ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

旦那版メリー・クルシンデマス

2009年12月25日 | 家族とわたし
えらいことになってまいりました。
昨晩遅く、わたしが1階でラッピングをしていると、グワァ~ホンッ!ゲェ~ッホン!と、人間のものとは思えない音が2階から聞こえてまいりました。
3階の部屋から息子Kが驚いて、1階まで降りてきたほどの音なのでした。

う~ん、これはちょっと、救急のことも頭に入れといた方がいいかな?

もしこれが旦那以外の家族だったら、今頃きっと旦那があれこれ思案して、鍼を打ったりお灸をしたり、はたまた漢方を処方してくれたりしているのだけれど、
如何せん、当の本人が弱ってしまっているので、わたし達は彼の指示で薬を取ってきたり、ハチミツレモン湯を作ったり、マッサージをしたり、吐く時のために、枕元にボールを置いておくぐらいのことしか能がありません。

わたし達の寝室は狭くて、それを加湿器でガンガン空気を湿らせているので、部屋に入るとすっかり病気の匂いで充満していました。
う~ん……ここで寝る勇気があるのか?自分……と、かなり気が怯みましたが、こういう夜こそ独り寝は辛いだろうと、とりあえずベッドに入りました。

「西洋で抑え付けて誤摩化していたモノが、一気に外に出たがっている」
そう言いながら、ゲホゲホがぁ~がぁ~、身体を二つ折りにして苦しむ旦那。
よしよし、今夜はしんどいやろけど、そうやって一気に出すだけ出したらええねん。頑張れ旦那!負けるな旦那!
でも……寝られるわけないじゃあ~りませんかっ
辛いのは旦那。けど、わたしまでコケるわけにはいかんのですっ
湯たんぽで足元を温めながら、シーツですっぽり顔を覆って、菌さん、どうぞわたしの中に入って来ないでね~!!と祈りながら横になっていました。

明け方から早朝にかけて、なんかちょっと眠れたぞ、という時間があって、目覚めると、旦那がベッドから出ていませんでした。
えっ?と心配になりましたが、隣の彼の書斎から咳が聞こえてきたので、ああ、生きてる生きてるとホッと一安心。

たった今、わたしが起きてからやっと一眠りできた旦那が、ハナタレながら2階から降りてきました。
少しでも良くなった様子を報告できることを祈りつつ、メリー・クリスマス


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西洋VS東洋

2009年12月24日 | ひとりごと
昨日から妖怪ハナタレ男と化した旦那。
東洋医学の王道を歩むべく、日夜患者さんのために百科事典みたいなごっつい本を読み、漢方や鍼灸学を学び続けている旦那。
患者さんが困っておられる症状が少しでも改善するようにと、鍼治療に加えて漢方の処方もしています。
そういうこともあって、うちにはたくさんの漢方薬が揃っていて、体調が少し悪くなると、症状に応じて違う種類の漢方を摂取することがあります。

けれども、ものの半時間でその症状をピタッと止めたい場合や、どうしてもとりあえず元気なふりができるようにしたい場合は、やはり西洋の錠剤。
気味が悪いほどに鼻水が止まったり、鼻の穴が通って息が吸えるようになったり、痛みがスウッと消えたりしますから。

鍼灸師としての自分と、アメリカンとしての自分の常識が、頭の中の天秤にかけられて、上がったり下がったり、
そんな時の旦那は、悶々と悩み、あ~でもないこ~でもないと考え過ぎて、結局は疲れ果てて西洋にカックンと傾いてしまいます。

わたしは19才の時に、奇妙な後遺症のために危うく命を落としそうになりました。
主治医から、とても親身な言い方で、「あと1年、ぐらいかもしれない」と告げられ、ふ~ん……と思いながら病院を出て、
それを知った父方の伯母からの紹介で、ある霊的な手法で自己治癒力を強める方法を学び、結局はこうして今も元気に生き長らえています。
その学びの中に、市販されている錠剤を飲んではいけない、というものがあって、わたしはその頃からその種類のものを口に入れないようになりました。
ほとんどの痛みは、丸3日我慢すれば、4日目のいつかには、少しずつ和らいでいき、忘れた頃にすっきりと治ります。
もちろんそうはいかない事もたびたびあったけれど、とりあえず基本的に3日間、これがわたしの痛みとの付き合い方です。
鼻水もそう。たいてい3日経つと、鼻の下は真っ赤っかでヒリヒリしてしまうけど、鼻水は止まります。
その間、ティッシュを紙縒りのようにくるくると丸め、牛の鼻輪のようにティッシュの両端を鼻の穴に突っ込み、それが真ん中辺りまで濡れてきたら交換、なんて悲惨な姿で家の中の用事をしたりするわけです。
百年のコイも、これじゃ池の底に沈んでしまいますよね。旦那からも、「ほとんどのことはいいけど、それだけはやめて欲しい」と頼まれたもんです。

