夕飯を作りながら、オリンピックの専門局の番組を見ていました。
カナダのいろんな町の紹介やら、おもしろ話など、今夜はなんやろ?と思っていたら、急に9/11の映像が流れてきました。
ああ、どうしよう!と少しの間、見続けようかどうしようか悩みました。
わたしは今だに、あの瞬間の映像が流れると、胸に鈍い痛みが走ったり、指先が震えてきたり、体全体が少し硬直してしまったりするからです。
でも、いったいなんで、カナダとあの日がつながるのだろう……という興味もあって、とりあえず料理をしいしい見ることにしました。
カナダの東の外れに位置する、Newfoundlandという島に、Ganderという人口3000人あまりの小さな町があります。小さくとも、一応国際空港がある町です。
あの日、テロが起こった後、アメリカの上空を飛んでいた飛行機という飛行機がすべて、どこか最寄りの空港に避難しました。
この小さな町の空港にも、とんでもない数の旅客機が避難したそうです。乗客数なんと7000人!
いつもはのんびりと、2人の警備員とアルバイトの青年が、ポツポツと着陸する航空機の面倒を見ているのですが、この日は前代未聞のカオス状態。
いえ、カオスは町全体をすっぽり包み込んでしまいました。
市長は無線の緊急連絡で、町中の人達にこう伝えました。
「今この町に、我々の町に住む人間の倍の数の人達が避難してきました。今日は火曜日ですが、町を避難所とするため、すべての機関、会社を休止します。みなさん、できる限りのお世話を手伝ってください。まずはサンドウィッチを作ってください。毛布を持ち寄ってください。家にある救急用品を集めてください」
あっという間に、学校も教会も会社も、少しでも広い部屋がある所が避難所になりました。
赤十字からも食べ物が届きましたが、ほとんどは住民の方達のボランティアで作られた、温かいスープと数々のおかずだったそうです。
空港から避難所になった町までは、学校のスクールバスの運転手さん達が運搬役を買って出て、一日中何往復もされたそうです。
避難してから30時間後に、テレビから流れる映像を見て、初めて何が起こったのか知った、様々な航空機に乗っていた客達の横に、ただ寄り添って背中をさすったり、手をそっと握ったりしていた町民の皆さんは、どんな優れたカウンセラーよりも素晴らしくわたしの目に写りました。
結局丸4日間、避難は続き、再び飛行を許された航空機に乗り込む人達を、またまたスクールバスが送っていきました。
別れ際に、せめて、いくらかのお礼を渡そうとした人達に、「これは当たり前のことです。またわたし達が困った時にはよろしく」と言って、絶対に受け取ってくれなかったガンダーの人達。
どうしてもお礼がしたいという気持ちが募り、7000人の寄付による、ガンダーの子供達の奨学金制度を作ったそうです。
今もその制度は続いています。その奨学金を受け取ったひとりの女の子が、インタビューにこう答えていました。
「わたしはこの奨学金を受け取ることができたことを、本当に誇りに思います。だってこれは、わたしの故郷の人達の温かな心があったからこそのものだから」
見終わってしばらく、台所の中がいつもよりあったかなような気がしました。
カナダのいろんな町の紹介やら、おもしろ話など、今夜はなんやろ?と思っていたら、急に9/11の映像が流れてきました。
ああ、どうしよう!と少しの間、見続けようかどうしようか悩みました。
わたしは今だに、あの瞬間の映像が流れると、胸に鈍い痛みが走ったり、指先が震えてきたり、体全体が少し硬直してしまったりするからです。
でも、いったいなんで、カナダとあの日がつながるのだろう……という興味もあって、とりあえず料理をしいしい見ることにしました。
カナダの東の外れに位置する、Newfoundlandという島に、Ganderという人口3000人あまりの小さな町があります。小さくとも、一応国際空港がある町です。
あの日、テロが起こった後、アメリカの上空を飛んでいた飛行機という飛行機がすべて、どこか最寄りの空港に避難しました。
この小さな町の空港にも、とんでもない数の旅客機が避難したそうです。乗客数なんと7000人!
いつもはのんびりと、2人の警備員とアルバイトの青年が、ポツポツと着陸する航空機の面倒を見ているのですが、この日は前代未聞のカオス状態。
いえ、カオスは町全体をすっぽり包み込んでしまいました。
市長は無線の緊急連絡で、町中の人達にこう伝えました。
「今この町に、我々の町に住む人間の倍の数の人達が避難してきました。今日は火曜日ですが、町を避難所とするため、すべての機関、会社を休止します。みなさん、できる限りのお世話を手伝ってください。まずはサンドウィッチを作ってください。毛布を持ち寄ってください。家にある救急用品を集めてください」
あっという間に、学校も教会も会社も、少しでも広い部屋がある所が避難所になりました。
赤十字からも食べ物が届きましたが、ほとんどは住民の方達のボランティアで作られた、温かいスープと数々のおかずだったそうです。
空港から避難所になった町までは、学校のスクールバスの運転手さん達が運搬役を買って出て、一日中何往復もされたそうです。
避難してから30時間後に、テレビから流れる映像を見て、初めて何が起こったのか知った、様々な航空機に乗っていた客達の横に、ただ寄り添って背中をさすったり、手をそっと握ったりしていた町民の皆さんは、どんな優れたカウンセラーよりも素晴らしくわたしの目に写りました。
結局丸4日間、避難は続き、再び飛行を許された航空機に乗り込む人達を、またまたスクールバスが送っていきました。
別れ際に、せめて、いくらかのお礼を渡そうとした人達に、「これは当たり前のことです。またわたし達が困った時にはよろしく」と言って、絶対に受け取ってくれなかったガンダーの人達。
どうしてもお礼がしたいという気持ちが募り、7000人の寄付による、ガンダーの子供達の奨学金制度を作ったそうです。
今もその制度は続いています。その奨学金を受け取ったひとりの女の子が、インタビューにこう答えていました。
「わたしはこの奨学金を受け取ることができたことを、本当に誇りに思います。だってこれは、わたしの故郷の人達の温かな心があったからこそのものだから」
見終わってしばらく、台所の中がいつもよりあったかなような気がしました。