どこまでだって歩いていけるさ

2012年1月22日 それまでの日記を引き連れてOCN Cafeから移住。
新しい扉の向こうには何があるのだろうか。

まだまだ酔っ払いを知らないねぇ~

2009年03月08日 | 日記
どんよりとした天気ゆえ徘徊は諦め(昨日 家事頑張ったのになぁ~)

こうなったら とりあえずビールだ(なんでそういう進行になるかね~)

あはは^^ 反省も忘れ しかも全然懲りてもいない^^

反省のフリならサルでも出来るが 酔っ払いながら日記を書くサルはいないだろ

(素面で日記を書くサルも居ないということは 内緒だ)


会社の仲良し君は郵便局員だった

キス男には あいつは公務員の根性が抜けないと(否定的な意味)言われている

それも頷ける思うこともあるが 組織の中で生きることには長けていると思う

小さな会社で上も下も無いのだが 人を見て上手くまわす(まわる)ことが大事だと私は思っている


高校生の頃 郵便局でアルバイトをしたことがある

例によって年末のだ

一応進学校である都立高校で アルバイトをするものはほとんど居なかった


小学校時代 仲の良い6人組の女の子のグループがあった

それは今から思うと不思議な気もするのだが ほとんど成績で決まっていたような気がする

自慢と思われては困るのだが 当時の(当時です!)私は優秀だった

だが根っからが どこか不良に出来ている(生真面目な母よりも自由気侭な父の血をひいてしまった^^)

そのせいか ガキ大将とも仲が良かった

勉強は好きだったからしてただけのこと

女の子はおませなのか 早くから自己とその種の保存にとって有利な選択をするように出来ているようだが

心根が男の子に出来ている私は 勉強の出来る男の子なんかつまらないという気分だった

中学に行ったら少しは女らしくなれよ なんていう卒業の時のコメントをもらったけど あはは^^なれなかった


そんなあれこれは もうちょっと成長するまで判らなかったのだが・・・ 

小学校以来仲が良く 同じ高校に進んだ友達と段々と疎遠になっていった時に感じた

最近 ○ちゃん変わったよね と・・・ 

何しろ高校に入学してからは 自主早退はある(吉祥寺のジャズ喫茶に一人で行ったり^^)

標準服はあったものの私服も許されていたのを良いことに

―それは先輩の運動のおかげで ノンポリ時代の私たちには縁のなかった学生運動の名残でもあった―

バスケットシューズには 自分流の派手な意匠をほどこしたりしていた

友達と映画を見に行こうと授業を抜け出した時 国語の講師の先生と出くわして でも笑って見逃してくれたっけ


そんな高校時代 小学校六人組のうち三人とは交換日記が続いていたのだが 

一人が局のアルバイトで外勤をすると言ってきた

外勤とは郵便配達である

私もそうすると 親にも相談せずに(正確には言ったのだが来客中だった)決めた(叱られたが後の祭り!)


公務員というもの 組合の力 学歴によるヒエラルキー

此処ではそういうものを見た

学校でも家庭でも 見えなかったものだった


今回 東京中央郵便局の建て替え問題が浮上している

プロポーザルの資料を見たことがある

本題はこれだったのだが 郵便局ということで思い出が甦ってしまった

この続きはまた ということで


お~い 本題にはいかなかったのに長かっただろう~^^

気軽に意見を訊いたことを後悔してるか?

まだまだ酔っ払いというものを知らないねぇ~~
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密かな喜び

2009年03月07日 | 日記
酔っ払いつつグダグダと長く書いたことを反省した

明確では無い描写や文法的な誤りもあちこちに見つかり こんなものを読まされる人は(読んで下さったとしてだが)

たまらんことだっただろうなぁ~と思うと 日記を書く気分にはなれなかった


ただ一つの救いは 私の紹介でHPを見てくださった方がいらしたことで・・・

百聞は一見にしかず

私の日記を読むよりずっと早くてわかりやすかったはず と 臍をかむ思いがしたが

この存在を誰かに知ってもらえたということが 私の密かな喜び
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明日館(みょうにちかん) その5―惚れるのに理屈なんかいらない

2009年03月01日 | 日記
ノンベイの話はしつこいと言われる(自覚症状あり^^)

だから付き合ってくれとは言わない

特にこの一連の日記は 興味の無い方にはクソ面白くも無いだろうと思う(普段も面白くはないだろうけど)

新着で足跡を残される方には 日記を読んだ上でそれなりのコメントを残されるよう望みます

いつもながら 意味の無い足跡 相当数のある方の足跡は 即削除としています

時は金なり お互い無駄な時間は避けようや


さて 私のミステリも佳境に 例の食堂の三角窓

謎は解明された

三方にある部屋 それは増築されたものだったのだ

元はテラスになっていたそうだ

手狭になって増築する時に 大きなガラス窓の大部分を壊すことになった

その一部を窓に使用したのだった(それを写真で説明出来ないことが残念)


そして 質素なテーブルと椅子の謎

それは 当時ごく普通に流通していた既成の板を利用したからだった

当然 資金の面で彼の望むようなものは無理だった(例によって 半額を希望したから)

それを意匠的にも最高に見えるように作ってあるのが脱帽である


大谷石は今日でもそう安価では無いと思うが ライトは北陸で産出されるなんとかって石を使いたかったようだ

産出量とそれの費用の問題で 叶わなかったらしい


だから此処の形状や積み方は変則的でしょうとガイドの説明

だけど それは計算の上かもしれないよね

一見対照的でありながら それを壊すのはライトにありがちだから

ただ これは帝国ホテルで余った石材をこっそり使ったのかもしれないという説明を受けた時には・・・

それもあったかもしれないと それを上手に意匠に活かしたのかもしれないと思った


ヴォーリズファンは多い

個人的には日光聖公会教会他を建てたガーディナーも好きだし 片山東熊の師であるコンドルも好きだが

奇妙なことには惚れるとしたら このライトかもしれない

惚れるのに理屈なんかいらない


最後になるが 往年の洋画ファンには馴染みのあるだろうアン・バクスターは彼の孫娘である
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明日館(みょうにちかん) その4―そんな歴史もあるのだ

