まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第7回中国四十九薬師めぐり~第10番「日光寺」(神島八十八ヶ所)

2022年02月04日 | 中国四十九薬師

福山を出発したレンタカーは神島(こうのしま)の外浦地区に入る。小さな港町ではあるが住宅、民宿、工場などが密集している。

カーナビを日光寺にセットして来て案内が終了したが、寺らしきものは見えない。地図を見ると別の細い道を上がり、境内の裏手に回るようだ。クルマをもう少し進めると、八十八ヶ所の道案内とともに日光寺の標識が出てきた。最後は急な坂を上り、墓地の前のスペースに停める。ちょうど雨がパラパラと降ってきた。

境内に入る。山門の外には果たして瀬戸内海と笠岡諸島が広がっており、まずはいったん山門を出て景色を眺める。下から上がって来る石段の細道が続いている。

日光寺の開創時期は不明だが、本尊薬師如来は伝教大師の作と伝えられる。戦国時代に再興され、江戸時代には福山藩の水野氏の祈願所にもなった。まずは本堂の前でのお勤めである。

本堂の横に神島八十八ヶ所の第31番である「竹林寺」がある。先ほど見かけた「清瀧寺」と同じく、八十八ヶ所といってもそうした名前の寺が建っているわけではなく、八十八ヶ所の札所の名前を冠したお堂や祠が続く。

まずは中国四十九薬師としてのお参りを終え、納経所も無人のためケースに入った書き置きの朱印をいただく。

さてこれから海沿いに笠岡港を目指すことにする。坂道を下りて海沿いの道を進むと、小ぶりながら由緒ありげな神社に出る。神島神社とある。祭神は神武天皇と、后の興世姫命で、境内には神武天皇の像も建てられている。

神武天皇が東征した際、瀬戸内海を通り、「吉備国の高島」に行宮を置き数年間滞在したとされる。その「高島」とされる地はいくつかあるそうで、こちら笠岡ではこの神島の向かいにある高島だとしている。神島神社も奈良時代に高島に創建され、後に現在地に移されたとある。

そのまま海沿いに進むうち、神島八十八ヶ所のお堂が短い間隔で現れる。思わずクルマを止めて立ち寄ってしまう。神島から見て左回りに進んでおり、第20番の鶴林寺、第19番の立江寺などと、札所の番号が少しずつ少なくなるので、四国でいえば逆打ちでたどる形である。この先にもお堂を見かけるが、一つ一つ付き合っていたのではきりがないのでそのまま集落を抜ける。

公民館の前を過ぎると巨大な弘法大師像が目に入る。さすがにこれは無視できず拝んでおこうと、いったん通り過ぎた後、公民館の駐車場に戻る。

この駐車場には神島八十八ヶ所の全体の案内図が出ている。それによるとこの辺りが打ち始めの場所だという。今は橋が架けられ、また干拓が行われたことで本土ともつながっているが、かつて単独の島だった時にその海岸沿いを回っていたことがうかがえる。

神島八十八ヶ所は江戸時代の中期に今田慧弦、池田重郎兵衛により開かれたという。慧弦は子どもを亡くしたことをきっかけに四国遍路に出たが、その後、四国巡礼ができない人ができる方法はないかということで、四国の各札所の土を持ち帰り、重郎兵衛とともに神島に霊場を整備した。ちょうど、神島の地形が四国に似ているということで、海あり山ありのルートが出来上がった。打ち始めは1番からではなく、ここから近い懺悔庵で心を清らかにして、道順として第77番の道隆寺からというのが定番だそうだ。

瀬戸内海の島々には小豆島や伊予大島など、いくつかの「島遍路」が存在していたが、神島八十八ヶ所はその中でも歴史が古いほうに属し、また現在もそのルートをとどめるとして歴史的な価値があるとされる。全長約29キロ、徒歩なら2~3日で制覇できる距離とあって、春や秋には回る人もいるとか。

・・・何だか、中国四十九薬師より神島八十八ヶ所についての記事になったようだが、瀬戸内の歴史文化の一面に触れるきっかけになったと思う。

今回はそのまま神島大橋から本土に渡り、笠岡の伏越港に向かう。雨が降っているのが残念だが、せっかくなので北木島に渡ることに・・・。

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