2月5日、出雲市から岡山までの長距離鈍行に乗った。岡山着が23時を回っていたこともありそのまま宿泊。翌日はそのまま山陽線の鈍行で広島に戻ればよい状況である。
岡山から広島に戻る途中に福山を通るが、この帰路を利用して中国四十九薬師めぐりの続きを行うことにした。前回、第10番の日光寺を回って岡山県をコンプリートして、今回から広島県である。中国四十九薬師では東城、三次といった県北部も含まれる。
今回はこのうち、第11番の東福院、第12番の国分寺を回ることにする。いずれも福山市の神辺町で、井原鉄道の沿線である。岡山からの帰りに立ち寄ることで、改めて福山まで来る手間を省くとともに、前日の鈍行列車が単に乗るだけでなく、札所への壮大な移動に変わる。
2月6日、7時57分発の福山行きで出発。雪の舞う山陽~山陰だった前日から一転して、さすがは「晴れの国岡山」である。
福山に到着。いったん改札を出て、福塩線~井原鉄道の連絡きっぷを購入し、9時09分発の福塩線府中行きに乗り換える。福塩線の電化区間は105系というイメージだが、この列車については珍しく115系が使用されている。芦田川に沿って走り、井原鉄道の乗換駅である神辺に到着。
9時26分発の総社行きは特別車両「夢やすらぎ号」が使われていた。いわゆる「水戸岡デザイン」の車両で、内装は木をふんだんに使い、心安らぐ部屋をイメージしている。ボックス席の中央には木のテーブルも設けられている。
せっかくの車両なので長く乗りたいところだが、これから向かうのは2駅目の御領。広島県側の最後の駅である。札所番号順としては、手前の東福院、奥の国分寺であるが、今回はまず国分寺最寄りの御領まで井原鉄道で移動し、先に国分寺を訪ねてそのまま東福院を経由して神辺駅まで歩くことにする。この日は快晴、外の空気は冷えているものの歩くには申し分ない。
御領で下車。御領という地名には歴史を感じさせる。国分寺も近いし、少し西に行けば備後の府中がある。西国街道も通り、かつてはこの辺りが備後の中心だったことがうかがえる。
西国街道を歩くと、国分寺の手前にまず見えたのは下御領八幡神社。国分寺と同じ奈良時代に、国分寺の鎮守社として開かれた。戦国時代には武将たちが武運を祈り、江戸時代には福山藩の水野氏の保護を受けた歴史がある。
この八幡神社から西に少し進むと国分寺である。奈良時代、聖武天皇の勅命で全国に建てられた国分寺だが、その後、国が建てた国分寺は廃れたものの、その流れを受けて再興され現在にその名を残している寺は多い。
国分寺の案内板がある。昭和の発掘調査で、塔、金堂、講堂、南門の跡が見つかり、東西180メートルの規模を持つことが判明したとある。現在の国分寺からは少し南に寄っている。
現在も各地に国分寺という名前の寺があるが、奈良時代に国によって建てられた国分寺そのものが残っているわけではないようだ。律令体制が崩壊すると国分寺も廃れ、後にその土地の人たちや僧が再興したのが現在に受け継がれている。ここ備後の国分寺は鎌倉時代に再興されたが、戦乱や災害に遭ったこともあり、現在の場所に建てられたのは江戸時代、水野氏の手による。
順序が逆になるが、西国街道に続くまっすぐな参道を歩く。松並木や住宅の横に塔や金堂などの跡を示す石碑が並ぶ。そして西国街道(古代の山陽道)に出たところが南門跡である。