まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第3番「般若寺」~西国四十九薬師めぐり・22(コスモス満開の寺)

2020年11月10日 | 西国四十九薬師

奈良市内にある西国四十九薬師の4ヶ所を実質日帰りで回る。近鉄奈良駅のバス乗り場から、まずは第3版の般若寺に向かう。乗るのは奈良駅の北にある青山住宅行きで、この辺りのバスは均一運賃のため前方入口で先払いする。

10分あまり走って、般若寺バス停に到着する。寺はバス停からすぐのところにあり、山門ではなく駐車場が出迎える。時刻はまだ朝9時すぎということで、駐車場のクルマもそれほど多くはない。拝観受付も塀の一部を切り取ったところにあり、500円を納める。

そして境内に入る。そこに飛び込んで来たのは、一面のコスモス。般若寺は「コスモス寺」として知られていて、例年10月上旬~11月中旬にかけてが見ごろという。境内全体では15万本が花を咲かせるという。今回の奈良行きを11月8日に入れ込んだのは、このコスモスを見ようという思いもあってのことである。拝観の人たちもコスモスがお目当てのようで、スマホやカメラをあちこちに向けて、寺の本堂とコスモスとの組み合わせた写真撮影に夢中である。私も下手くそながらいろいろとカメラに収める。

その中を抜けて本堂に向かう。その前にはコスモスの花びらを浮かせた鉢が置かれていて、これも目を見張らせる。心が癒される感じだ。

本堂に上がる。本尊は文殊菩薩で、脇には不動明王、四天王像などが祀られているが、あれ、薬師如来は・・?というところだが、ともかく本堂に上がったのだからまずは手を合わせる。本堂の前の縁側で朱印を受け付けていたので、先にバインダー式の朱印をいただく。

ここで、般若寺の歴史について見てみるが、開かれた年代ははっきりしていないようである。聖武天皇が伽藍を建立したという説もあるが、確かではない。ただ、遅くとも平安時代には存在していたようで、源平の戦いの時、平重衡による南都焼き討ちで東大寺や興福寺などとともに焼け落ちたとある。その後鎌倉時代に再興され、西大寺の僧で真言律宗を開いた叡尊により本尊や伽藍が整備された。

また、寺のシンボルとして、本堂と対峙するように十三重の石塔が建つ。その基礎となる四面それぞれに仏像が彫られている。東・薬師如来、南・釈迦如来、西・阿弥陀如来、北・弥勒菩薩である。その東面の前に薬師如来像が置かれ、お参りする台が設けられており、西国薬師の幟もある。見た目は目の前の薬師如来の像を拝んでいるが、実は十三重石塔の薬師如来が西国四十九薬師めぐりの本尊というわけだ。この石塔は1964年に解体修理が行われ、中から様々な文化財が出たことから現在につながる寺の歴史が解明されたという。

また、境内の一隅に楼門がある。こちらは鎌倉時代の創建当時の姿を残しており、国宝にも指定されている。コスモスに目が行ってしまうが、歴史的にも貴重なものが多い寺である。

この時ちょうど、本堂裏手の宝物庫にて白鳳秘仏の特別公開が行われているとある。せっかくなので訪ねてみる。建物の前で銅鑼を叩くと扉が開いて中に招かれる。

メインは、白鳳時代の阿弥陀如来。持統天皇の念持仏で、聖武天皇が平城京の鬼門鎮護のために祀ったと言われている。上に書いた1964年の十三重石塔の解体修理の時に見つかったものである。さらにその台座には阿弥陀如来、大日如来、地蔵菩薩も埋め込まれてた。これは平安時代の作とされ、十三重石塔に白鳳時代の阿弥陀如来を収める時に一緒に埋め込んだのか、あるいは元々誰かが埋め込んだものかと言われている。この他にも水晶や銅でできた舎利塔など、十三重石塔の中にはさまざまなものが収められ、石塔が般若寺のシンボルとして今まで受け継がれてきたことがわかる。

ここまで見ると、白鳳時代にもつながる由緒ある寺というのはよくわかるのだが、境内一面にコスモスというのはどういうことからだろうか。

50年ほど前、前の住職が当時荒寺状態だった境内に一輪のコスモスが咲くのを見つけて、多くの人にコスモスを見ていただき、心を和やかに持ってほしいとの思いからコスモスの研究を始めたという。今ではボランティアの人たちが欠かさず手入れを行っていて、それが毎年のきれいな花びらにつながっている。やはり寺はさまざまな人たちの支えで成り立っている。

秋晴れの穏やかな空の下でコスモスを楽しみ、次は興福寺に向かう。バスで県庁前まで戻る。ちょうど奈良国立博物館で正倉院展が開かれていることもあってか、一時のことを思えば人が多く感じられる・・・。

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