常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

大朝日縦走(4)

2021年08月24日 | 登山
大朝日岳の登頂まで
縦走の醍醐味とは。何といってもこの名山の雄大さに直接触れることだ。よく言われるのは、大自然の中で人間の存在が小さいことだ。しかししきりに飛ぶ小さな蝶アサギマダラ、地面に可憐にさくタカネマツムシソウ。この大自然は、これらの小さな生命をもひとしなみに育んでいる。その大小にかかわらず、生命の尊さに気づかせてくれるのが、この雄大な大自然だ。一歩一歩、細く長い縦走路を踏みしめながら、地球の大切さが身にしみる。ふと目を先に向ければ、これから登る急峻な寒江山が迫り、振り返れば、下ってきた以東岳からの道が見える。この長い道を歩いてここまできた、そんな単純なことに感動を覚える。その先には月山、そして出羽富士といわれる鳥海山の裾野が、海へ伸びているのが見える。山国である山形を代表する名山の数々。

目を東に向ければ、山形の街並。それを見おろす蔵王の山なみ。雁戸や山形神室、その脇には大東岳。雲海から頭だけを出す白鷹山。どの山も過去に登った懐かしい山たちだ。さらに目を西に向けると日本海。湾曲する海岸線に接して光っているのは酒田港だ。その先に粟島が細長く横たわり、佐渡ヶ島は海の上に浮かぶ。この日は何もさえぎるもはなく、視界は届く限り見ることができる。登山家岩崎元郎もこの山に魅せられた一人だ。その著書『ぼくの新日本百名山』で、主峰大朝日岳から以東岳の縦走がいかに困難な山歩きであるか述べている。年齢を重ねて縦走を止め、朝日鉱泉から大朝日岳の日帰り登頂を試みたが何と14時間の難渋登山となったことも書いている。我々の山行日程3泊4日に余裕があったこと、その間天候の恵まれた僥倖が、この縦走を可能したことを忘れてはならない。
山小屋の泊りも縦走の楽しみを増やしてくれる。山の端に落ちていく夕陽、その日の好天を約束してれる朝焼けとご来光。夜の星は空から降るように大きい。眠りに入る前に、バーナーを置く台に集まって、小屋の食事の楽しさも格別である。限られた容量のザックだが、少量のウィスキーや焼酎を皆が偲ばせて来る。ザックの軽量化のために、湯で入れて食べられるものが主流だが、小まめに調べて常温保存できる肉やソーセージを持参された人もいた。きつい山道を助け合って登ってくるうちに、心が解け合い、夕食のひとときは特別に楽しい時間になる。

夕焼けに魅せられ、ご来光に勇気をもらった三日目。いよいよ、この縦走を完結する日だ。夜中に雨が来たものの、快晴の朝日が清々しい。5時45分に小屋を出て、やや登ったところが三方境。小屋の屋根が見えるあたりで記念の集合写真。ここは西川町と鶴岡市と新潟の三方面への山道が集まっている。我々が目指す大朝日岳の道には、北寒江山(1658)、寒江山(1694)、龍門山(1688)がある。それぞれの山は、それほど体力消耗する登りではないが、下りはそれなりに急坂が続く。龍門小屋の前に水場あるホースから水が出放しになってバケツが置かれている。日が高くなるにつれて、夏の陽ざしがふりそそぐ。身体から汗が吹き出し、熱中症が頭をよぎる。そんな午前の時間だが、龍門小屋の水はありがたい。

振り返ると寒江山にくっきりと見える登山道。その向うにには、どっしりと以東岳が控えている。あの道を遥々と下りて来たのだ。細い道だが、この道を下刈りしながら整備する作業が毎年続けられている故にこの歩きやすい道になっている。どれほどの人数の人々がその作業にあたるのか知らないが、その労苦が思いやられる。ここで昼食となる。カロリーメイトやビスケットなど、持ちやすい行動食で当面の腹を持たせる。

西朝日岳にきていよいよ大朝日岳の尖りが見えてきた。手前の中岳は、頂上を踏まず、中腹をトラバースする。いよいよ、この縦走の主目的は指呼の間だ。目を足元に向ける。花の終わったミネウスユキソウが山道のわきに見える。ひと月ほど早くくれば、エーデルワイスの大群落が見られるはずだ。この花を実見した深田の言葉を借りれば「小さな星形の真っ白なフランネルでできたような高貴な花」だが、その群落はその時代から咲き続けているらしい。今みえるのは、咲き終わりのニッコウキスゲ、見事な色のハクサンフウロ、ミヤマナデシコにトリカブトの紫が混じっている。できれば7月の花の季節の訪ねてみたいが、もう実現は難しいかもしれない。

