まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第26番「伽耶院」~新西国三十三所めぐり・4(入山料は草引き十本)

2016年03月17日 | 新西国三十三所
前置きが長くなったが、新西国の26番、伽耶院に到着。まずは仁王門である。

門の中にいるのは、胸から下だけがボロボロの状態で残る木像。とても仁王とは思えない。かつて秀吉の三木城攻めの時に、別所長治側の陣があったために伽耶院も焼かれたという。その中で仁王の一部だけが残り、さらに年月を経て朽ちたものである。こんな姿が21世紀にさらされるのは、仁王としてはどんな心持ちなのだろうか。

その伽耶院、開創は645年というから大化の改新まで遡る。孝徳天皇の勅願で、法道仙人が建てたとされる。この法道仙人、西国三十三所の一乗寺や播州清水寺も含めて、播磨のあちこちの寺を建てたとされている。仙人というのも怪しいものだが、今から1800年前に天竺(インド)から紫の雲に乗ってやって来たとか、鉄の鉢を自由自在に操って、瀬戸内海を往来する船からお布施として米を召し上げたとか、何かと伝承がある。ただそれでも多くの古刹があるのは、この辺りに寺を造るだけの財力を持つ者がいたとして、それを法道仙人という人物に託したとも言われている。また、法道仙人は山で修行したとされていることから、山岳信仰や修験道との関連も言われている。現に、伽耶院の宗派は「本山修験宗」というものだ。今でも秋には修験道の行者たちが伽耶院に集まる。

仁王門を過ぎると駐車場があるが、その奥に岩場がある。柱状節理というもので、遠い昔にこの地に巨大な地震が起きた証とか。阪神・淡路大震災から21年であるが、こうした柱状節理を見ても、地震の起こりうる地形というのが改めて感じられる。先ほど訪れた三木総合防災公園と合わせて、三木と地震は無縁ではないことを語っているようだ。

道を挟んで、石段とお屋敷風の門がある。ここは本坊の入り口で、本堂へは道をもう少し歩いた先な中門から上がる。この中門が今では山門の役割をしており、仁王ではないが持国天と多聞天が並ぶ。お賽銭を挟んだ草鞋も掛けられている。

中門から石段を数段上がると、右前に本堂が見える。新西国三十三観音霊場の一つであるが、本尊は毘沙門。「新西国の観音霊場の選定基準は何やねん?」と思うことになるのだが、そのことはまた改めて触れることにする。

石段から本堂を見るその途中に立て札がある。

「入山料 お一人につき 草ひき十本 右ご協力のほど、伏してお願い申し上げます」

西国でも、拝観料や入山料と称していくらかの金を出して徴収するところは結構あった。中でもボッタクリ、強欲と称される代表は醍・・・いや、何でもない。一方で、何も取らないところもある。別にその良し悪しをいうものではない。そんな中で、「草引き十本」である。これは奉仕の気持ちをくすぐる文言かな。カネは取らない代わりに、修行の一つとしての草引き。結構しゃれが効いている。

で、立て札の下を見ると・・・冬は入山無料とある。なるほど、冬は草がそんなに伸びないから引くには及ばずということか。思わず笑う。「草引き十本」は、巡礼のブログなどで見ることがあり予備知識としてあったが、「冬は無料」は意表を突かれた。

本堂に入る。格子戸の向こう、中央には本尊の毘沙門天、こちらから見て左手に十一面千手観音が安置されているが、その姿はわからない。ここでお勤めを行う。無人の本堂だが、お守りやグッズが置かれ、代金は賽銭箱に入れるようにとある。参拝者を信用してのことだなと思うが、一方では「防犯カメラ設置」とある。過去に賽銭泥棒が出たそうだが・・・。

本堂の前に木の長椅子があるが、ここにはいろんな表情の招き猫がいる。おみくじなのだが、これを見て箕面の勝尾寺のだるまを思い出す。ただ、だるまよりも表情がバラエティに富んでいる。これも和む光景だ。

多宝塔があり、その奥に臼稲荷という祠がある。その昔、日照り続きの時に、この辺りの村人たちが田んぼに引く水を争い、他人の土地に水が行かないように臼を並べた。ある日、その臼を取り除いている老人がいて、それに怒った村人が老人を打った。すると老人の姿が消え、稲荷の祠に血がついていた。これを見て自分たちの行いを悔いた村人たちが、祠に臼を供えたのだという。また、祠の前に立つ木の根元にも臼が抱えられており、不思議な光景である。案内板でも、なぜかわからないとしている。

