長々とした歩きの記事のあとで、ようやく焼山寺にたどり着いた。最後の石段を登り終えるとここにも巨大な弘法大師像がある。「よう来たのう」と言ってくれているようだ。
周りは立派な杉に囲まれており、山岳寺院の風情が漂っている。今は昼13時過ぎで明るい雰囲気だが、朝などに来たら山霧の中に佇んでいる姿が似合うことだろう。
山深いところだが、寺の名前は「焼山」寺。今、山火事でも起きて文字通りの「焼山」になったらえらいことだが、そもそもこの名前がついたのはなぜだろうか。
かつてこの山には火を吐く大蛇が住んでいて、麓の村や人たちにも害を与えていた。修行のためにこの山を訪れた弘法大師も、杉の木の下で休んで目が覚めると、周りが火の海になっていた。大師は川で身を清め、水の印を結んで大蛇に相対するも、大蛇は山全体を火の海にして、頂上の岩窟に閉じこもって抵抗する。そこで虚空蔵菩薩、三面大黒天に祈願すると、大蛇をそのまま岩窟に封じ込めることができた。そのお礼としてこの地に虚空蔵菩薩を本尊とする寺を建てた。これが焼山寺の由来とされている。八十八所で虚空蔵菩薩を本尊としているのはここだけとのこと。ちなみに、私の生まれた丑年の守り本尊である。
四国めぐりの参考書としている五来重『四国遍路の寺』によると、この伝説が示唆するものがいくつかあるようだ。一つは、ここで言う大蛇とは修験道などの山人たちで、弘法大師は密教の修行者。そして、山に入るのなら、山の神聖を守る山人に相対するために川で身を清めるというもの。また、虚空蔵菩薩の力を得るのも、求聞持法という密教修行の成果とされている。旧来の修験道に対していかに密教の力がすごいかということを表したのがこの伝説だという。
・・・ということを踏まえて本堂に向かうが、今となっては遍路ころがしの到着地としてのほうが知られている感じである。連休中ということで多くの参詣者がいて、それぞれのペースでお勤めである。ただそんな中にもバスツアーの団体がやって来る。この人たちはいずれも身軽な出で立ちだが、昔ながらの巡礼スタイルをきちんと着こなしている人が多いのが特徴の一つである。
焼山寺まで歩いて来たどなたかのブログで、遍路ころがしの坂道そのものはどうということはないが、登った後で、手ぶらの人たち(中にはハイヒールを履いた人も)が雑談をしながら歩いているのを見て、「精神的に転がされた」と、そちらのほうで心折れたというのがある。その気持ちは何となくわかる。まあ、今さらその優劣を競っても意味がないし、私も「遍路」を名乗る資格のない人間なのだから一緒である。
本堂、大師堂とお勤めして、下の納経所に向かう。列ができており、係の人が都度、何で来たか、今日は何人かと尋ねている。何で来たというのは、クルマだと駐車料金を一緒に収受するため。また何人というのは、人数分を超える数の納経帳や白衣、掛軸に押印はしないというものである。団体で来て、その人たちの分を誰かがまとめて印を受けに来るならよいが、実際に焼山寺に来ていない人の印はやらないという姿勢である。だから、「年で歩くのがしんどくてここに来られない親のぶんの納経帳です」というのは、ここでは受け付けない。これをどう受け止めるかだが、ネットなど見ると、この対応で焼山寺じたいをマイナスに評価する声もあるようだ。
私の番になると、こちらから何も言わないのに、先方から「歩き・・・ご苦労様でした」と頭を下げ、納経帳にも丁寧に印をしていただいた。たかが札所めぐりにそこまでしていただかなくても。外から見て結構殺気だったように見えたのかな。職場でも、上長から「人を2、3人殺して来たような顔しとるで」と時に戒められることがあるが(当たり前ですが殺してません。ただ、よほど殺気だった険しい表情に見えるのかもしれません)、この時はそんな表情だったのだろう。
これで一段落ということで、休憩所に入る。「田舎うどん 200円」の貼り紙がある。朝の藤井寺からの歩きの途中、カロリーメイトは口にしたが、昼食はまだである。それを頼むと、出てきたのは小ぶりな丼。町のうどん店なら「小」として出てくるかどうか。ただ、この時はこれでよかった。普段歩かない人が長い距離を歩いた後、なかなかいつものようには食べ物が入らない。うどんも、このくらいでよかった。
思ったよりも早い時間に焼山寺に来たので、復路の神山町営バスまで時間が空くと思う。ただ、焼山寺に居続けても仕方がないので、まずは下ることにする。目指すは町営バスの終点がある鍋岩地区で・・・・。
