ここにきて、最近まで元気だった人の訃報や病に倒れたという話を聞く機会が多くなった。毎日のように通っている日帰り温泉でも、いつの間にか顔を見せなくなった人も多い。晩年をどう生きるか、これは人間の永遠の課題だ。森本哲郎に『生き方の研究』という著書がある。これは、古今東西の先人たちのよく生きてよく死んだ実例をあげた面白い本だ。なかでも目をひくのは、中国宋代の政治家にして詩人王安石の、晩年の生き方である。
政治家としての王安石は、時代の改革者であった。貧富の格差が大きく、特権階級や豪商といった人々が、社会を動かし、軍隊が弱体化し、矛盾のしわ寄せは多くの農民や中小の商人や地主へ及んでいた。国を取り巻く外敵が力を蓄え、宋を窺う危機的な状況であった。請われて宰相の位についた王安石が最初に手をつけたのは、物資の流通で巨利を得ていた商人を排除し、政府が直接管理する「均輸法」の制定であった。ついで農民を保護する「青苗法」、そして軍隊を強化する「保甲法」から、教育の改革にまで及んだ。これらの改革は、当然のこととして、利権で潤う特権階級の反発を招く。改革の宰相王安石には、皇帝神宗が後押しとついていた。有力者の反発で孤立していく安石は、ついに干ばつという災害で、宰相の地位を去った。神宗の逝去後、宋は安石の新法派と守旧派に二分、国が乱れた。
そんな中で安石は、晩年の10年、心のふるさと金陵(南京)で心のおもむくままに暮らした。身なりなどに気をとめず、酒は嗜まず、女性とも無縁。しかも、金銭に無頓着。そんな暮らしのなかで詩を創り、文を書き、禅の世界に身をおいて人格を完成させた。王安石の一篇の詩
水の南に水の北に重なり重なる柳
山の後に山の前に処処の梅
未だ即ちに此の身の物に化するに随わずば
年年に此の時を趁いて来たらん
第三句は難しい言葉づかいだが、つまるところ自らの死。すばらしい金陵の自然を愛でに、この地を毎年訪れようというのだ。同時代に著名な蘇軾という詩人がいるが、その晩年の運命には、真逆の年月が横たわっている。
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