2009年03月01日 | 日記
父は大正12年 関東大震災の11日前に生まれた

母は昭和3年 世界恐慌の年である

100年に一度の不況と言われる昨今だが 経済に疎い私でもこれは単なる不況じゃない 世界恐慌だな 

なんて思ったのはその昔 入試を日本史で受けたから^^


二人の年齢差はたった5年なのに 勿論家庭環境の違いはあるにせよ 私にはそれぞれの青春の色は違ってみえた

心の柔らかな時にどのような時代を生き抜くか それは微妙に異なる

激動期ならば 5年の差は大きい

私の場合 それは少々年上の人の学生運動だが その話はどうでも良くて・・・

此処が大正10年 少女の為に作られた学校だということだけで

(ビールは更に続く)


ホールには壁画がある

修復前には 長い間 壁と同じ漆喰で塗り固められていた

日本が(あるいは日本も)侵略を当たり前のことと思うようになって 当局からこの学校の名前の変更を迫られた

自由とは何事か というわけである

この[自由」とは勝手気ままな自由では無い 聖書の一節にある自由であると何度も説明に通ったそうだ


この隠された絵画には 出エジプト記の様子が描かれていた

今日 パレスチナとイスラエルで虚しい殺戮が繰り広げられているが 映画でも有名な話である(海が割れる^^)


学園設立10年を記して 子供たちが描いたという

それを自ら隠さなければならなかった

そんな歴史も 此処にはあるのだ
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明日館(みょうにちかん) その3―ガイドの説明前に

2009年03月01日 | 日記
ビールの用意できました

ツアーの開始です


此処が廃屋同然になっていたこと それは私も写真で見たことがあったが 確かに酷かった

それをどうするかと色々議論があった末に残すと決まり 運良く重要文化財の指定も受けることが出来た

国が二分の一 東京都と自由学園が四分の一ずつ経費を出すということで 修復工事が行われた

重要文化財の指定を受けての修復にあたっては 使ってなんぼの建築物の使命を大事にする動態保存を選んだ

脇道にそれるが 明治村を見た時には確かに面白かったのだが 正直言うと建築の墓場だと思った

楽器は音を出してナンボ(安かろうが古かろうがだ)


動態保存についての説明を受けた

1.オリジナルの復元(これについては詳細に渡るとまたまた面白いのだが 此処では省略)

2.恒久性を高めるための工夫(当時のままといっても 耐震や雨漏り 床の湿気対策などは当時のままではない)

3.活用のための改善(冷暖房や照明設備 トイレ等)


中央棟の左右 丁度コの字型の曲がるところに明かりがある

職員が行灯(あんどん)と呼ぶこの照明は 文字通り浮世絵好きのライトがそれをイメージしたものだという


右翼の教室から見る

此処を一人で見た時に一番素敵だと思ったのは 入り口のドアの上の小さな木製部分

どこかカントリー調で 小さい山型が幾つも並んで掘られている

そこに細い十字と捧状の透かしが交互にあけられている

話はチョイとそれるが ここにはその山型が多く使われてるので とても小さなものだが象徴的でもある


ガイドからドアの説明があった

私は気がつかなかったのだが これはベニヤ板のようなものを張った非常に安いつくりだと

経費節約の故だという

でも これを見てください この上の板の装飾があると無いとでは がらっと違うでしょう?と

あぁ まさに私が気に入った小さな装飾

子供の学び舎として 出来る限りの夢を詰め込んだのだと思うと それだけで嬉しくなる


いよいよ中央棟に入る

教室がある

足を踏み入れてまず感じるのは 右側の明るいほぼ全面の窓だ

反対側には 正方形を45度曲げた窓一つ

当時の明るさを再現するために ここは照明をつけずに見る

大正10年 父も生まれていない昔

この明るさでも充分だったのだろうが それでも建築途中で変更があったらしい


それは 修復にあたって解体した時にわかった

私が面白いと思った正方形の角度を変えた窓は 明らかに後から付け加えた(というか変更)ものだった


どうよ 建築ってのはまさにミステリでしょ?

建築の先生でありながらミステリ作家っていう人がいるけれど さもありなん!


この部屋も天井は三角形なのだが 部屋は廊下の部分だけ一方に長い

柱は当然 その三角の終わりあたりに立てるべきだ

ところが これも当然だが入り口からは邪魔になる

30センチ程度か 明らかに移動させた跡が残っている

土台が二つあったからだ

それが耐久性を弱めたとも言えるのだが さて 施主と設計士の間でどんな話があったのかは 想像するしかない


この教室の床は 途中で明らかに変わっている

三分のニ程度が古いものだが なんとそれは全教室合わせて それだけしか残らなかったほど・・・

腐ってしまったのだが 実は床と地面とが同じ高さであり 日本の湿気なんていうのは想像もつかなかったのだろう


こういったことはガイドの説明があってこそだった

自分の目で見て 自分の感性を信じるのも悪いことではないが 解説というのも重要

そういえば CD(レコード)だってライナーノーツって好きだしねぇ


長くなったので 此処で切るけど まだまだ続きます

別に誰に読んで欲しくて書いてるわけじゃないので 興味の無い方は無視して下さってね

ただただ 書き残しておきたいだけ
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