ということもあって、わたしはなんにも無し派か、例え飲むとしても漢方。
こないだ乳ガン検診の痛みを誤摩化そうと、まさに何十年ぶりにアスピリンを飲んだら、次の日まで身体の中にモヤモヤとした煙のような虫が入っているような、それはそれはイヤな思いをして、やっぱりわたしには絶対に合わない!と認識も新たにしたところです。

そこで、妖怪ハナタレ女にまさに変身しようとしていたわたしに、旦那が「はい!これを30滴!」と言って、白湯と一緒に持ってきてくれたのがコレです。



BI YAN PIAN(鼻炎片)といいます。文字通り鼻炎に効きます。
これを舌に直接スポイトで20滴から30滴落とすか、少量の白湯に混ぜて飲みます。
タイミングが合えば、今日のわたしのように、即効効き目が現れます。けれども他の部分に不快感などを与えることはありません。

すっかり鼻水が止まったわたしを、恨めしそぉ~な横目で見ながら、旦那は今もクシャミと咳の連発。目はもうウルウルしていて見るからに可哀想です。

せっかくのクリスマスイブを、実家と離れて過ごさなければならない旦那のために、昨日ピアノに昇進したLAPIANAでクリスマスソングを弾きました。



『A CHARLIE BROWN CHRISTMAS』
毎年クリスマス前になると、必ずテレビで放映されるチャーリー・ブラウンとスヌーピーの漫画です。
アメリカンの子供達は、毎年これを観て大人になっていくので、この音楽はとても懐かしく、まさにクリスマスそのものなんだそうです。

ちょっとだけクリスマスの気分になれたかな?

さて、これから贈り物のラッピングをしましょっか。

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ちょっとトホホなクリスマスイヴ

2009年12月24日 | 家族とわたし
昨夜、仕事から戻ってきた旦那、いきなり鼻水をたらたら流し始め、一気に『風邪ひき道』まっしぐら。
魔の3日間ドライブから精根尽き果てて戻ってきてから、クリスマスまでの詰め込み仕事を無事に済ませ、ほぉ~っと一息ついたその瞬間を狙われたのでしょう。
もうそりゃ悲惨で、痛々しくて、気の毒そのものだったのだけど、今や歩く病原菌と化した旦那に、誰も近寄ろうとせず、わたしも同じベッドで寝るか寝ないか、散々悩みましたが、まあ大丈夫だろうと隣で寝たのが運の尽き……朝起きたらしっかり、妖怪ハナタレ女に変身していました。

今朝は10時に息子達を蹴り起こし、ほとんど済ませていないままの贈り物を買いにあちこち走り回る予定でしたが、元気なのは息子達のみ、
ヨレヨレの旦那とわたしはすっかり意気消沈、どうするべかぁ~と考えようとするのだけれど、脳みそが鼻水に浸かってしまっているのか全く思考が進みません。

わたし達が日本に住んでいた頃から、旦那の両親が住むペンシルバニアに皆が寄り、イヴディナーを会食し、翌朝プレゼント交換をし、クリスマスディナーをまた食べる、というのが毎年のクリスマスでした。
旦那父は毎年、実に8年もの間、貧しいわたし達もクリスマスのお祝いに来られるようにと、4人分の飛行機のチケットを買い続けてくれました。
今年はわたしと息子達にとっては18回目のアメリカでのクリスマスでしたが、今年初めて、翌日の26日から両親が旅行に旅立つということで、実家ではなく、そこから車で1時間ぐらいの所に住む旦那姉の家に集まって祝うことになっていました。
ところが……旅行に行くのに病気を移されたくないであろう両親のこと、もちろん我々自身の体調も考えて、今年のクリスマス会を断念した旦那とわたし。
いろいろと料理を用意しようとしている旦那姉、そしてもちろん旦那母も、かなりがっかりしたと思います。

さて……、予定がすっかり変わってしまいました。
家族4人だけのクリスマスなんて初めてのことで、自分達が面食らっている始末。
毎年お正月には、年越し蕎麦からおせちまで、がっつりとすべてを担当して頑張るわたしですが、クリスマスはいつも人任せ気分。
クリスマスメニューのどれもこれも、手伝うだけで自分が主体になってやってこなかったわたし……
*ターキーのかわりに、普段絶対に手が出ないちょっと高級な牛肉を買ってステーキを焼く。
*パンプキンパイを焼く(牛乳がダメな旦那のために、ライスミルクとヨーグルトで作る)
*スウィートポテトとクランベリーソースを作る。
*エグノッグを買う。
あ~!!これぐらいしか浮かばぁ~ん!!どないしょ~

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ピアノになったLAPIANA

2009年12月23日 | 音楽とわたし
12月23日、午後2時、箱だったLAPIANAがついにピアノになりました!

