大雨の中やってきたのは清水港。ちょうど昼時である。昼食は魚ということで決めていたが、さすがに焼津まではまだ距離があるため、国道1号線から少し外れてここで立ち寄り。清水港には以前に一度来たことがある。
やってきたのは「エスパルスドリームプラザ」。清水といえばサッカーの市民球団、清水エスパルスということになるのだろう。近くには選手の足型が埋め込まれた歩道もある。
この日はまず食事。プラザの1階には「清水すし横丁」というのがあり、遠洋漁業の拠点である焼津港で上がったもの、駿河湾で取れた海の幸を食べさせるという。その中の一軒の回転すし店に入る。
さすがにドライブ中のこととて一杯・・・とはいかなかったが、焼津にあがった本マグロの大トロ、赤身が平気で回ってくるし、駿河湾の桜海老、生しらすも軍艦巻で登場。これはいける。次に来る時は宿泊で・・・と思う。
そんなすしで腹ができたところで改めてフロアを見ると、この上に「清水すしミュージアム」なるものがあるという。入場料300円のところ、すし横丁のレシートを見せると半額になるというのでのぞいてみる。まずは江戸前の、当時のすし屋台の復元模型が出迎えてくれる。
すしのルーツは魚の発酵食品である。昔はもちろん冷蔵庫などのない時代。魚を保存食として食べるのに米などを発酵させたなれずしの形にしたのがそもそもの食べ方とか。現在関西近辺では近江のふなずしや、福井のにしんずしなどにその形が残る。以前敦賀で居酒屋に入ったときに「にしんずし」を初めてメニューで見て注文したら、店員に「これ、すしじゃないですけどいいですか?」と尋ねられた。今ではすしといえばご飯料理なだけに、そういう確認をしたのだろう。
時代が下るとふなずしに代わり、米を発酵させて酸味を得る工程を「酢」で代用してつくられる早ずしが登場する。ただそのすしも魚に下ごしらえをしたりご飯にも味をつけたりというもので、現在のようなとにかく魚の新鮮さを売りにするようになったのはそれこそ昭和に入ってからという。ここまで来るとそもそもの「すし」からはいろんな変化形が出てきたというか、進化したというか。変わらないのは「魚を食べたい!」という欲望だけだろうか。
今となっては回転ずしが1皿100円で食べられる時代、逆にナマの魚を食べさせたほうが手間もかからずその分コストがかからないだろう。昔ながらのすし、現在でも各地の郷土料理として残るさまざまな形のすしを食べるほうが手間がかかるし、贅沢なことなのだろう。日本の食文化の変遷を感じるところである。
ミュージアムは往年の清水港の町並みセットも再現されており、なかなか勉強になる。ただ残念だったのは、先にミュージアムであれこれ見て勉強してからすし横丁に行ったほうが、より「歴史を感じながら味わう」ことができたかな、と。
さて、このプラザは元々は清水港の荷役が行われていた一角に建つ。その名残として残されているのが、敷地内にモニュメントのような形で保存されているテルファークレーン。貨物の取り扱い路線であった清水港線の貨車と船舶との間での荷役に使われたもので、現存するのはここ清水だけである。
その清水港の歴史についてさまざまな展示を行っているのがフェルケール博物館。「フェルケール」とはドイツ語で交通を意味するものという。この設立にも寄与したのが、清水を舞台にした物流企業の鈴与である。
物流の拠点であり、人々の交流の場でもある港。船舶関連、港湾荷役関連、漁業関連のさまざまな資料、模型が展示されており、見ていて飽きることがない。それこそその気になってじっくり見れば半日はあっという間に過ぎる。
その中でやはり気になるのは「清水港線」。やはり鉄道が好きなんだな・・・。清水港線は元々が貨物線として開業したのだが、その合間に旅客列車も走らせたというもの。
私がその名前を知ったのは「旅客列車が一日1往復」という恐ろしいダイヤ。宮脇俊三の『時刻表2万キロ』でも旅貨混合の列車に乗る様子が描かれている(・・・というような内容の記事をこのブログに書いたのが3年半前)。今だったら「一日1往復」と聞くと、それを「攻めよう」ということで押しかける「その筋の人たち」でかえって賑わうのだろうが・・・。
ここで「清水港線 探検マップ」というパンフレットを見る。清水港をぐるりと回る形で三保まで延びていた線路跡が図示されている。清水港線が廃止されたのは1984年4月のことだが、現在歩道として残っている区間もあるようだし、この他にも車両や駅が残っているという。これは初めて知った。今回クルマで来ていることでもあり、雨の中ではあるがそれらを見に行くことにする。
フェルケール博物館から国道を2キロほど走ると、ちょうど鈴与の倉庫の横に当時使われていた清水港線の客車と引込み線用の機関車があった。これが、貨車の後ろにくっついて走っていた客車か・・・。乗ったことがないので「懐かしい」という感触はないが、古き良き時代との接点というものを感じる。
もう一つ向かったのが終着駅の三保駅。現在は草生い茂る公園になっているが、当時のホームと「三保駅 0キロ」の看板が駅の存在を示してくれる。
「三保駅常備」と書かれたタンク車もあり、広い引込み線に旅客ホームがちょこんとある風景を想像させてくれる。やはり、もっと早く生まれて乗りたかったなと思わせる。
パンフレットによれば「清水鉄道遺産保存会」なる会があるそうで、清水港線の歴史を今後も伝えようという活動を行っているそうだ。これからの活動に期待したい。
さて気がつけばもう午後の14時半。ここから終日大雨の中、ひたすら国道を乗り継いで帰る。途中で夕食や休憩を挟みながら結局尼崎に戻ったのは深夜23時半・・・・。さすがに疲れました。