このところ5月に行った京都、奈良の札所めぐりの話が続いたが、久しぶりに広島の札所についても進めることにする。
中国四十九薬師めぐりを初めてちょうど1年が経つところだが、現在は尾道の第16番・西國寺まで進んでいて、続きは因島にある第17番・見性寺からである。また一方、広島新四国八十八ヶ所めぐりは西条にある第38番・国分寺まで来ていて、次は白市にある第39番・光政寺(こうしょうじ)である。ちょうど中国四十九薬師めぐりが広島の東から西に進み、広島新四国が西から東に進んでいるところで、それぞれがちょうど重なりそうな時である。
そこで、一度に両方の札所めぐりを進めることを考える。広島からクルマで東に進み、まずは広島新四国の光政寺、そして河内にある第40番・竹林寺を経由して尾道に向かう。そして中国四十九薬師の見性寺から同じ因島にある第18番・光明寺、生口島にある第19番・薬師寺と回って広島に戻るというものだ。
朝早く出発すれば1日で回れないこともないかと思うが、ちょっとしんどいかな。ということで、県内ながら1泊ということにした。スケジュールとして6月11日~12日を充て、11日の午前中は所用があるため昼から出発。光政寺、竹林寺と訪ねた後、三原と尾道の間の糸崎で宿泊とする(なぜ糸崎?というのはまた後で書くことに)。そして12日は因島、生口島とたどることにする。ただし、しまなみ海道の橋の部分は仕方ないとして、わざわざ1泊することから、高速道路は使わずに一般道を走ることに・・。
ということで11日、雨模様の空の下を出発する。昼間の国道2号線の交通量は多く、広島市内を抜けるだけでも結構時間がかかる。目指す光政寺は山陽線の白市から徒歩30分ほどのところにあり、ここだけならJRで行ってもいいかなと思うが、その次の竹林寺も公共交通機関では難所だという。
国道2号線から西条バイパスに入り、道照交差点から西条の市街地に入る。西条インターを過ぎたところから再び山陽線と並走する。
光政寺に行く前に、白市駅に立ち寄る。白市といえば山陽線で広島から東に向かう列車の半数が「白市行き」だし、広島空港に近いということで路線バスも出ている。ただ、駅周辺はスーパー、コンビニ、小さな商店があるくらいで、「空港への玄関駅」として栄えているという印象はない(まあ、広島駅、バスセンターから連絡バスで向かうのが一般的なので)。
ナビに従って走ると、少し丘を上がったところには新興住宅地が広がり、工業団地への案内板も出ている。そんな中、細い道を抜けると石州瓦の建物が並ぶ昔ながらの町並みが現れた。この町並みこそ白市地区で、駅の名前はここから取られたそうである。光政寺へのナビの案内はここで終了となるが、結局寺にはたどり着けず、まちなみ駐車場にクルマを停めて歩くことにする。
町並みの案内板に光政寺の名前がある。それに沿って進むと、石段を上がってまず入るのは浄土宗の西福寺。まずはこの境内を抜け、その先の細い道に出る。なるほど、この道にクルマは入ることができず、カーナビの案内が手前で止まったのも納得する。
石段を上がると光政寺である。しかし境内には人の気配がない。正面にお堂があり、脇には石塔や宝篋印塔が建つが、奥の本坊らしき建物も荒れ果てていて、無人駅ならぬ無人寺のようだ。
お勤めをしようと本堂に向かうが、広島新四国の書置きの朱印すらない。クリアケースが置かれていてその中に紙があるのかなと開けてみるが、中身は白市の町歩きパンフレットだった。扉には「納経は竹林寺で」という貼り紙があった。
この白市は、室町時代に白山城の主だった国人の平賀氏により開かれた城下町で、光政寺は平賀氏の菩提寺として建立された。しかし、関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏が防長二国に移されたことで、毛利の家臣としてこの地を治めていた平賀氏も長州に移ることになり、光政寺も廃寺扱いとなった。
江戸時代になり、平賀氏につながる木原家の手により再興された。境内の宝篋印塔は木原家の奉納によるものというが、その後の経緯はよくわからないが、現在は再び廃寺のような感じである。ともかくお勤めだけして、朱印の紙は竹林寺でいただくことにする。
坂道を少し上ると、重要文化財の木原家住宅に出る。ここに来るまでに、木原家住宅への案内標識もいくつかあった。白市の中心的な建物とされている。
玄関から土間に入ると、係の人が案内してくれる。木原家住宅が建てられたのは江戸時代前期の寛文5年(1665年)という。その年が彫られた鬼瓦が見つかり、年代を特定でき、現存する商家の中でも最も古い年代に属することが重要文化財に指定された所以だという。
白市はかつて牛馬市で賑わったといい、伯耆大山、備後久井とともに三大市と呼ばれたという。その中で木原家は製塩、酒造、両替商として栄えた。先程訪ねた光政寺の再興をはじめ、さまざまな社会的事業にも寄与したという。かつてはもっと広い敷地を有しており、手前にあった歯科医院の敷地もかつては木原家のものだったそうだ。
母屋は主家や客の格ごとに設けられた部屋や、「建てた当時は物騒だったので・・」ということで防犯を意識した仕掛けだったことをいろいろ説明していただく。
木原家を後にして、係の人のお勧めということで、白市に古くからある養国寺にも向かう。ここが広島新四国の札所の一つだったとしても不自然ではないような造りである。
他には伊原惣十郎家(厳島神社の舞台の灯籠含め、鋳物で財を成した)、伊原八郎家(金融)を見る。石州瓦やその装飾がすばらしい。
稲荷神社に着く。玉垣には「木下曲馬団」、「矢野曲馬団」という文字もある。それぞれ後の木下サーカス、矢野サーカスであり、さまざまな興業でも賑わったという。
光政寺というよりは白市の町の記事になったようだが、白市がこういう地だったと初めて知ることができてよかった。次に山陽線の白市行きに乗る時は、「あの商家の町並みやね」と連想することだろう。
時間的に次の竹林寺に行けないこともないが、白市で思った以上に時間を取ったし、天気も今一つなのでこの日は近くを通過するが見送りとする。翌日の中国四十九薬師めぐりの帰途に寄るのもよし、東広島にはこの次も来るのでその時でもよし。この日は宿泊地の糸崎を目指す・・・。