恩山寺の下にある牛舎の脇を抜ける。両側が竹藪になっているが、竹も高く伸び放題である。この日は風があり、竹藪が風に揺れると葉がザワザワする以上に幹同士がカタカタぶつかる音がする。
この弦巻坂も義経ドリームロードの一部である。義経が小松島に上陸して恩山寺の方向に向かう際、最初は平氏側の軍勢が峠の向こうにいることを警戒して弓の弦を張らせたのだが、峠を越えて敵がいないのを確認したので、張った弓の弦を巻かせたという。このために弦巻坂という名前がついた。恩山寺から歩くとまず弦巻坂を登ることになり、峠を越えて下りになると、今度は弦張坂と名前が変わる。峠といっても山越えの厳しいものではないが、ちょっとした丘ぐらいの高低差がある。
弦張坂のほうを下る途中に柑橘類の畑に出る。徳島名産のすだちにしては実の粒があまりにも大きいように思う。これはみかんの木かな。みかんと言えばこの辺りなら愛媛か和歌山であるが、徳島県でも勝浦や小松島辺りでは栽培されているという。この先、昔の遍路道に沿って歩く中で、みかん畑の畦道や民家の庭先を通っていく。すれ違う地元の人から「かんばりや~」と声をかけられる。
県道に出る。ここには文化年間の道標もある。ここからは県道を歩く。普通の住宅も並ぶ。田野地区というところで、義経の軍はここを通って恩山寺や旗山に向かったそうである。
そんな道の途中に突然現れたのが石造りの常夜燈。なぜここにあるのか説明書きがなかったのだが、旧街道の道標なのか、あるいは以前この辺りが海と陸との境界だったのかとか、単に地主の趣味で置いているのか。
石造りといえば、他にも、徳島県に柑橘類の栽培を広めたとしてこれを顕彰する石碑もある。
建設現場の休憩所を、遍路用に開放しているところがある。平日の日中のみとあり、これは建設現場の稼働に合わせたためだろう。その建設現場というのが高速道路で、徳島市街と県南部を結ぶ路線のうち、小松島と阿南の間がまず着工されており、ここはちょうどトンネルができるようだ。これが県内の交通網のサービス向上にどのくらい貢献するかだが、高速道路はいいとしても、鉄道や路線バスはもう少し何とかならなかったのかなという思いもある。
沿道に幟が出て、休憩所という「お京塚」に着く。最近できた感じで、ベンチもありゆったりできそうだが、ここには八十八所めぐりにまつわる伝説があるという。
江戸の後期、大坂で芸妓をしていたお京という女性がいた。ここで要助という男といい仲になり、駆け落ちして故郷の石見に逃げて結婚する。しかしお京はいつしか鍛冶屋の長蔵という男と密通するようになり、挙げ句には長蔵と共謀して要助を殺してしまう。その後、お京は讃岐に逃れてきて四国遍路を始める。そして立江寺まで来たところ、髪の毛が逆立って鐘の緒に巻き付くという事態になった。そこでお京は不義を懺悔し、この地で祈りの日々を過ごし、生涯を終えた。その供養で建てられたのがお京塚という。
かつては殺風景で、ちょっとオカルトも入っていた場所だったそうだが、今は休憩所として整備され、中にはお京の位牌なんかも祀られている。このお京伝説は、四国の遍路でやましいことがある者は立江寺から先には進めないとして、教訓めいたこととして語られているそうだ。不義密通の上に殺人とは、当時としては実に許しがたいことだったのがうかがえる。現代はどうだろうか・・・・。
恩山寺から1時間弱で立江寺の立派な建物に到着する。ここは団体も泊まれる宿坊を備えている。山門をくぐったところで、「すだちのお接待やってます」と、神山町産というすだちを袋詰めにしたものを配っている。連休ということもあり人出も多いようだ。
門を入って手水を使うが、すぐ横に並んで水掛地蔵があり、その柄杓が並んでいる。一瞬間違えそうになる。
敷地はコンパクトだが、本堂は堂々とした造りである。立江寺の歴史は、この辺りのご多分にもれず聖武天皇と行基と長宗我部氏と蜂須賀氏が出てくる。そのうえ、昭和49年に火災で本堂が焼失し、3年後に現在の建物が再建されている。寺全体に新しさを感じるのはこのためである。
ここでお勤め。ここも団体の姿はなく個人がめいめいで般若心経を唱えている。5歳くらいの男の子がいて、動物の着ぐるみ姿ではしゃぎ回っているが、一緒に来たお爺ちゃんが般若心経の経本を読み始めると、一緒に一節を唱えていたのに驚いた。どこまで意味は理解しているかわからないし、いつもお爺ちゃんが家で唱えているのを横で聞いて自然に一種の歌のように覚えているのかもしれないが、子どももこのくらいの年齢での外からの影響は大きいのかなと思う(自分にも思い当たる節があるので)。
