まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

安佐南区・八木地区

2015年02月01日 | 旅行記F・中国
可部線で可部に到着。さてここから八木に向かうが、折り返しの電車が出たばかりなのと、八木4丁目へは駅から少し離れていることもあり、国道54号線を走るバスに乗る。

新太田川橋のバス停で下車。あえて歩いて橋を渡る。雪が降ってきた。寒い。国道からも土砂崩れの跡が見え、復旧工事の最中である。確か豪雨があったのは8月20日、訪れた1月2日は4ヶ月以上経過した時期だが、もうそんなに経ったのかと思う。地元メディアはともかく、関西では広島の豪雨災害や復興のニュースに接することは全くといっていいほどない。

八木6丁目を歩く。県営住宅が立ち並ぶところだが一戸建ての家もある。そこで歯抜けのように更地になっているところがあり、ここが被災したのだなと感じさせる。門柱や塀の一部だけが残っている家があるが、これはあえて残しているのだろうか。ここに我が家があったという意味合いとか。

山に沿って八木4丁目に入る。地図で言えば40番地台だが、そこに広がる泥色の景色を見て唖然とした。山を切り開く形で、傾斜を利用してガレージを掘り、その上に家があったことをうかがわせる。帰宅後にネットで航空写真地図を見たが、さまざまな色の屋根の家が並んでいた。それが全部なくなっている。家によっては花が手向けられている。住んでいた方が亡くなったのだろう。私も手を合わせる。

犬の迷子を捜す立札が倒れている。「ここが自宅だったので戻って来るかもしれません」とある。犬も流されてしまったのか。

昨年の12月25日限りで、安佐南区内に設けられていた避難所は全て解消された。避難していた人が全員避難所から出たからだというが、県営住宅、市営住宅での受け入れがなされているとはいうものの、やはり自分の家を失ったというやるせなさはあるだろう。

流された家、無事に残った家、ほんのちょっとした差である。私は当事者でないから両者の思いを理解できるものではないが、流された家に隣接して残った家の方も複雑な気持ちであろう。

天皇皇后両陛下も広島を訪問し祈りを捧げられたが、最初はそれがどこなのか探してみようと思ったが、そんなことはどうでもよくなった。

段々と線路近くまで下りてくる。神社があり自然とそちらに足が向かう。境内の横の方も未だに土嚢やブルーシートがあり、その向こうにあるはずの家が消えている。

拝殿にて参拝する。光廣神社。八木の土地の守り神である。毛利元就が鶴岡八幡宮から招いた八幡神を祀る。この神社には「大蛇の首をはねた武将・香川勝雄」の伝説がある。八木の奥にある阿武山に大蛇が住んでいて、人里におりてきて人々に害を与えるのでこれを退治することになった。18歳の武将・香川勝雄が大蛇に立ち向かい、大蛇の首をはねた。斬られた大蛇の首が落ち、血が川のように流れ、最後は沼ができて沈んだ。

こうした伝説もあり、かつて八木地区は「八木蛇落地悪谷(じゃらくじあしだに)」と呼ばれていたとか。先ほどの大蛇は「水害」を意味するものだといわれている。蛇が落ちてくるように水の流れ道があったということだろう。大蛇退治は水害を収めるということで、武将はそれに尽力したとか、あるいは人身御供のようなことになったとか、そういう言い伝えなのだろう。

この豪雨災害の直後に「元々そういう地名がつくくらい水害の多いところなのに、開発するにあたって『八木上楽地芦谷』に変わり、そして今はただの『八木』になったという歴史がある」ということがテレビで紹介された。地名に土砂崩れの危険や教訓が含まれているというのに、地名を「イメージのいいもの」に変えたためにその歴史が忘れ去られた、というもの。東日本大震災の津波の時にも言われた「先人の知恵を活かせなかった」というやつである。

なるほどそうかと思うが、一方では「古地図や古文書を見てもそういう地名は出てこない」という声もある。豪雨水害があったから無理にこじつけているのではないかと。こうなると本当はどうなのかわからない。現実としては防災、減災の対策をどうするということしかないのではと思う。

そろそろ大阪に戻る列車の時間も気になってきたので、梅林駅から広島行きにて八木地区を後にする。あの更地はこの先どうなるのか。また、その時が来れば訪れることもあるだろう。また雪が激しくなり、このままどんどん積もっていきそうな勢いだ。

広島から岡山、相生と乗り継ぐ。夕食は広島駅でいろいろ買って、車内で取ることに。そのうちの一つがシンプルな駅弁の「かき飯」。味がよく染み込んでいてなかなかよかった。

いろいろと悪天候に見舞われて結構疲れたが、考えることも多い旅であった・・・・。
コメント