中岳を過ぎて、山頂小屋が見えてくると銀玉水と名付けられた水場への岐れ道がある。そこへザックを置き、サブザックに空の水筒をいれて今夜、小屋で使う水を汲みに行く。山頂小屋には売店ももちろん水もない。山頂小屋に着いたのは4時。ザックを置いて、サブザックに水筒を入れて大朝日岳の山頂へ向かう。ザックを置いて身軽になった上に、目的がすぐそこに迫っているので一行の足取りは軽い。東の方からガスが湧いてきたが、頂上に着くころにはまた周囲の山並みが圧倒的な迫力である。連峰の南端、祝瓶山の秀麗な三角錐が美しい。その景観に、途中の疲れも苦しさも、もはや忘却の彼方である。一行のどの顔も達成の喜びに満ちていた。

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大朝日縦走(3)

2021年08月23日 | 登山
大鳥池から以東岳、狐穴小屋
天気祭りの甲斐あって19日の朝は快晴。昨日の疲れもとれ晴れやかな気分で筆者の映像を初だし。縦走への参加者は8名、内女性3名。年齢構成は最高齢80歳の筆者のほか、70代2名、60代5名のシルバー隊だ。大鳥池でタキタロウと思える魚影を目撃したのは、地理学者で氷河研究家の五百沢智也氏である。昭和57年に行われた観光イベント「以東岳にのぼりませんか」に参加した手記にそのことが記してある。そのイベントにはグループでの申し込みがあったがそれがキャンセルになって、五百沢と一般に役場の担当と朝日旅館の主人の4人でこのイベントが実施された。池から直登コースで以東岳に登り、下って湖面がくっきりと見える地点に来て腰を下ろして休んでいた。

湖面を見ていた一人が「何だ、何だ、あれは」。岸から100ⅿほどの沖合、クサビ形の波形が見える。2,30㌢の魚群がバシャバシャとひしめいて泳いでいるなかに動かない大きな魚の背のようなものが見える。双眼鏡で確認すると背の見える部分だけで1m、多分2m超える大魚の背だ。その背が4尾。「あれがタキタロウなんだな、きっと」。この集落辺に伝わる巨大魚はタキタロウと呼ばれる幻の魚だ。以来、何度も調査捕獲隊が出かけたが、いまだに実物は捕獲されていない。秋田の漫画家矢口高雄の「釣りキチ三平」に描かれたのも、こんな実見談がもとになっているのかも知れない。
我々が辿ったコースは、湖面を離れブナ林を行くオツボ峰コース。林を抜けると渓谷の向こうの以東岳へ直登コースの尾根が見える。小さく以東小屋が見えている。何という景観なのだろう、ただただ息を呑むほかはない。朝の風は爽やかだ。以東岳のどっしりとした存在感、足元にはマツムシソウの群落が見え始める。こうした景観や可憐な花たちに癒されながら歩くと足の疲れも忘れてしまう。行先の山道が笹や草原のなかに細く見え、その先の峰々もあくまで感動的だ。平日のためか、ここまで歩いて行き交う人もいない。

山形の歌人結城哀草果は、山を登りながらその景観を歌に詠んだ。60歳でこの朝日連峰の峰に立ち一首をものしている。

奥羽山脈に接して太平洋に出づる日の荘厳を
 わが生涯の奢りとぞする 哀草果

縦走を終えてから、参加メンバーの仲間からラインがはいった。「朝日縦走は私の人生の宝」とあったが、歌人の哀草果もまた同じ心境を抱いて山を降りたのである。
大鳥池の全貌が見えるは以東岳の頂上付近からだ。この形を熊の毛皮という人がいる。頭の近くに前足、後ろに後足を広げて、人はこの毛皮を座布団がわりにして敷く。大鳥池の伝説はタキタロウばかりではない。人がこの池に行って魚を漁ったりすると洪水になったり、人が死ぬという伝説もある。文久元年、元和元年、寛文三年、九年、享保14年に大洪水の記録があり、この池に入るのを禁止するために取締り役を置いたというのは本当の話だ。

