在の場所に再建された。先にクルマでの参道が開通しており、今では完全にそちらが玄関口である。まあ、こうして徒歩で来たからこそ昔の姿を見ることができたわけだが。

境内に入ると郵便ポストがある。これを見るのも初めてだ。戦前に置かれたものだそうで、現在は使われていないが、SNSで静かな人気スポットだという。下の取り出し口には小銭が積まれている。これ、上の投函口から入れた小銭が下に出ているのだろう。昔はわざわざこの寺から手紙を出した人がいたのだろうが、郵便局員も大変である。それはそうと、清水寺への郵便配達もあれば宅配便の集配も来るだろうが、そういうクルマは関係者ということで参道維持費の通行料は無料なのかな。

・・ようやく大講堂着。やはり40分かかった。

まずはここでお勤めとする。風も穏やかで心地よい。

先達用納経軸に朱印をいただく。これで西国三十三所の3巡目は兵庫県が終了、札所は残り9つとなったが、和歌山、滋賀、岐阜という遠方がまだまだ残っている。もう少し長く楽しめそうだ。

境内を一回りする。大講堂横の石段を上り、根本中堂に向かう。播州清水寺は本堂が二つあるとしており、西国三十三所の札所である大講堂には千手観音、そして根本中堂には十一面観音が本尊として祀られている。清水寺のホームページによれば、大講堂は先祖供養の場、そして根本中堂は心願成就の祈願や僧侶たちの修行の場とある。まあ、そこは両方お参りすればよいことだが、大講堂までで帰ってしまう人が多いそうだ。

根元中堂の奥に「おかげの井戸」がある。その昔、法道仙人が水神に祈って水が湧いたことからこの寺が「清水寺」として開かれたスポットである。この井戸を覗きこんで自分の顔が映れば寿命が3年延びるという言い伝えがある。前もそうだったが覗きこんで無事に3年延びたようだ。もっとも、そもそも私の寿命とは何年なのかなと思うが。

大塔跡を見る。かつての多宝塔は平家の武運長久を願って建てられたが、明治時代に火災で焼失、大正時代に再建されたが、先の仁王門と同じ1965年の台風で被害を受け、取り壊しとなった。またいつの日か、この多宝塔が再建されることがあるだろうか。

今の仁王門に到着。もし1日2本のバスの時刻と合えば復路はバスに乗ってもいいかなと思ったが、時間はかなり先だ。帰りも歩いて下りることにするが、上りの感触だと下りもさほど苦にすることなく行けるだろう。

仁王門から再び境内に入り、最後に回ることになったのが大講堂横の薬師堂。奈良の「せんとくん」などのキャラクターデザインで知られる籔内佐斗司による十二神将像が本尊の薬師如来を囲む。壁の外から薬師堂の中に身を乗り出した姿だ。普通にクルマ、路線バスで来れば大講堂の前にお参りすることになり、ちょうどやってきた人たちが十二神将にカメラ、スマホを向けている。

帰りも徒歩ということで、最後に大講堂の前で一礼した後、石段を下りる。下り坂で自然石がむき出しのところが多いのでどこに次の一歩を下ろすか考えながら進むが、特に難所というほどでもなく、35分で麓の駐車場に戻った。

さてこれから西国四十九薬師めぐりの第21番であり、西国三十三所の番外札所である花山院に向かう。清水寺に路線バスで来た時に見覚えのある道を通り(路線バスは他のスポットも経由するのでさらに遠回りするが)、JRの相野駅前から新三田に向かう。有馬富士公園の横を通り、花山院までもうすぐだ・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第27番「圓教寺」~西国三十三所めぐり3巡目・23(「衆怨悉退散」の願いを込めて・・)

2020年12月29日 | 西国三十三所

書写山ロープウェーの乗り場に着く。シーズンオフのためか乗客の姿も10人くらいのものである。

改札は発車3分前からとのことで、しばらく乗り場で待機する。圓教寺はこれまでに映画やドラマのロケで使われることがしばしばあり、出演者のサイン色紙が飾られている。その中で別枠で飾られているのが、映画「ラスト・サムライ」に出演した渡辺謙さん、トム・クルーズさん。圓教寺も、ハリウッド映画のロケ地にもなったことをPRの材料にしている。