周りは立派な杉に囲まれており、山岳寺院の風情が漂っている。今は昼13時過ぎで明るい雰囲気だが、朝などに来たら山霧の中に佇んでいる姿が似合うことだろう。
山深いところだが、寺の名前は「焼山」寺。今、山火事でも起きて文字通りの「焼山」になったらえらいことだが、そもそもこの名前がついたのはなぜだろうか。
かつてこの山には火を吐く大蛇が住んでいて、麓の村や人たちにも害を与えていた。修行のためにこの山を訪れた弘法大師も、杉の木の下で休んで目が覚めると、周りが火の海になっていた。大師は川で身を清め、水の印を結んで大蛇に相対するも、大蛇は山全体を火の海にして、頂上の岩窟に閉じこもって抵抗する。そこで虚空蔵菩薩、三面大黒天に祈願すると、大蛇をそのまま岩窟に封じ込めることができた。そのお礼としてこの地に虚空蔵菩薩を本尊とする寺を建てた。これが焼山寺の由来とされている。八十八所で虚空蔵菩薩を本尊としているのはここだけとのこと。ちなみに、私の生まれた丑年の守り本尊である。
四国めぐりの参考書としている五来重『四国遍路の寺』によると、この伝説が示唆するものがいくつかあるようだ。一つは、ここで言う大蛇とは修験道などの山人たちで、弘法大師は密教の修行者。そして、山に入るのなら、山の神聖を守る山人に相対するために川で身を清めるというもの。また、虚空蔵菩薩の力を得るのも、求聞持法という密教修行の成果とされている。旧来の修験道に対していかに密教の力がすごいかということを表したのがこの伝説だという。
・・・ということを踏まえて本堂に向かうが、今となっては遍路ころがしの到着地としてのほうが知られている感じである。連休中ということで多くの参詣者がいて、それぞれのペースでお勤めである。ただそんな中にもバスツアーの団体がやって来る。この人たちはいずれも身軽な出で立ちだが、昔ながらの巡礼スタイルをきちんと着こなしている人が多いのが特徴の一つである。
焼山寺まで歩いて来たどなたかのブログで、遍路ころがしの坂道そのものはどうということはないが、登った後で、手ぶらの人たち(中にはハイヒールを履いた人も)が雑談をしながら歩いているのを見て、「精神的に転がされた」と、そちらのほうで心折れたというのがある。その気持ちは何となくわかる。まあ、今さらその優劣を競っても意味がないし、私も「遍路」を名乗る資格のない人間なのだから一緒である。
本堂、大師堂とお勤めして、下の納経所に向かう。列ができており、係の人が都度、何で来たか、今日は何人かと尋ねている。何で来たというのは、クルマだと駐車料金を一緒に収受するため。また何人というのは、人数分を超える数の納経帳や白衣、掛軸に押印はしないというものである。団体で来て、その人たちの分を誰かがまとめて印を受けに来るならよいが、実際に焼山寺に来ていない人の印はやらないという姿勢である。だから、「年で歩くのがしんどくてここに来られない親のぶんの納経帳です」というのは、ここでは受け付けない。これをどう受け止めるかだが、ネットなど見ると、この対応で焼山寺じたいをマイナスに評価する声もあるようだ。
私の番になると、こちらから何も言わないのに、先方から「歩き・・・ご苦労様でした」と頭を下げ、納経帳にも丁寧に印をしていただいた。たかが札所めぐりにそこまでしていただかなくても。外から見て結構殺気だったように見えたのかな。職場でも、上長から「人を2、3人殺して来たような顔しとるで」と時に戒められることがあるが(当たり前ですが殺してません。ただ、よほど殺気だった険しい表情に見えるのかもしれません)、この時はそんな表情だったのだろう。
これで一段落ということで、休憩所に入る。「田舎うどん 200円」の貼り紙がある。朝の藤井寺からの歩きの途中、カロリーメイトは口にしたが、昼食はまだである。それを頼むと、出てきたのは小ぶりな丼。町のうどん店なら「小」として出てくるかどうか。ただ、この時はこれでよかった。普段歩かない人が長い距離を歩いた後、なかなかいつものようには食べ物が入らない。うどんも、このくらいでよかった。
思ったよりも早い時間に焼山寺に来たので、復路の神山町営バスまで時間が空くと思う。ただ、焼山寺に居続けても仕方がないので、まずは下ることにする。目指すは町営バスの終点がある鍋岩地区で・・・・。