Nさんが撮影したマツムシソウの花。高山ではタカネマツムシソウと呼ばれる。オツボ峰コースの草地で、以東岳を降る稜線でも咲く。これほど多くのマツムシソウの見たのは生涯の初体験である。草原のようなイネ科の草地を通る。ここから狐穴小屋までが2日までのコースだ。

狐穴小屋はきれいな小屋であった。水は豊富に出放題、先客が一人いたが静かで人を避けるように一人の食事を楽しんでいた。このあたりの縦走コースは平坦で、誰もがほっとする場所だ。「朝日軍道」がこの付近にあったという。上杉景勝の家老、直江兼続は慶長3年、長井葉山から大朝日、以東岳を越える巾2.7m、全長60㌔の軍道を作った。天下分け目の関ヶ原の合戦で、西軍についた庄内兵はこの軍道を辿って帰藩したという。その跡はどこか、目で探すもそれらしい痕跡を確認することはできなかった。

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大朝日縦走(2)

2021年08月21日 | 登山
この年齢になって縦走ができるとは、正直思わぬことであった。大鳥池の湖畔のタキタロウ小屋から以東岳から寒江山、龍門山、西朝日岳を経て大朝日岳。山小屋に3泊、食糧やシュラフを担いで行く山行は、古い時代の山登りをわずかではあるが追体験できる貴重な機会である。都会のホテルのような山ご飯を提供することは全くない。辛うじて水とトイレはあるが、生活は背負ったリュックのなかにあるものに頼るほかはない。この記事を書いているのは、この縦走をこなして自宅の戻っていることの証しである。大正い15年の7月、深田久弥は、この大朝日連峰への縦走をおこなっている。

「這松で覆われた頂上は狭いが、その展望は素敵だった。朝日縦走しようとする峰づたいのコースが一目に見渡される。どの山にもまだベッタリ雪が残っているので、2千㍍にも足らぬ連峰ながら、ひどく雄大な感じがする。行く手はなかなか遠い。振り返って来きた道をみると、まだ僕らは朝日連峰の緒についたに過ぎなかった。」

大正時代に深田が抱いたと同じ思いを追体験する得難い機会であった。しかもほぼ全行程を晴天のもとで歩くことができたのは望外の幸せであった。深田の時代には、山小屋などというものはない。寝るためのテント、煮炊きにはテント近くにカマドを作り、枯木を拾い集めて、川で米をとぎ飯盒で炊飯する方法であった。今日の我々には想像を超えた難行が、登山というものであった。
泡滝登山口から大鳥池まで
登山口から大鳥川に沿ってつけられた登山道を歩く。この川には、思い出がある。50年も前の5月の連休の一日。勤め始めて年数もたたない頃だ。当時はまっていた渓流釣りに、後輩とこの川に挑んだ。朝日村にあるたった一軒の釣り宿。そこに泊まって早朝から雪の消えない山道を川に向った。宿には関東方面からの釣り客も入り、一晩、宿の主人の釣り談義を聞いた。囲炉裏に小さく干してあるのは熊の胃である。宿の外に小屋があって、そこに捕獲した熊が飼育されていた。今思えば、大鳥川までかなりの距離だ。スノーブリッジになった川は自由に渡ることができた。かなり奥に入って、岩陰からたった一尾のイワナがつれた。渓流釣りというのが、これほどの労苦の果てに20㌢位のイワナが一尾。その時の疲労と釣りのだいご味は、今も身体の奥に眠っている。

川の沿った山道は、5年前に登った以東岳の記憶を呼びおこした。たしか台風が去ったばかりで、川の水位は高く、ところどころに流された流木の上を越えながらの歩きであった。この日は心配された雨も上がり、朝日に山の木々が光っていた。滝を見て、吊り橋を二つ渡り、七曲りの坂道に着く。朝10時半に登りはじめて七曲りまで2時間ほど。七曲りを登り切ろうとするころ雨が落ちてきた。通り雨である。雨具を着て一息つくと、雨は去っていく。結果から言えば、この雨が登山中に来たたった一度の雨であった。
七曲りを登りながら思い浮かべるのは登龍門という言葉だ。西朝日岳の麓に龍門山があるので、なおさらその思いを強くする。急流を登る鯉の心境だ。この難所を越えろ、さもなければ、大朝日の登頂など思いもよらない。自然の地形がつくる体力テストと言える。Mさんから七曲りを半分、あと四つと声がかかる。大鳥池は東に聳える戸立山からの花崗岩の大石を含む土砂の地滑り崩落によって沢が埋まりできた。水深は最深部で65ⅿであったが、昭和の初め、下流の田地の灌漑のために流水口に堰を作り、湖水の水を3m上げた。大鳥池にはこんな人工の手が加えれている。七曲りには、湖水から水が沁みだし、所々に水の飲み場ある。それを飲みながら、足の疲れに気合を入れて登りきる。