また一方で、毎年大晦日から元日にかけてのロープウェーの終夜運転の取りやめの案内も出ている。大晦日の夜21時から、上りは24時まで、下りは26時までの運転とする。朝は8時半からの通常運転とある。終夜運転していたということは初詣だけではなく書写山からの初日の出を見に利用する人もいたはずだが、もし2021年の初日の出を見ようと思えば、山上で一夜を過ごすか、暗いうちから徒歩で登ることになるのだろう。

発車時刻となり、自分で往路の半券をちぎって箱に入れて乗車する。この日は天候もよく、遠くにうっすらではあるが淡路島の稜線も目にすることができた。

ロープウェーの進行右手に菜の花畑が広がるとの案内がある。かつては田んぼアートとしてロープウェーの乗客を楽しませていたところだが、今年、新型コロナウイルスの終息、疫病退散を願い、稲刈りの終わった田んぼに菜の花を植え、その中で「衆怨悉退散」の文字を浮かび上がらせるという。

この5文字は観音経の一節にあり、圓教寺の高僧の筆から起こしたものだ。「衆怨悉退散」じたいの意味は「人々の怨みをことごとく退き散らす」というもので、コロナウイルスの終息とは直接結びつかないように思う。ただ、「退散」の2文字というのはわかりやすいし、観音経の文脈でいえば、コロナ禍の中で人間関係がギスギスしたものになったり(自粛警察とかね)、直接会いたくても会えない状況が続いて鬱々とした人も多い中で、そうした心に溜まったものを吹き飛ばすことを願っている・・のではないかと思う。

菜の花は1月から2月にかけて見ごろで、その頃にはこの文字はもっとくっきりと姿を現すという。

ロープウェーの山上に着く。気温は10度を下回っているが穏やかな天候で、寒さはそれほど感じない。ここから仁王門を経て本堂の摩尼殿まで歩くことにして、まずは鐘を撞く。

圓教寺は、私の西国三十三所めぐりの2巡目の結願となった札所である。前回来たのが2019年の2月3日、ちょうど節分の日である。圓教寺が最後になったのは、2巡目からはくじ引きやサイコロの出目をなくして、他の札所めぐりと合わせて訪ねて行った結果、たまたまそうなっただけなのだが、節分会の豆まきにも参加して、悪いものが払われた気持ちになったものである。それはそうと、来年の節分で豆まきは行われるのだろうか。

参道の観音像たちを見ながら、仁王門をくぐって摩尼殿に向かう。境内それほど混雑していないが、参詣者のほかに登山姿の人も見かける。

外陣に上がり、まずはお勤めとする。内陣からも低い声での読経が聞こえてくる。毎日正午から、疫病退散、七福即生の祈祷が行われており、その様子は動画でも配信されている。コロナ禍で参詣が難しい人も、動画を見て手を合わせることができるようにと行われている。

先達用納経帳に朱印をいただく。西国三十三所の3巡目も残り10ヶ所となった。和歌山2、京都2、大阪1、兵庫1、滋賀3、岐阜1・・・まだまだ難所が続く。

そのまま境内を進み、大講堂、常行堂、食堂の「三之堂」エリアに出る。こちらの大講堂は釈迦如来を本尊としている。先ほどの長い柱の床下を持つ摩尼殿も含め、さすがは西の比叡山とも称され、堂々とした建築のお堂が並ぶ圓教寺である。

さらに奥の院である開山堂に向かう。圓教寺を開いた性空上人を祀る。

これで圓教寺の主なお堂を回り終える。姫路の観光名所の一つではあるが、寺としてコロナ禍に対してさまざまな発信を行っていることがうかがえ、私もまたこの時季を無病息災で乗り切れるよう気持ちを新たにすることができた。

ロープウェーで下山して、次の目的地である西国四十九薬師めぐりの神積寺を目指す。カーナビで今度は素直に神積寺と入力する。

途中、近郊の住宅地や陸上自衛隊の駐屯地などを経由するが、その途中に「増位山」への案内標識を見る。増位山といえば大相撲の元大関、そして元三保ヶ関親方で、定年退職後の今は現役時代からも手掛けていた歌手として活躍する増位山大志郎さんを連想する。その四股名もこの増位山からつけられたのだが、父親であり三保ヶ関親方だった先代の増位山大志郎から受け継いだものである。この先代増位山は姫路の出身で、郷土の山から四股名をもらったことになる。なお、四股名は「ますいやま」だが、山の名前は「ますいざん」という。

帰ってから知ったことだが、山の増位山には聖徳太子が開いた随願寺という古刹があり、播磨国の観音霊場、薬師霊場の札所の一つになっているという。ただ今の時点では、そこまでは付き合いきれず・・・。