鍵盤が差し込まれた瞬間です。



今日も朝から、待ってないふりして待ち続け、またまた1時近くになったので、2時までには届けるという約束を守れるのかどうか、ちょいと不安になりました。
そこで、半分、というより8割あきらめの境地でカールに電話をかけてみました。

「あ、鍵盤はトラックの中だよ。けど、そのトラックが今どこなのか、ちょっと今はわからないんだな~」
「今日は3時過ぎからうちでレッスンするので、だから2時までってことになってたんだよね。レッスン中に持ってこられても困るんだよね」

などと言いながら、とうとうトラックに乗せられてこちらに近づいている鍵盤のことが思い浮かび、ついニヤニヤとしてしまうわたし……。



新しいフェルトがなんともまあるい音を作り出してくれます。まだいまひとつモゴモゴ言ってるような感じですが、これから一緒に音作りをしていこうと思います。

カルロスさんからのクリスマスプレゼント。
さあ、彼のおかあさんから頼まれた通り、彼の遺影をフレームに入れて、ピアノの上に飾らないと。

P.S.
「延期に延期を重ねたお詫びに、調律を無料でさせてもらいます」と、カールさん(←いきなりさんづけになるこの単純さ?!)からの申し出がありました。
とてもありがたいことなので、もちろんお願いすることにしました。
いつのことになるのかは、ちょっとはっきりと言えないところがカールさんなんですけど……。

P.S.その2
夕食後に、旦那がLAPIANAでショパンのプレリュードを練習し始めました。おっと、まずはわたしがお手本を!と、お尻でブンッと追い出して弾いてみました。
なんて柔らかな、そして深みのある音でしょう!ピアニッシモの色合いも豊かです。嬉しくなって、何曲も弾いてしまいました。
まだ調律前なので、音程と、それからちょっと変な動きをするアクションが二カ所見つかりましたが、もうとってもとっても幸せです!
ピアノの神様、カルロスさん、そして支えてくれるみんな、ほんとにありがとう~!!
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ヒートテック三重奏

2009年12月22日 | ひとりごと
さっぶいです
なんぼ冬至やからっていうても、なんもここまで冷えんでもええんちゃうの?みたいな冷え込みです。
って……それでもまあ、あの山の上の高速道路よりゃあったかいけど……もうすっかり喉元過ぎれば熱さ忘れてる感あり過ぎ?!
ただ今気温マイナス9℃明日の最高気温はマイナス3℃
そんな日に、ユニクロのHEATTECH、届きましたぁ~!!
これは自分から自分へのクリスマスプレゼントなのでありま~す!!

先月末、ふと覗いたユニクロUSAのサイト。いつもはシーンとしているのに、なんと、ヒートテックの半袖&長袖シャツ、そして股引が安なってるじゃあ~りませんか!けど、けど、サイズとか合うかなあ……買うてもええかなあ……などと迷てる間に品切れ続出!
もうあかん、買おっ!と決心してクリックすると…………やっぱ遅かった……ええ色残ってへんし……。
でも、これでこの冬のバーゲンは終わりかもしれへんし、そしたらまた二度と買えへんようになってまうしってんで、肌色の股引買いました……

それが今日着いて、さっそく封を開けてみると……めちゃ股引やん、この肌色。
ちょっと町中で体調悪なっても、救急車とかで運ばれて身ぐるみ剥がされた途端に、ウププッとお医者さん達の笑いを誘てしまいそうな爺ちゃん股引
外出せなあかん日は着んとこ

今、わたしのお腹のあたりには、ヒートテックのブラトップ、ほんでもってタートルネックのシャツ、それをがっつり包み込む肌色股引が重なり合っております。

このクソさぶい夜も、なにげにホカホカと温かな、なかなかの強者ヒートテック三重奏。
ほんま、わたしはユニクロとなんの関係もおまへんけど、ええですよぉ~ヒートテック。お勧めです。
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『500マイルも離れて』(おまけ)

2009年12月22日 | ひとりごと
『500マイルも離れて』という歌を知ってますか?

うちからTの大学のある町までの片道が丁度500マイル、80万キロメートル(←お騒がせいたしました。ここに謹んで800キロメートルに訂正させていただきますです)いつも行き来するたびに、この歌を思い出していました。

先日もやはり思い出し、サビの部分を車の中で歌っていたら(サビしか知らないので)、旦那が「ちょっとそれ、おかしいんちゃう?」と言い出しました。
「どこが?」
「a hundredじゃなくてfive hundredのはずやで」
「えぇ~!?そんなはずないわ!!ずうっとわたし、子供の時からa hundred milesって歌てきたもん」
「それ、多分、日本人バージョンちゃう?five hundred milesやって!」と、どちらも全く譲る気無し。
頭にきたわたしが「そんなに信じられへんのやったら賭けよか?」と言うと、「ええで、いくら?」とノッてきた旦那。
ふふんクリスマス前のひと儲け、とばかりに、「ほな、歌にちなんで100ドル!」あまりの無謀な金額に一瞬怯む旦那。
でも、「よっしゃ!ノッた!」