大師堂にも行く。この建物も新しい感じだ。ここには「黒衣大師」という札があるが、普段は開帳していないのかよくわからなかった。
納経帳に朱印をいただき、立江寺も終了である。ここからどこかに移動するなら徳島駅行きのバスかJR牟岐線だが、バスのほうは時間が合わないので、とりあえず7~8分歩いて立江駅に向かう。島式ホームのある無人駅だが、この日は風が強く、ホームでじっとしていると冷える。これからの秋~冬の季節に歩いて巡拝する場合、どのような出で立ちで行けばよいか、また考えなければならない。
時刻は11時半。これからどうするか。列車の時間が合えばこの先南下して、先に21番の太龍寺(桑野駅からバス乗り換え、さらにロープウェーにも乗る)、22番の平等寺(桑野の次の新野駅から徒歩30分)のいずれか、あるいは両方に行くことも考えるが、たまたまやって来た列車は桑野や新野より手前の阿南止まり。その先へ行く列車は待ちになる。ならば、徳島に戻って、間が空いている徳島五ヶ所まいりの残り三ヶ所に行くか。ただこの場合も、最も奥の13番大日寺に行くバスの便が悪い。仮にこれで行ったとして、途中の歩きや参詣の時間を重ねると、三ヶ所行くと徳島駅17時15分発の大阪への高速バスに間に合わなくなりそうだ。連休の最終日、高速バスの予約サイトを見ても、午後便はいずれも満席である。高速バスを遅い便に変更することはできなさそうだ。
うーん、「三ヶ所まいり」をさらにコマ切れにして一つ、あるいは二つだけ行こうかとも考えたが、それも中途半端。そこで結局は、まだ午前中にも関わらず、今回の札所めぐりはこれで打ち止めということにする。打ち止めというよりは打ち切りかな。ギブアップはこれで2回目。最初は、第1回の四国めぐりの2日目で、暑さにやられて午前中でギブアップした。ただ今回は計画の拙さによるギブアップである。元をたどれば初日の南海電車の人身事故となるが、あれから2日経っているのだからもう関係ないことである。初めて3日の日程を組んだが、少し消化不良である。別にやましいことがあって立江寺から先に進めなくなったわけではないが・・・。
・・・ならば、最後の午後は白衣を脱いで別の動きをしよう。立江駅のホームで白衣を取り、金剛杖も袋に収める。やって来た徳島行きでともかく徳島駅に向かう・・・・。
この弦巻坂も義経ドリームロードの一部である。義経が小松島に上陸して恩山寺の方向に向かう際、最初は平氏側の軍勢が峠の向こうにいることを警戒して弓の弦を張らせたのだが、峠を越えて敵がいないのを確認したので、張った弓の弦を巻かせたという。このために弦巻坂という名前がついた。恩山寺から歩くとまず弦巻坂を登ることになり、峠を越えて下りになると、今度は弦張坂と名前が変わる。峠といっても山越えの厳しいものではないが、ちょっとした丘ぐらいの高低差がある。
弦張坂のほうを下る途中に柑橘類の畑に出る。徳島名産のすだちにしては実の粒があまりにも大きいように思う。これはみかんの木かな。みかんと言えばこの辺りなら愛媛か和歌山であるが、徳島県でも勝浦や小松島辺りでは栽培されているという。この先、昔の遍路道に沿って歩く中で、みかん畑の畦道や民家の庭先を通っていく。すれ違う地元の人から「かんばりや~」と声をかけられる。
県道に出る。ここには文化年間の道標もある。ここからは県道を歩く。普通の住宅も並ぶ。田野地区というところで、義経の軍はここを通って恩山寺や旗山に向かったそうである。
そんな道の途中に突然現れたのが石造りの常夜燈。なぜここにあるのか説明書きがなかったのだが、旧街道の道標なのか、あるいは以前この辺りが海と陸との境界だったのかとか、単に地主の趣味で置いているのか。
石造りといえば、他にも、徳島県に柑橘類の栽培を広めたとしてこれを顕彰する石碑もある。
建設現場の休憩所を、遍路用に開放しているところがある。平日の日中のみとあり、これは建設現場の稼働に合わせたためだろう。その建設現場というのが高速道路で、徳島市街と県南部を結ぶ路線のうち、小松島と阿南の間がまず着工されており、ここはちょうどトンネルができるようだ。これが県内の交通網のサービス向上にどのくらい貢献するかだが、高速道路はいいとしても、鉄道や路線バスはもう少し何とかならなかったのかなという思いもある。
沿道に幟が出て、休憩所という「お京塚」に着く。最近できた感じで、ベンチもありゆったりできそうだが、ここには八十八所めぐりにまつわる伝説があるという。