タキタロウ小屋の前に雨具の干場がある。ここで濡れた雨具を干し、小屋に入って雨のしみ込んだ衣服をハンガーにかけて着替え。持ってきたビールとつまみでとりあえず乾杯。明日の晴れを祈る天気祭りである。
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大朝日岳縦走

2021年08月17日 | 登山
計画していた大朝日の縦走(山小屋3泊)と時ならぬ大雨が重なってしまった。明日から少しずつ気圧配置が変わって、暑い夏がもどるようである。明日からの山はどんな表情で迎えてくれるか。雨が上がってくれることを願っている。山行の間、この週末までブログの更新はお休みです。
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やれやれ 村上春樹

2021年08月16日 | 読書
本は断捨離できない、とブログの名手の言葉があった。そうだなあ、と思いながら自分の本棚をみていると、本の間に小さく畳んだ新聞が出て来た。2016/10/2の朝新聞のタブロイド判のグローブだ。特集の題字は大きく、「不安な世界をハルキが救う」とあり、7ページにわたる特集記事があった。この年は村上春樹の小説の世界に惹かれ、次々と読んだ年であった。新聞の特集記事が気になってとっておいたものらしい。そんな記事があったことすら、すっかり忘れている。

不安な世界、といえば昨年から始まったコロナパンデミックの今日を指すような気がする。記事を読むと、村上の小説は国内では評価されない向きもあるが、世界50か国で翻訳され、紛争や民族対立を抱えている国々の読者の不安を癒している、という内容である。イタリアの翻訳者アミトラーノは、インタビューに答えて語る。「村上は世界中のどの作家の追随を許さないほど、現代という時代の本質をつかみ取っている。様々な国籍の多くの読者が、村上作品について「自分のためだけに書かれた」という共通の読後感を持つのはそのためでしょう」と述べている。

村上の小説を読んでいると、登場人物の会話のなかに「やれやれ」という言葉が時おり現れる。例えば、『ねじまき鳥クリニクル』で、失業して主夫をつとめる主人公と妻クミコとの会話。
「それからついでにもうひとつついでに言わせてもらえるなら」と彼女は言った。「私は牛肉とピーマンを一緒に炒めるのが大嫌いなの。それ知ってた?」「知らなかった」
「とにかく嫌いなのよ。理由は訊かないで。何故かはわからないけれど、その二つが鍋の中で炒められているときの匂いが我慢できないの」
「君はこの六年間、一度も牛肉とピーマンを一緒に炒めなかったのかな?」
彼女は首を振った。「ピーマンのサラダは食べる。牛肉と玉葱は一緒に炒める。でも牛肉とピーマンを炒めたことは一度もないわ」
「やれやれ」と僕は言った。
「でもそのことに疑問に思ったことは一度もなかったのね」

ちょっとしたいさかいである。そこからクミコは夫が、私のことは気にもとめず、自分のことだけを考えて生きている、と結論づける。「やれやれ」は仕事が終わってほっとした時に発することが多いが、がっかりしたときや、しくじったとき、あきれたときにも発する。主人公が言った「やれやれ」は後者に方である。複雑な心を表現しながらも、相手とも折り合いをつけたい意味合いもある。グローブの記事はこの「やれやれ」を外国語ではどう翻訳したか、表にまとめてある。原語と日本語のニュアンスを書き加えてあるが、日本語のニュアンスだけ紹介する。
英語 「すごい」「ひどい」
フランス語 「私にとっては想定外の事態」
ドイツ語 「狂ってる」
ロシア語 「けしからん」
中国語 「あーと叫ばずにいられない」
原語がその国でこの通りに解釈されるのか、知ることはできないが、村上の言葉を外国語に訳すことが難しいのはこの一語だけみても分かることだ。


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