そしてその時代に詳しいであろう旦那の両親に、おもむろに尋ねてみたのでした。
ワクワクどきどきの瞬間です。

「う~ん、あんまり覚えてないけど、確か500だったような……」とおかあさん。
「あ、そりゃ500!」とあっさりきっぱりおとうさん。
ぐわぁ~んまじっすか

すっかり気落ちして、けれどもなんか腑に落ちない気分のまま、念のためにちょっと調べてみたのでした。


「500 miles」邦題:「500マイルも離れて」

If you miss the train I'm on
You will know that I am gone
You can hear the whistle blow a hundred miles

A hundred miles
A hundred miles
A hundred miles
A hundred miles
You can hear the whistle blow a hundred miles

Lord I'm one
Lord I'm two
Lord I'm three
Lord I'm four
Lord I'm five hundred miles from my home

500 miles
500 miles
500 miles
500 miles
Lord I'm five hundred miles from my home

Not a shirt on my back
Not a penny to my name
Lord I can't go a-home this away

This away
This away
This away
This away
Lord I can't go a-home this a-way

If you miss the train I'm on
You will know that I am gone
You can hear the whistle blow a hundred miles
 
『単調な、繰り返し多いメロディである。
原曲は、米国・ジョージア州出身の女性フォークシンガー、ヘディ・ウエスト(1938~2005)の作品という。
故郷を遠く離れた、貧しい労働者を歌ったという。
1961年ニューヨークで結成された、ピーター・ヤーロウ、ポール・ストーキー、マリー・トラヴァースの3人、PPMは、翌62年のアルバム『ピータ―・ポール&マリー』をリリース、7週にわたって全米一位を獲得した。
「500マイルも離れて」は64年に発売、ベスト10に入る。
「500マイルも離れて」の歌詞は、ベトナム反戦のプロテクトソング、たとえばピート・シーガー作の「花はどこへ行ったの」とは異なるものの、
ノンポリ学生は、反戦=フォークソングの雰囲気の中、旅情、あるいは両親からの自立、場合によっては失恋をイメージして歌った』

じゃ~んいやあ、あきらめずに粘ってみるもんです。
結局は、旦那もわたしも正しかった、という結果に相成りました
100ドルは幻の彼方に消えてしまいましたが、少なくともわたしの財布から消えることにはならなかったことを感謝!

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冬至の日のアーモンドチョコレート

2009年12月22日 | ひとりごと
今日は一年で一番日が短い日。
この日が来るのを、とっても楽しみにしていました。
だって、今日からはもう、ただただ日が長くなるのみ!そしていつかホノホノと暖かくなって、つぼみがふくらみ、若葉の先っぽが見えてきてぇ~と、
もう楽しいことばかりが待ってるぞ~というスタートラインなんですもん。

そして今日、今年最後のレッスン&クリスマス前ということで、生徒の親御さんから嬉しい贈り物をいただきました。
包み紙を開けると、わぁ~い!!アーモンドチョコレートだぁ~!!
そして別の包みを開けると、わぁ~いわぁ~い!!またまたアーモンドチョコレートだぁ~!!
そしてまた別の包みを開けると、ひぇ~!!またまたまたアーモンドチョコレートだぁ~!!

わたくし、自慢じゃございませんけど、チョコレートだけってのが苦手なのであります。なので、どんなに美味しいと評判のチョコも、純粋にチョコだけだと手が伸びません。チョコの質が少々落ちても、そこにアーモンド(か、とにかくナッツ)が混じってないと×なのであります。
ここまでに至った時、狂喜乱舞する妻の様子を横で見ていた旦那が、
「なんぼ好きやからいうても、そんな、生徒の親にまで言いふらさんでも……」と、かなり呆れた声色でポツリ。
「えっ?そ、そんなこと、なんぼわたしでも絶対……」
「絶対?」
「絶対……かどうかは……いや、けど、そんな、生徒の親つかまえて言うかなあ、そんなこと……」
「そんなこと?」
「ぐぅ~ぐぅ~」

いや、でも、やっぱり言うてないと思います。そこまでナアナアな会話した覚えがないのです。
ただ、口がスベッてる可能性は無いとは言えず、もしかしたら無意識にペラペラと、そして更に無意識のうちにかなり強調してたのかも……かっこわるっ!

ま、とにかく、嬉しい日の嬉しい贈り物なのでした。
一粒一粒、大切に、よぉ~く噛みしめて……あ、ちゃうちゃう!わたしの食べ方はですね、まずアーモンドが丸ごと出てくるまでチョコをナメナメしてですね、そのあとおもむろに、舌の上の、裸ん坊になったアーモンドを、カリッとかじるのであります!
これはもう、明治の一粒アーモンドチョコが発売された当時から、ずっと変わらずに続いているわたしの食べ方なのであります。大人っぽ過ぎ!

