恩山寺へはバス停から少し坂を上る。朝から歩いている人だろうか、「おはようございます」と一人の巡礼姿の人が私を追い越して行く。
クルマが通るからだろうか、山門は車道から外れた脇道にある。どこかから山道を通ってここに出るようになっており、山門に続く昔ながらの歩道というのは別にあるのだろう。山門の横に3本の木が伸びているが、普通の木とは違って、木肌があらわになっている。弘法大師が植えたとされるビランジュ(毘欄樹)の木である。比較的温暖な地域に生息し、別名をバクチノキ(博打の木)というそうだ。何でも幹の木肌があらわになった様子が、博打に負けて身ぐるみはがされた姿に似ているからだとか。だから、競馬が当たるようにとか、宝くじが当たるようにとかいうお願いごとは、この恩山寺にはあまりしないほうがよいかもしれない?
ビランジュの木を過ぎると、車道と昔ながらの山道が分離する。歩行者は山道を歩いたほうが近道で、上り坂ではあるが5分も歩くと境内の石段前に出る。比較的新しく建立した修行大師像が出迎えてくれる。
元々恩山寺は、聖武天皇の勅願で行基が開創したとされ、戦国時代には長宗我部の兵火で焼かれ、江戸時代には蜂須賀氏の保護を受けたという歴史がある。今回このあたりの札所を回る中で、藤井寺や焼山寺は別として、この同じような歴史が出てくる。弘法大師との関わり度合いが札所で違うというものだろう。中にはいささか「ほんまかいな」と思われるものもあるそうだが、恩山寺には弘法大師の母親孝行の伝説がある。当時密厳寺と呼ばれていたこの寺で修行していた大師を母(玉依御前)が訪ねてくるが、当時は女人禁制だったために中に入ることができない。そこで大師は仁王門に護摩壇を設けて祈祷を行い、女人禁制を解いて母を迎え入れ、孝行を尽くした。母もここで剃髪し、その髪を奉納した。それを記念して、先に触れたビランジュの木を植え、寺の名前も母の恩に報いるためとして「恩山寺」としたという。
当時の考え方として、「女人禁制を解く」というのはどういう意味をなすのだろうか。高野山も女人禁制であり、だからこそ室生寺をはじめとした「女人高野」があるわけで。女人禁制は、護摩を焚いて祈祷を行えば禁制が解けるものなのか(当時、女性は穢れたものという考えがあったとして、それなら祈祷をして穢れを払えば良いではないか・・・というのなら合理的)、あるいは弘法大師の母だから特別に許されたのか。それとも、密厳寺は所詮田舎の寺で高野山ほどの山岳修行の道場ではないから別にかまわないとか。背景はどうだったかわからない。
こちらはまず大師堂が境内の手前にあり、本堂へはさらにミニ地蔵が横にずらりと並ぶ石段を上がる。団体客の姿は見えないが、個人でお参りする巡礼姿の人は結構いる。まずは本堂に向かうと石段を上がる。石段の上から小松島の町が見えるかと思うが、境内の木々にさえぎられて見ることはできない。
石段を下りて、今度は本堂を背にして右側の大師堂に向かう。周りの人を見てもそれぞれの流儀?でお勤めをしているようで、全部の文言を丁寧に言う人もいれば、般若心経だけ早口で唱えてさっさと行く人もいて、それぞれである。この大師堂の横に、弘法大師の母の玉依御前の髪を祀ったとされているお堂もある。
納経所にてこの日最初の朱印をいただく。恩山寺で有名なのは「摺袈裟」というお守りだそうだ。「滅罪生善」といって、いかなる病気も癒え、悪いことが良いことに変わるという効能があるそうだ。摺袈裟というくらいだから、袋から出して輪袈裟のように首からかけるものかなと思ったが、あくまで肌身につけるお守りで、袋から出すものではないという。普段、あちらこちらの寺社に行っているが、お守りやお札というものにはさほど興味がないので「お守りなら別にいいか」として買わなかったのだが、今思えばここでしかないものだというから買い求めてもよかったかなと思う。四国をあちこち回っている方たちのブログなどにも出てきているし、この時も「朱印と摺袈裟をお願いします」と言っていた人もいた。
9時半を過ぎて、次の立江寺に向かう。およそ4キロ、1時間近くの道のりである。立江寺には先ほど乗って来た系統の路線バスで行くこともできるのだが、ここは本数も少なく時間が合わないのと、途中の竹やぶの道が歩きコースとしてお勧めということで歩くことにする。恩山寺のバス停にあった道案内の看板に書かれていたのだが、昔の遍路道を行く場合は恩山寺の下にある牛舎の横を通るようにとある。ただし、牛を刺激するようなことはしないようにと。いろんなところを通らせるものである。
で、牛舎を通ろうとするのだが、正面には犬がいてしじゅう吠えまくっている。あまり気持ちの良いものではないが、この中を行かなければならないのか。リードをつけているのかな・・・と、黒牛を間近に見ながら少しずつ牛舎の間を抜けていくと、中で牛の世話をしていたおじさんから「こっちちゃいますよ~、手前の入口の脇の細い道を通ってな~」と声がかかる。牛舎の手前に竹やぶに入る道がある。とりあえず、番犬の前を通る必要がないのでよいが、それにしてもあの番犬、1日中こうした白いのを着ている見慣れない人間がうろうろしているから、なかなか気の休まることがないだろうな。
これから続く竹やぶの道、その名も「弦巻坂」という・・・。
クルマが通るからだろうか、山門は車道から外れた脇道にある。どこかから山道を通ってここに出るようになっており、山門に続く昔ながらの歩道というのは別にあるのだろう。山門の横に3本の木が伸びているが、普通の木とは違って、木肌があらわになっている。弘法大師が植えたとされるビランジュ(毘欄樹)の木である。比較的温暖な地域に生息し、別名をバクチノキ(博打の木)というそうだ。何でも幹の木肌があらわになった様子が、博打に負けて身ぐるみはがされた姿に似ているからだとか。だから、競馬が当たるようにとか、宝くじが当たるようにとかいうお願いごとは、この恩山寺にはあまりしないほうがよいかもしれない?
