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見ていた大旦那が注意した。「お前さんは、いまはそば屋の女房。からだにそんなしなをつくっちゃいけねえ。あいさつはちゃんと坐ってするもんだ。ほら、こうして」と自分で両手をつかえてみせた。「すみません。こうでしょうか」とおとめは大旦那がするように、何度も何度もおじぎの稽古をした。見ていた大旦那も、妹も若女将が気にいって、それからというものは、手をとるように教えた。こうして、評判のおとめは、店の使用人にも気に入られ、来店するお客にも大好評で、店は繁盛していった。
だが、おとめが嫁いだ萬盛庵は数奇な運命が待っていた。やがて大旦那が世を去り、萬盛庵の借地は神社のものとなり、引っ越しを余儀なくされる。そして若旦那も若くして亡くなり、越して70坪ほどの小さな店の切り盛りは、おとめの肩にのしかかる。5人の子を設けたたが、二人は早世。3人が食べ物屋になった生き残った。しかし、東京大空襲は、越した萬盛庵も続けていくことができなくなった。
同じ名、萬盛庵という蕎麦屋が山形の旅籠町にあった。市立済生館の西側の道を少し小路に入ったところである。2009年まで営業していたので、閉店して15年も経過したことになる。江戸前の蕎麦で、東京で修業してきた店主が開いたから、神田の萬盛庵で修業したか、何かの関りがあったかも知れない。今は亡き漫画家・杉浦日向子さんのお気に入りの店で、思い立って新幹線にのってわざわざこの店に蕎麦を食べに来たこともあったという。昭和35年から、毎月第2日曜日に「山形そばを食う会」が休むことなく、500回以上開催された。自分も何度か知人に誘われて、この会でも打ちたての蕎麦を食したことがある。営業日に食べる蕎麦より、この会の蕎麦が美味しく感じられた。
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