でも、クリスマスの贈り物なので、良い子のわたしはまだふたを開けてはいません。あ~!!早く来ないかなあ~クリスマス
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人生の教訓

2009年12月22日 | ひとりごと
たった半日のプチ遭難ではありましたが、その前後の、コチコチに凍り付いた雪の塊の上をガタガタと走ったあの18時間もまた、壮絶といえるドライブでした。
今日になって気がついたのですが、唇のあちこちが切れていました。これはヒーターをつけっ放しにしていた車の中に長時間居たことが原因だと思います。
それから首の付け根と肩甲骨の周りがとても痛みます。運転席に居た時間が1番長かったので、これまた当たり前と言えば当たり前。

そういう体験の後、また以前の、普通の、今まで通りの暮らしに戻りましたが、しんどいかなと思っていた仕事がなんとも軽やかに張り切ってできたことにびっくり!
ゲンキンなもんですね。
でも、しばらくの間、あの30時間に比べりゃなんてことも無いやんか~!が続くのなら、それはまたそれで良し。元気に年を越し、新年を迎えたいと思います。

実は今日のお昼の2時までに、ピアノの鍵盤が届く予定になっておりました。
延びに延びた末に、この日なら絶対に大丈夫!と向こうが太鼓判を押した日なのでした。
けれど、1時になっても、1時を過ぎても鍵盤はやって来ません。
こういう場合は呑気に待ってるのはアホだと学んだわたしは、早速ピアノ会社の方に電話をかけてみました。
「あ~、電話かけなきゃいけなかったけど忘れちゃってましたよ~。鍵盤ねえ、いろいろとまた問題が重なって、保険会社とかとの絡みもあって、今日の2時までには絶対に搬送できないんですよ~」とカール。
「わたしは仕事で2時過ぎには家を出なければならないんです。家に家族は居るけれど、わたしの留守中に持ってきてもらっても試奏ができないのは困ります。仕事から戻るのは夜の7時半を過ぎるので、そんな時間に配達を頼むわけにはいかないし……」とわたし。
「あ、別にこちらはいいですよ、7時半過ぎでも」
「え?そうなんですか?それだったらわたしも全く問題ないですよ」
「まあ、あと1時間ほどしたらまたこちらから電話します」
「じゃあ、わたしはもう仕事が始まってるので、Bの携帯の方に連絡をしてください」
それで、仕事が終わってから旦那に尋ねると、水曜日の12時から2時の間になったとのこと。
ふぅ~ん……。

旦那は、「まあ、カールのことやし、あんまり期待せんと、来たらびっくり!?ぐらいの感じで待った方がええんとちゃう?」と言います。
ふふん、あの30時間に比べりゃもう、カールにだって腹も立ちませんよ~だ果報は寝て待て
わたしも成長しました


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カオスの後の静けさ

2009年12月20日 | 家族とわたし
30時間に及ぶ、嵐の中のドライブを経て、夢のような一夜を過ごし、疲れも緊張も解きほぐされた朝の目覚めは、なんとも格別のものでした。

隣のベッドでむっくり起きたと思ったら、ウゥッとうめき声を上げ、バスルームに飛び込んだ旦那にとっても、また別の意味で特別だったようです。
半日、狭い車の座席に縛り付けられ、この先どうなるのかも全くわからず、まるで我々を飲み込むかのように雪がどんどん深く積もるのをただ見ているしかなかったわたし達。
それでもあそこに居た人達は、出会うと必ず笑って「希望を持とう!これ以上悪いことは起こらないんだから」と励まし合っていました。
あそこで、ああいう事態の中で、誰かひとりでもイライラしたあまりクラクションを鳴らしたり怒鳴り始めたりしていたら、それに触発された人がまた……、
そういう負の行動に出る人がひとりも居なかったこと。あの雪の中の異様なまでの静けさの意味を、今もまだ考えてしまうわたしなのでした。

「ゆ~き~が~ふぅ~るぅ~、たすけは~こないぃ~」なんて替え歌を閉じ込められた車の中で、小さな声で歌うぐらいの抵抗は許してもらえますよね。

全天候型のタイヤも、ああいう凄まじい嵐の中では頼りなく、ハンドルを握っている間中、神経のすべてに緊張の針が刺さっていたような気がしました。

けれども、あの魔の30時間の間、ずっと自分に向かって問い正していたこと……それは……、

どうしてあの時、ニュースをもっと真剣に聞き、事態の深刻さを認めようとしなかったのか。
どうしてTの、今までの恩返しがしたいという気持ちを優先させてしまったのか。
どうしてTは、たとえ死にもの狂いで卒業に向かっていたとはいえ、少しずつでも引き上げる準備をして、パッと荷物を運べるようにしておかなかったのか。

このどうしては、あの車の中に閉じ込められている間中、思いついては消し、また思いついては消ししたことでした。
もう済んだことは仕方がないし、その時は善かれと思って選んだことだったのだけど、事故や天災に巻き込まれる可能性は、いつ、どこで、どれを選択するかで、かなり変わってくるのだと、今回は特別に痛いお灸をすえてもらったような気がします。