江戸の後期、大坂で芸妓をしていたお京という女性がいた。ここで要助という男といい仲になり、駆け落ちして故郷の石見に逃げて結婚する。しかしお京はいつしか鍛冶屋の長蔵という男と密通するようになり、挙げ句には長蔵と共謀して要助を殺してしまう。その後、お京は讃岐に逃れてきて四国遍路を始める。そして立江寺まで来たところ、髪の毛が逆立って鐘の緒に巻き付くという事態になった。そこでお京は不義を懺悔し、この地で祈りの日々を過ごし、生涯を終えた。その供養で建てられたのがお京塚という。
かつては殺風景で、ちょっとオカルトも入っていた場所だったそうだが、今は休憩所として整備され、中にはお京の位牌なんかも祀られている。このお京伝説は、四国の遍路でやましいことがある者は立江寺から先には進めないとして、教訓めいたこととして語られているそうだ。不義密通の上に殺人とは、当時としては実に許しがたいことだったのがうかがえる。現代はどうだろうか・・・・。
恩山寺から1時間弱で立江寺の立派な建物に到着する。ここは団体も泊まれる宿坊を備えている。山門をくぐったところで、「すだちのお接待やってます」と、神山町産というすだちを袋詰めにしたものを配っている。連休ということもあり人出も多いようだ。
門を入って手水を使うが、すぐ横に並んで水掛地蔵があり、その柄杓が並んでいる。一瞬間違えそうになる。
敷地はコンパクトだが、本堂は堂々とした造りである。立江寺の歴史は、この辺りのご多分にもれず聖武天皇と行基と長宗我部氏と蜂須賀氏が出てくる。そのうえ、昭和49年に火災で本堂が焼失し、3年後に現在の建物が再建されている。寺全体に新しさを感じるのはこのためである。
ここでお勤め。ここも団体の姿はなく個人がめいめいで般若心経を唱えている。5歳くらいの男の子がいて、動物の着ぐるみ姿ではしゃぎ回っているが、一緒に来たお爺ちゃんが般若心経の経本を読み始めると、一緒に一節を唱えていたのに驚いた。どこまで意味は理解しているかわからないし、いつもお爺ちゃんが家で唱えているのを横で聞いて自然に一種の歌のように覚えているのかもしれないが、子どももこのくらいの年齢での外からの影響は大きいのかなと思う(自分にも思い当たる節があるので)。
大師堂にも行く。この建物も新しい感じだ。ここには「黒衣大師」という札があるが、普段は開帳していないのかよくわからなかった。
納経帳に朱印をいただき、立江寺も終了である。ここからどこかに移動するなら徳島駅行きのバスかJR牟岐線だが、バスのほうは時間が合わないので、とりあえず7~8分歩いて立江駅に向かう。島式ホームのある無人駅だが、この日は風が強く、ホームでじっとしていると冷える。これからの秋~冬の季節に歩いて巡拝する場合、どのような出で立ちで行けばよいか、また考えなければならない。
時刻は11時半。これからどうするか。列車の時間が合えばこの先南下して、先に21番の太龍寺(桑野駅からバス乗り換え、さらにロープウェーにも乗る)、22番の平等寺(桑野の次の新野駅から徒歩30分)のいずれか、あるいは両方に行くことも考えるが、たまたまやって来た列車は桑野や新野より手前の阿南止まり。その先へ行く列車は待ちになる。ならば、徳島に戻って、間が空いている徳島五ヶ所まいりの残り三ヶ所に行くか。ただこの場合も、最も奥の13番大日寺に行くバスの便が悪い。仮にこれで行ったとして、途中の歩きや参詣の時間を重ねると、三ヶ所行くと徳島駅17時15分発の大阪への高速バスに間に合わなくなりそうだ。連休の最終日、高速バスの予約サイトを見ても、午後便はいずれも満席である。高速バスを遅い便に変更することはできなさそうだ。
うーん、「三ヶ所まいり」をさらにコマ切れにして一つ、あるいは二つだけ行こうかとも考えたが、それも中途半端。そこで結局は、まだ午前中にも関わらず、今回の札所めぐりはこれで打ち止めということにする。打ち止めというよりは打ち切りかな。ギブアップはこれで2回目。最初は、第1回の四国めぐりの2日目で、暑さにやられて午前中でギブアップした。ただ今回は計画の拙さによるギブアップである。元をたどれば初日の南海電車の人身事故となるが、あれから2日経っているのだからもう関係ないことである。初めて3日の日程を組んだが、少し消化不良である。別にやましいことがあって立江寺から先に進めなくなったわけではないが・・・。
・・・ならば、最後の午後は白衣を脱いで別の動きをしよう。立江駅のホームで白衣を取り、金剛杖も袋に収める。やって来た徳島行きでともかく徳島駅に向かう・・・・。