まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

奈良24番「談山神社」~神仏霊場巡拝の道・11(藤原鎌足を祀る神仏習合のスポット)

2022年06月10日 | 神仏霊場巡拝の道

西国三十三所第7番の岡寺から多武峰に向かう。談山神社まではカーナビの距離で6キロあまりと、案外近いものだ。ただその間は急な上り坂が続く。コンパクトカーや軽自動車と比べて出力が大きいインプレッサでよかった。なお、飛鳥の観光スポットから談山神社へ直接向かう公共交通機関はなく、橿原神宮前~大和八木~桜井と乗り継いで最後はバスに乗車する。

県道で明日香村から桜井市に入り、多武峰駐車場に着く。ここからしばらく歩き、正面の入山受付に向かう。ここで入山料と朱印料を納め、朱印帳を預ける。

まずは本殿に向かう長い石段を上がる。ここも緑が鮮やかである。

談山神社は藤原鎌足を祀る神社である。藤原鎌足(当時は中臣鎌足)は、中大兄皇子(後の天智天皇)とともに「大化の改新」を行うのだが、秘密の談合を行ったことから、この地は後に「談い(かたらい)山」、「談所ヶ森」と呼ばれるようになり、談山神社の名前にもなった。

本殿・拝殿に続く石段から折れて、神廟拝所に向かう。神廟とはこの上にある十三重塔のことだが、この拝所はかつて寺の講堂だった建物だという。実はここ談山神社は、鎌足を供養するために建てられたとはいえ、元々は寺だったという。鎌足の長男で僧の定恵(政治家の不比等は弟)が、父の供養のために墓を摂津(現在の阿武山古墳)からこの地に移し、十三重塔を建てたのが始まりである。昔は妙楽寺という名前で、阿弥陀三尊を本尊としており、後に談山権現として神仏習合の性格を持つようになった。

藤原氏の氏寺といえば興福寺、氏神といえば春日大社であるが、あちらは不比等系、こちらは定恵系とでもいうか。ただ歴史的には両者の仲はよくなかったようで、妙楽寺は興福寺の僧兵による焼き討ちにも遭ったとある。また後には南北朝の争い、戦国の争いに巻き込まれることも多く、現存する建物の多くは戦国~江戸時代の再建という。

明治の神仏分離により妙楽寺は談山神社となり、本尊の阿弥陀三尊は安倍文殊院に移される中、如意輪観音は残された。この如意輪観音は6~7月に御開帳という。祠もあちこちあり神社の姿だが、建物のどこかしこに寺の面影が残り、また如意輪観音の御開帳があるのはそうした歴史があってのことだ。藤原鎌足を祭神とした神社・・というイメージで来ると、意外に感じることも多い。

再び石段を上り、楼門から拝殿に入る。奥の本殿には藤原鎌足が祀られているが、妙楽寺の当時は鎌足をご神体として祀る聖霊院として、こちらも寺のような神社のような、神仏習合の歴史がある。こうしたことを気づかせてくれるのも神仏霊場である。

細長い畳敷きの拝殿の奥には、藤原鎌足の肖像画や、「多武峰縁起絵巻」の一部(いずれも複製)が展示されている。今頃の歴史の教科書などでは取り上げられているのか知らないが、飛鳥板葺宮での蘇我入鹿暗殺の場面である。飛鳥時代にはあり得ない装束で描かれているのだが、刀を振る中大兄皇子、弓を手にする中臣鎌足、そして蘇我入鹿の首が宙を舞うというシーンだ。板葺宮跡、蘇我入鹿首塚・・・先ほど近くを通って来たぞ。

そして十三重塔へ。戦国時代の再建というが、木造の十三重塔として唯一現存する建物という。

最後に向かったのは東殿。鎌足の妻である鏡女王が祀られている。

その前にあるのは「厄割り石」で、この上に「厄割り改新玉」というのを落とすとある。東殿横の授与所で「改新玉」をいただく。最初の玉に厄を移すとして、息を3回吹きかけ、体の治したいところに当てる。そして厄割り石の上にそっと玉を落とす。次に2つ目の玉に願いを込めるとして、息を3回吹きかけ、同じように厄割り石の上にそっと落とす。私が落とした時は、最初の厄を移したほうが割れずにそのまま転がったのだが、その場合でも拾わずそのままにとある。

最後は預けていた朱印帳を回収する。談山神社もずいぶん久しぶりだが、神仏習合の歴史が残るところとは初めて知った。

談山神社を後にして、次に向かうのは東吉野村にある丹生川上神社中社。また奥深いところに入ることに・・・。

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