大人になった息子達。あんなメチャクチャな状況でも運転を任せられるまでに成長していたのを目の当たりにして、そのことにも驚きました。
強攻策を押し通し、ハンドルから手を離そうとしないわたしの横で、全身に震えが出るほどの恐怖を感じていた旦那。
わたしはその姿を皮肉ったりしましたが、ああいう場面を恐ろしいと思う彼の常識もまた、わたしには必要だったのだと思います。

たくさんのことを学んだ嵐の中の30時間。その間にTは誕生日を迎え、卒業式を終えました。
家族4人一緒に祝えたこと、困り果てたこと、助け合えたこと、ほんとに一生の思い出に残る2日間でした。

家に無事に着き、男達はドライブウェイと階段の雪かきをし、わたしはご飯を炊き、大根と白菜とワカメのお味噌汁を作り、牛丼の素を温めました。
久しぶりの、我が家での温かいご飯とお味噌汁の味もまた、一生忘れられないでしょう。おいしいなあ、おいしいなあと言いながら、皆でガツガツ食べました。






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地獄と天国

2009年12月19日 | 家族とわたし
卒業式の後、皆でそろってお祝いの食事をするはずだったわたし達。
けれども、やってくる雪嵐は並みのものではないというニュースを聞き、残念ながらキャンセルをすることにしました。
ところが、「僕が友達の卒業式に参列した時には、必ずその子らの両親がランチに招いてくれたから、今日は僕がそのお返しをしたい」と言い張るT。
その気持ちはよくわかるのですが、空を見上げるともう、今にも雪が降り始めそうな気配満々。
そこで、せめて時間が短くて済むレストランを選ぶことになりました。
するとT、「じゃあボクらの大好きな『北海道バッフェ(→でもなぜか中華)』がいいわ」と言い、来てくれた二人の友達も嬉しそうな顔をしたので、予約していたレストランから考えるとかなり格落ちになって申し訳なかったのだけれど、そこに行くことにしました。
まずアパートメントに戻り着替えて外に出ると、あ~あ、雪が降り始めちゃいました。
でもまあ、とにかく行って食べようということで、皆で出かけたのが1時過ぎ。
そして、そのことが過酷な地獄の世界への入り口だったことに、わたし達はまだ気がついていませんでした。

ハラハラと降り始めた雪が、みるみるうちに本格的になっていく様子が、レストランの窓からでもしっかり見ることができたわたし達。
焦りながらも、お腹がかなり減っていたのと美味しかったのとで、お皿をおかわりしたりして、しっかりそこで1時間近く過ごしてしまいました。
まだ食べ終わらない遅食いで有名なTの友達を残して、我々はとにかくTのアパートメントに急ぎました。

がぁ~ん!!さっきまでの町はいったいどこにっ?!



昨日まで試験があったTは、パッキングに全く手をつけておらず、けれどもこんな天候では彼の日産では走行不可能だということで、計画を急きょ変更し、衣服とパソコン関連の物だけをとりあえずパッキングして、後で車を取りに来がてら部屋の掃除をしに戻ることにしました。
それでも有に40分はかかり、その間にも雪はどんどんどんどん降り積もり、気持ちはもう焦りまくり!とにかくなんでもいいから出発です。

いつもだと高速81まで15分もかからない、大学と高速を結ぶルート460。雪の降り始めだからか、目の前で滑る車が続出して恐くてたまりません。



よくよく見ると、ひぇ~!!スケートリンク状態ですってばぁ~!!



散々な渋滞の後、やっとこさ乗り込んだ高速81……ところが……ものすごい風と横なぶりに降る大雪、そして目に飛び込んでくる事故車の数々、
とうとう旦那が「もうやめよう!とにかくこれ以上こんな状態の中を走るのは危険過ぎる。最寄りの町のモーテルに泊まって様子を見よう」と言い出しました。
「そんなん、とにかくもうちょっと行ってみような。わたしは大雪の運転、結構大丈夫やから」
そうわたしが言った途端、旦那は血相変えて怒り出し、「そういう危険な考え方が事故を招く!」と言い張るばかり。
わたしはわたしで、もっと酷い状況の中で、しかも軽自動車で運転した話や、積もった雪の上を走るのは、凍った道よりはマシという持論を力説。
実はその時のわたしの心の中には、とにかくどうにかして旦那姉の家に着き、旦那母の誕生パーティで弾く曲の練習をしたいという目論みがあったのでした。
「なんでそんなに帰ろうとするのか理解できない」と怒る旦那。どうしても運転をやめようとしないわたし。
とにかくお互いの気持ちを落ち着けて、ちゃんと考えることが必要だということで、一旦高速から降りてガソリンスタンドに避難することにしました。