また、伽耶院の境内には地蔵も多い。寒さよけか、赤い頭巾をかぶっているのがユニーク。その中に、「仲良しポックリさん」という地蔵が並んでいる。説明板では、「下の世話にはなりとうないと言っておられたやぶなかのおばあちゃんは92才で亡くなられる直前まで草引きそうじと働き続けられ、まえだのおばあちゃんは三日間だけしもの世話になって95才で旅立たれました。これらのおばあちゃんをしのんでこの像が造られました」と、昔話風。この集落に、やぶなかさんとまえださんがいたのだろう。90歳を過ぎても元気でいて、最期はポックリと亡くなる。それがいいのかもしれない。最近、「健康寿命」という言葉を聞くことが増えたが、いくら年齢を重ねても、病気を抱えたり寝たきりになって、満足な日常生活を送れないのは、本人も周りも辛いことだろう。かと言って、早死にというのもなあ・・・、いや、難しい。

こうした地蔵で長生きおばあちゃんを祀る一方で、別の斜面にはキャラクター人形や玩具があちこち置かれている。こちらは水子地蔵の一群である。地蔵だけがずらりと並んでいてもどうとは思わないが、キャラクター人形が、それも風雨にさらされてボロボロになっているのも、シュールな光景。

水子地蔵というと、何か祟るようなイメージがあるが、ここの案内板は、「水子がたたる? 親のために黙って死んでくれたあの子がそんなことする筈がない。水子のたたりとは、あの子には何一つしてやっていない、というあなたの心のこだわりが作りあげた幻想です。あなたは、あの子のために何をしてやったのでしょうか」と、逆に問いかける。子どもがいないので水子のことも実感できないのだが、言われればなるほどと思う。よく、こうした霊を取り除くとして何か買わせるマルチ商法があるが、本式の、由緒ある寺での一言にも、本人の気づきになることも多い。だてに、何百年と守られてきたわけではない。最近はやりの教えもいいのだろうが、もう少し、昔のものも見たほうがより良いのだろう。私も、西国、新西国と回って少しずつでも感じられればと思う。

一通り見たが、小ぶりながらもなかなかユーモアとセンスのあるところ。先のウォーキングと合わせて、印象に残った。そして納経所へ。ブザーを鳴らすと住職の奥様とおぼしき女性が出て来て、納経帳を受け取る。さらさらと筆を進め、最後は納経帳を顔の上に押し頂いてから返してくれた。

次の目的地は、客番の浄土寺。伽耶院から西の小野市にある。伽耶院口からバスで緑が丘駅に戻り、神鉄で小野まで移動するのが自然だが、昼間の神鉄粟生線の小野には、一時間に一本しかない。バスで着くとちょうど電車が出たところというタイミングで、時間がもったいない。ふと、電車ではなくバスで移動できないかと思う。先ほど、御坂サイフォンから伽耶院まで歩く途中にバス停があり、西のほうに行くような感じだった。その道との交差点近くにある志染小学校のバス停まで歩くと、ちょうどいいタイミングで三木営業所行きのバスが来るようだ。スマホで検索すると、三木営業所で6分後に小野方面に行くバスに乗り継ぐことができるとある。これだと、緑ヶ丘駅で神鉄の電車を待っている間に、小野に着くことができる。

・・・ただそのバス、定刻から5分遅れでやって来た。先客はおらず私だけが乗り込む。途中、三木城攻めの秀吉の本陣とか、竹中半兵衛の墓地を示す案内板を見て、三木の中心部に入る。別所長治の本拠地である三木城の横も通る。市街地を抜け、イオンモールに隣接した神姫バスの三木営業所に到着する。しかし、やってきたのが遅れたせいか、小野方面のバスは出た後だった。この後だと1時間半後で、これでは時間短縮の効果がなくなるどころか、却って遅くなる。

と、時刻表を見ると「急行 小野、社、西脇」という表示があり、しばらくして観光バスタイプの車両がやって来た。停車して下車する客がいたので運転士に訊ねると、小野にも行くという。何のことはない、三宮から、今朝下車した緑ヶ丘駅も通り、三木、小野、社、そして西脇まで行く急行バスである。実はこのバス、先ほど路線バスに乗った志染小学校前にも停車するもので、しばらく待っていれば乗ることができたものだ。ローカル区間のバスに悩まされそうになったが、これで一気に時間短縮である。神鉄の線路を見ながら西へ進む。

小野駅に近い小野本町一丁目にて下車。とりあえず昼食ということで、バス停の前にあった台湾料理の「豊源」に入る。食べたのは台湾ラーメンに炒飯だったが、ボリュームもあり結構美味かった。

これでお腹もできて、昼からの浄土寺である・・・・。
コメント