ビランジュの木を過ぎると、車道と昔ながらの山道が分離する。歩行者は山道を歩いたほうが近道で、上り坂ではあるが5分も歩くと境内の石段前に出る。比較的新しく建立した修行大師像が出迎えてくれる。
元々恩山寺は、聖武天皇の勅願で行基が開創したとされ、戦国時代には長宗我部の兵火で焼かれ、江戸時代には蜂須賀氏の保護を受けたという歴史がある。今回このあたりの札所を回る中で、藤井寺や焼山寺は別として、この同じような歴史が出てくる。弘法大師との関わり度合いが札所で違うというものだろう。中にはいささか「ほんまかいな」と思われるものもあるそうだが、恩山寺には弘法大師の母親孝行の伝説がある。当時密厳寺と呼ばれていたこの寺で修行していた大師を母(玉依御前)が訪ねてくるが、当時は女人禁制だったために中に入ることができない。そこで大師は仁王門に護摩壇を設けて祈祷を行い、女人禁制を解いて母を迎え入れ、孝行を尽くした。母もここで剃髪し、その髪を奉納した。それを記念して、先に触れたビランジュの木を植え、寺の名前も母の恩に報いるためとして「恩山寺」としたという。
当時の考え方として、「女人禁制を解く」というのはどういう意味をなすのだろうか。高野山も女人禁制であり、だからこそ室生寺をはじめとした「女人高野」があるわけで。女人禁制は、護摩を焚いて祈祷を行えば禁制が解けるものなのか(当時、女性は穢れたものという考えがあったとして、それなら祈祷をして穢れを払えば良いではないか・・・というのなら合理的)、あるいは弘法大師の母だから特別に許されたのか。それとも、密厳寺は所詮田舎の寺で高野山ほどの山岳修行の道場ではないから別にかまわないとか。背景はどうだったかわからない。
こちらはまず大師堂が境内の手前にあり、本堂へはさらにミニ地蔵が横にずらりと並ぶ石段を上がる。団体客の姿は見えないが、個人でお参りする巡礼姿の人は結構いる。まずは本堂に向かうと石段を上がる。石段の上から小松島の町が見えるかと思うが、境内の木々にさえぎられて見ることはできない。
石段を下りて、今度は本堂を背にして右側の大師堂に向かう。周りの人を見てもそれぞれの流儀?でお勤めをしているようで、全部の文言を丁寧に言う人もいれば、般若心経だけ早口で唱えてさっさと行く人もいて、それぞれである。この大師堂の横に、弘法大師の母の玉依御前の髪を祀ったとされているお堂もある。
納経所にてこの日最初の朱印をいただく。恩山寺で有名なのは「摺袈裟」というお守りだそうだ。「滅罪生善」といって、いかなる病気も癒え、悪いことが良いことに変わるという効能があるそうだ。摺袈裟というくらいだから、袋から出して輪袈裟のように首からかけるものかなと思ったが、あくまで肌身につけるお守りで、袋から出すものではないという。普段、あちらこちらの寺社に行っているが、お守りやお札というものにはさほど興味がないので「お守りなら別にいいか」として買わなかったのだが、今思えばここでしかないものだというから買い求めてもよかったかなと思う。四国をあちこち回っている方たちのブログなどにも出てきているし、この時も「朱印と摺袈裟をお願いします」と言っていた人もいた。
9時半を過ぎて、次の立江寺に向かう。およそ4キロ、1時間近くの道のりである。立江寺には先ほど乗って来た系統の路線バスで行くこともできるのだが、ここは本数も少なく時間が合わないのと、途中の竹やぶの道が歩きコースとしてお勧めということで歩くことにする。恩山寺のバス停にあった道案内の看板に書かれていたのだが、昔の遍路道を行く場合は恩山寺の下にある牛舎の横を通るようにとある。ただし、牛を刺激するようなことはしないようにと。いろんなところを通らせるものである。
で、牛舎を通ろうとするのだが、正面には犬がいてしじゅう吠えまくっている。あまり気持ちの良いものではないが、この中を行かなければならないのか。リードをつけているのかな・・・と、黒牛を間近に見ながら少しずつ牛舎の間を抜けていくと、中で牛の世話をしていたおじさんから「こっちちゃいますよ~、手前の入口の脇の細い道を通ってな~」と声がかかる。牛舎の手前に竹やぶに入る道がある。とりあえず、番犬の前を通る必要がないのでよいが、それにしてもあの番犬、1日中こうした白いのを着ている見慣れない人間がうろうろしているから、なかなか気の休まることがないだろうな。
これから続く竹やぶの道、その名も「弦巻坂」という・・・。