スタンドは大繁盛。この先どうしたらいいかを決めかねた客が入ってきては、そこに居る客と話したり、その人が来た場所の情報を手に入れたり、
そこに、多分ここで一晩過ごすつもりだと決めた男性が居て、旦那は彼と意気投合、わたしもその時分には状況が思っているより深刻だと観念していました。
そこで、とりあえず車の中で座って状況を見ていると、タイヤが雪に埋もれて立ち往生してしまったり、すべってクルクル回ったり、もうなんでもありの世界。
こりゃもうここで一夜を過ごそう、そう腹をくくりました。
ところが……、
「まうみ、今入って来た人みんな、まだこれから北に向かうらしい。この嵐は南から上がってるから、どこかで嵐を追い越せるはずやって」と旦那。
おっしゃ~!!とにかくやってみよやないのぉ~!!
もともと帰りたかった息子達も大賛成。軽いスナック菓子を買い、トイレも済ませ、意気揚々と出発したのでした。

そしてそれは突然、わたし達の乗る車の前に門を広げたのでした。

81に乗り込むと、さきほどまでの渋滞は消えていて、不気味なほどに快適にスイスイと車は進み、こりゃ嵐に追いつくのも時間の問題か?と思った矢先、遠くに赤く光るテールランプの集団が見えてきました。
なんやろなあ、事故やなかったらええけど……とつぶやきながら近づいていくと、ストップ。完全停止です。

1時間待ち、2時間待ち、そして3時間が過ぎました。誰も車から出て来ないし、車から降りて文句を言う人もいません。
仕方が無いので、また皆でしりとり遊びをしました。4人で一緒にするのはもう何年ぶりのことでしょう。
雪の立ち往生もまたいいもんだ、なんて思いながら、カメラで遊ぶ余裕もまだこの時にはありました。
つららがだんだん大きくなってくるのを見ながら、気温マイナス3℃ではエンジンを切ることもできずに、ワイパーも動かしたままひたすら待ちました。



雪はどんどんどんどん降り続きます。わたし達の周りにはただ、真っ暗な夜と真っ白な雪。そしてエンジンの音が鳴り響くばかり。



とうとうたまらなくなって、旦那が外に出て、近くに居るトラックの運転手さんに状況を尋ねました。
トラック仲間専用の通信から、なんらかの情報を得ているはずだと考えたからです。
「ついさっき、ヴァージニア州の知事が非常事態宣言をして、ナショナルガード(自衛隊のようなもの)の発動を依頼したらしいよ。それで、夜中の3時にここに到着して、我々を避難させてくれるってことらしい」
すばらしいっ!なんていい決断をしてくれたことでしょう!これはもう心をしっかりもって待つっきゃない!地獄に仏とはこのことだ!
まあ、完全に止まってしまってから早3時間、その間、な~んの知らせも無きゃ、パトカーの1台さえも来てくれてないけど、この際文句は言いますまい。
それにしても、このアメリカンの気の長さはなんなんでしょうか?もうすっかり諦めきってるか、期待をしないと決め込んでるかのどちらかなんでしょうか?
ほんとに、こんなにたくさんの車が立ち往生しているのに、誰ひとり外に出て様子を見るとか、誰かに尋ねるとか、そういうことが全く無いのです。
と……あ、誰か出て来た!げっ!短パン?!



暗くて見えにくいのですが、右側の白いソックスのおじさん、短パン姿でワンちゃんのお散歩に出てきました。ワンちゃんはハスキー犬。もう幸せそのものです。

そこではたとわたしは気づきました。わたしもおしっこしたいやん……。

でも我慢我慢.ナショナルガードの人達が来てくれるんやもん。それまでぐらい待てんでどないする!けど、早う3時にならへんかな~。

車の中の空気は最悪。前の車の排気ガスを入れたくないので外気を入れられず、どんどん乾燥してくるし、温かい空気に吹き付けられるまま座席に座り続けていると、まるで日本に里帰りでもしているような気になってきました。

3時やっ!!期待は一気に膨らみます。
でも、誰ひとり現れません……。いや、きっと、他の所でも事故とかがあって、それで遅れてるんや。きっとそうや。
3時半……4時……4時半……意識も気力も朦朧としてきました。もう待ってもしようがない。
ふと気がつくと、あたりがほんのりと薄明るくなっていました。夜が明けたのです。



もうこれ以上おしっこを我慢するのは身体に良くないと、とうとうわたしも決心して、外に出ました。
旦那はそれまでにもう何回も、車から出た所で用を足していて、やけくそでその写真を撮れ!と命令して撮った写真があります。
なんぼなんでもここではご紹介できませんが……なかなかに思い出深い写真になりました。
不幸中の幸いで、我々が巻き込まれた場所から歩いて行ける距離にレストエリアがあり、そこに公衆トイレがあったのでした。