このまま播但線の砥堀駅近くから国道312号線に入る。国道沿いで遅めの昼食を取った後、神積寺がある福崎を目指す・・・。

 

 

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第19番「革堂」~西国三十三所めぐり3巡目・22(京都からは気動車特急で・・)

2020年12月18日 | 西国三十三所

亀岡まで行き、嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車に乗った後で、ことのついでに急遽組み入れることになった西国三十三所第19番の革堂。西国四十九薬師めぐりのくじ引きの選択肢で、法界寺や醍醐寺と合わせた「京都」シリーズに入れていたのだが、他の札所が洛南から宇治にかけて並んでいるのに対して、京都市街、それも二条あたりとなるとぽつんと離れている。この先いつの日か京都を訪ねるとして、時間を有効的に使えればということで。

地下鉄の京都市役所前から地上に出ると、小雨がぱらついていた。雨の予報は出ていなかったと思うが、冬の湿った空気で変わりやすいのも確かである。

寺町通りを北上して、「こうどう」という看板に出る。寺町という名前らしく、周囲の商店街にも自然に溶け込んだ山門である。

正面の本堂でお勤めとする。

本堂に併設された納経所に向かう。革堂の納経所といえば、「スタイリッシュすぎる御朱印」とか、「妖怪ばばぁ」とか、ネットでは以前いろいろと言われていた庵主さんが名物だった。私もそのスタイリッシュすぎる墨書きをするとされるご老体と、初めての革堂の時にはご対面したのだが、結局は別の方に書くよう指示していた。そのご老体も2年ほど前にお亡くなりになったという。

この革堂は都七福神めぐりの札所の一つとなっていて、寿老人が本尊である。ちょうど、都七福神めぐりの朱印集めの色紙を持った人も納経所を訪ねていた。コロナ禍が続き、神社仏閣でも新年の初詣の時期をずらすようにとか、年内の「幸先詣で」を勧める動きもある。まあ、それはどちらでもいいのだが・・。

帰りは京都御所の南、丸太町通を歩く。そこに、「第4中継所」の看板がある。12月20日に行われる全国高校駅伝の男子の中継地点である。京都の冬の風物詩の一つであるが、今回についてはコロナ禍でさまざまな大会が中止となる中、何とか開催にこぎつけた形である。密を避けるために沿道での応援は自粛するよう呼びかけられているが、何とか無事に開催してほしいものだ。

丸太町から地下鉄で京都まで移動する。

さて、この後は大阪駅から16時発の高速バスで広島に戻るが、時間はもう少しある。これが大阪に住んでいた時なら普通に新快速に乗るとか、あるいは革堂を出た時点で京阪や阪急に乗るところだが、今回はある意味「おのぼりさん」なので、これまでできなかったことをやってもいいかなと思う。そこで頭に浮かんだのが、自由席特急券を別に購入して、京都から大阪まで特急で移動するというもの。

それならば大阪行きとなる「サンダーバード」に乗るところだが、駅の時刻表を見ると、14時52分発の「スーパーはくと9号」鳥取行きというのがある。同じ乗るなら、なかなか機会がない気動車特急に乗るのも面白そうだ。大阪までの自由席特急券は660円。

鳥取方向の先頭車両は自由席。最前列は前面展望が効く窓のつくりだが、早くから狙っていたのか先客が陣取っている。私はどうせ大阪で降りるのだからと、数席後ろのシートに収まる。まあ、首を上げれば前面展望も見える。発車を待つ間に隣のホームから新快速、快速が出ていくが、追加料金を払ってもゆったり座って行けるのはありがたい。

同じ車両には他に4~5人の客が乗って来て、時刻となり出発。新快速に負けず劣らずの速度でぶっ飛ばす。それが電車ではなく気動車なので、最初からエンジン全開でより一層飛ばしている感じが伝わってくる。新快速が停車する高槻を通過するというのも、さすがは優等列車だ。

ただその時間も30分足らず。新大阪を経て大阪に到着。また鳥取方面に行く機会があれば乗ろうということで下車するが、驚いたことに同じ車両に乗っていた他の客(最前列でかぶりついていたお兄さんは除く)が全員下車した。混雑時期はともかく通常期なら、着席保証のような使い方もあるのだろう。一方、大阪からならそこそこ乗車があるのかなとも思って発車を見てみたが、時間帯のためか、列車全体がガラガラのままだった。

広島行きの高速バスまでは30分あまり。ちょうどよい待ち時間となった・・・。

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