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池谷孝司『死刑でいいです』

2010-03-12 12:32:00 | ノンジャンル
 朝日新聞で紹介されていた、池谷孝司さんの'09年作品「死刑でいいです 孤立が生んだ二つの殺人」を読みました。16歳で自分の母親を殺し、少年院での生活を経て、再び面識のない27歳と19歳の二人の姉妹を刺殺して死刑になった山地悠紀夫について取材した、共同通信社の記者によるルポルタージュです。
 山地は酔って暴れる父の暴力を見て育ち、厳格な家庭で育ったことで子供への感情表現を学習せずに大人になってしまった母による養育放棄(ネグレクト)の虐待も受けます。5歳の時、アルコールで体を壊し血を吐いて倒れた父を放置して死なせた母を山地は憎悪するようになり、父親を理想化して父の持っていた暴力的な資質を獲得します。また、DVを目撃して育った結果、自分の感情を抑え込むようになり、他人との感情の共有が苦手になった結果、自分の世界に耽溺するようにもなります。学校では高圧的な態度で周囲の反発を招き、いじめに会うようになりますが、中学で不登校になった後も、自分のことを理解しようとしてくれる人たちにはコミュニケーションを求め続けます。父の生前に、父の公然たる浮気に対する憤まんを処理するためか、高価な買い物をし続けて数百万の借金を抱えこんだ母は、山路にその事実を隠して嘘をつき続け、また愛情表現の仕方を知らない母に、山路は心を開こうとせず、山路は母への不信と母から愛されていないという思いの中で、増々他人との協調が困難な精神構造を獲得していきます。やがて母の借金が膨らんで生活が困窮し、自ら新聞配達のバイトをするも水道を止められるところまで追いつめられ、バイトでためた貯金も母に使われてしまい、その頃恋していた女性への母による無言電話の事実も発覚したことが引き金となって、山路は積もり積もった憎悪から母を包丁で繰り返し刺し、バットで頭を何度も殴って殺してしまいます。母を殺したことに対する反省はないままながら、少年院での規則正しい生活で安定した精神状態を得ますが、少年院を出された後は頼れる大人もなく孤立します。やがてパチンコのゴト師の集団に居場所を見つけますが、そこも追放されると、最後の砦を失って絶望した山路は、無意識のうちに自分の人生の幕引きを求めて、ほとんど狂気に到る中で、たまたまゴト師の溜まり場だったマンションに住んでいた姉妹の女性を刺殺して逮捕され、自ら死刑判決を求めて処刑されてしまうのでした。
 関係者に対する綿密な聞き取り調査にも基づいたこのルポは、山地が置かれてきた状況と、彼が誰かとつながりたいと思う気持ちと、それを阻む、家庭環境から受けた精神構造を露わにして、読む者の心を打つのですが、より彼の心を理解する助けとなったのが、DVカウンセラーの信田さよ子さんによる事後分析でした。信田さんによると、家族などを殺す殺人と、それ以外の人を殺す殺人をどちらも犯しているという点で、山地の犯罪は特異なのだそうです。そうした点で母殺しと姉妹殺しはまったく別の動機が働いていていて、母殺しは母への憎悪からの殺人、そしてその時の快楽体験がエスカレートして姉妹殺人を起こしてしまったと考えられると信田さんは言います。また虐待を受けた子どもは、女の子の場合リストカットのような自傷行為に走るケースが多いのですが、男の子は外部への攻撃や加害行為になって現れることが多く、山地が父を理想化するのも、そうした傾向の現れではないかと信田さんは見ます。また暴力的な父の前で、自分を無力と感じ、自分が感情を出すと事態が悪化するころから、素直に感情を表現することを恐れるようになり、うそぶいてみたり、悪ぶってみたりするようになったのではないか。それが取り調べでの高圧的な態度、自分の内面を探られることに対する反発に現れている。また、山地の父がアルコール依存であり、DVを行っていたのだということを言葉にして山地に対して説明できる第三者が当時はまだ存在していなかったことも、山地が自分の置かれてきた状況を整理できなかったことの大きな原因であると信田さんは言います。「母はうそをついて生きてきた、父は酒をやめない、二人とも誠意のない生き方です。嘘と本当の基準が親によって示されないままに育った山地は、必死になって自分を防御し、それでも追い込まれていった結果の事件だったのではないか」と信田さんは述べています。
 この本で改めて確認できたのは、「理解」の大切さでした。自分が置かれている状況に名前をつけることでそれを理解し整理することが、自分の抱えている問題を意識化し、解決することにつながるのです。また第三者に自分を「こうこうこういう者だ」と「理解」してもらえれば、堅く閉ざされた心も氷解し、第三者とのコミュニケーションも可能になります。これは以前、私の同僚が勉強していた「神経言語プログラミング」にも通じる考え方です。愛するということは他者や自己を理解することなのかもしれません。そうしたことを改めて考えさせてくれる本でした。