トイレからの帰り道、すっきりとした気分で撮った写真です。



真っ暗な時には見えなかったトイレが見えた時の喜びは、もうほんとに言葉では言い表せないほどの、油断してたらチビってしまいそうなぐらいの感動でした。
足元が濡れるのも気にならないぐらい、喜びと感謝の気持ちに満ち満ちていたわたしでしたが、すれ違う人達の中にはお年寄りや赤ちゃん、それから持病で大変な子供もいて、この8時間以上にも及ぶ無視が、どうにも許せなくなり、警察がダメならラジオ局に訴えて!と旦那に頼みました。



ワンちゃんの散歩。やっぱり彼女も短いスカートにソックス?!彼女は短パン姿でハスキー犬と歩いていた男性の家族のようです。いったいあなた方の季節感って……。



ヴァージニアのローカルラジオ局のニュースを聞き続けていたのですが、どうしてだか我々の場所のニュースだけがいつもとばされていたのでした。
なぜかすべての人達から無視されているような感じがして怒りがふつふつと沸いてきました。
天災に遭って避難したものの、孤立し、どこからの援助も連絡も無く、ただただ希望を捨てずに待ち続ける人の気持ちが、少しは理解できたような気がしました。

そしてさらに時間は過ぎ、丁度12時間が経過した時、トラックの運転手さんが急にプオ~ッというクラクションを鳴らしました。
「さ~、出発だ!」

突然やって来た地獄からの生還の瞬間でした。

ノロノロと動き始めたわたし達の目の前に、一晩中かかって寝ずに除雪をしてくれたであろう人達のトラックが何台も何台も止まっていました。
それこそ写真を撮りたかったけど、もうその時はただただ感謝をしたくて、一台ごとの運転手さんに手を振り、ありがとう~!と叫びながら通り過ぎました。



Tのアパートメントを出てから、まさに20時間ぶりの、温かい食事をとりました。
「こんな日だから、もう店を閉めようかと思ったのだけど、良かったわ、あなた達のような人を迎え入れることができて」
なんとも温かい言葉をかけてくれたウェイトレスさんでした。



走ってもいいと言われたものの、それはそれは危険な、どこで事故を起こしても不思議ではない状態の道が続きます。
わたしと旦那、それからKの3人で運転しました。Tは寝不足が続いていたのと、スバルの運転自体に慣れていないということで免除です。



あちこちで、それはもう数えきれないほど見た大型トラックの制御不能になった末の道路封鎖。我々のもトラックが原因でした。



すっかりひっくり返ってしまった事故車。普通車は単独事故がほとんどでした。深刻な怪我を負われていないことを祈るばかりです。



我らがヒーロー、除雪車!



もうすっかり遅れてしまって、旦那母のパーティが終わりを迎えている頃に、やっとペンシルバニア州の入り口に着きました。



走行中、我々の安否を心配する父から、再三の電話がかかってきました。
「そんな、間に合わそうだなんて考えないでいいから。とにかく無事に、もし危ないと思ったら、どこでもいいから途中で降りて泊まるように」
「うんうん、わかった、無理しないから、気をつけてるから」と答えながらも、本当は滅茶苦茶無理して、とにかく間に合わせたいと運転し続けるわたし達。

結局パーティには間に合いませんでしたが、父がパーティに参加した人達用に用意したホテルのコテッジで、無事生還を皆とともに喜ぶことができました。
そしてもちろん、前日の夕方から思い続けていた、「おかあさん、誕生日おめでとう!」を、直接本人に言うこともできました。
父が急きょ我々にも取ってくれたコテージの部屋は、もうなんとも言えずすてきで、あたたかで、それはもう、昨日の夜から考えると天国そのもの。
あまりにありがたくて嬉しくて、それにKのリクエストでもあったので、天国の写真も撮りました。

4人用だと思っていたら、なんと旦那とわたしの2人部屋?!文字通り大の字になったら、身体が泥のように溶けていくように眠りにつきました。



どっぷりと深い浴槽。旦那母が一番にわたしを引っ張って見せてくれたお風呂です。「まうみが大喜びすると思った」と嬉しそうに言ってくれました。

 

今朝はすっかり晴れました。空気はキリキリと痛いぐらいに冷えています。



今朝、旦那はかなり病気になっていました。起きた途端に下痢と吐き気と強烈な頭痛に見舞われ、見るからに悲惨な状態でした。
これはもう、少し実家に寄って休ませてもらい様子を見い見い家に戻るしかないなと思っていると、あらあら不思議、チェックアウトの頃にはかなり回復しました。

それで、わたしとKとで運転をし、夕方に我が家に戻ってきました。
家猫はしばらく大きな声で文句を言っていましたが、今はすっかり落ち着いています。
明日からクリスマス前の詰めこみレッスンが続きます。
わたしも体調を崩さないように、このあとわずかになった2009年を無事に終えたいと思います。

長い長い話に付き合ってくださったみなさん、本当にありがとうございました。
おかげさまで無事に戻ることができ、また明日からせっせせっせと、ひと迷惑な記事を更新していきたいと思っています。
いつも温かく見守ってくださり、本当にありがとうございます。
コメント (20)
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