大朝日岳の登頂まで
縦走の醍醐味とは。何といってもこの名山の雄大さに直接触れることだ。よく言われるのは、大自然の中で人間の存在が小さいことだ。しかししきりに飛ぶ小さな蝶アサギマダラ、地面に可憐にさくタカネマツムシソウ。この大自然は、これらの小さな生命をもひとしなみに育んでいる。その大小にかかわらず、生命の尊さに気づかせてくれるのが、この雄大な大自然だ。一歩一歩、細く長い縦走路を踏みしめながら、地球の大切さが身にしみる。ふと目を先に向ければ、これから登る急峻な寒江山が迫り、振り返れば、下ってきた以東岳からの道が見える。この長い道を歩いてここまできた、そんな単純なことに感動を覚える。その先には月山、そして出羽富士といわれる鳥海山の裾野が、海へ伸びているのが見える。山国である山形を代表する名山の数々。
目を東に向ければ、山形の街並。それを見おろす蔵王の山なみ。雁戸や山形神室、その脇には大東岳。雲海から頭だけを出す白鷹山。どの山も過去に登った懐かしい山たちだ。さらに目を西に向けると日本海。湾曲する海岸線に接して光っているのは酒田港だ。その先に粟島が細長く横たわり、佐渡ヶ島は海の上に浮かぶ。この日は何もさえぎるもはなく、視界は届く限り見ることができる。登山家岩崎元郎もこの山に魅せられた一人だ。その著書『ぼくの新日本百名山』で、主峰大朝日岳から以東岳の縦走がいかに困難な山歩きであるか述べている。年齢を重ねて縦走を止め、朝日鉱泉から大朝日岳の日帰り登頂を試みたが何と14時間の難渋登山となったことも書いている。我々の山行日程3泊4日に余裕があったこと、その間天候の恵まれた僥倖が、この縦走を可能したことを忘れてはならない。
山小屋の泊りも縦走の楽しみを増やしてくれる。山の端に落ちていく夕陽、その日の好天を約束してれる朝焼けとご来光。夜の星は空から降るように大きい。眠りに入る前に、バーナーを置く台に集まって、小屋の食事の楽しさも格別である。限られた容量のザックだが、少量のウィスキーや焼酎を皆が偲ばせて来る。ザックの軽量化のために、湯で入れて食べられるものが主流だが、小まめに調べて常温保存できる肉やソーセージを持参された人もいた。きつい山道を助け合って登ってくるうちに、心が解け合い、夕食のひとときは特別に楽しい時間になる。
夕焼けに魅せられ、ご来光に勇気をもらった三日目。いよいよ、この縦走を完結する日だ。夜中に雨が来たものの、快晴の朝日が清々しい。5時45分に小屋を出て、やや登ったところが三方境。小屋の屋根が見えるあたりで記念の集合写真。ここは西川町と鶴岡市と新潟の三方面への山道が集まっている。我々が目指す大朝日岳の道には、北寒江山(1658)、寒江山(1694)、龍門山(1688)がある。それぞれの山は、それほど体力消耗する登りではないが、下りはそれなりに急坂が続く。龍門小屋の前に水場あるホースから水が出放しになってバケツが置かれている。日が高くなるにつれて、夏の陽ざしがふりそそぐ。身体から汗が吹き出し、熱中症が頭をよぎる。そんな午前の時間だが、龍門小屋の水はありがたい。
振り返ると寒江山にくっきりと見える登山道。その向うにには、どっしりと以東岳が控えている。あの道を遥々と下りて来たのだ。細い道だが、この道を下刈りしながら整備する作業が毎年続けられている故にこの歩きやすい道になっている。どれほどの人数の人々がその作業にあたるのか知らないが、その労苦が思いやられる。ここで昼食となる。カロリーメイトやビスケットなど、持ちやすい行動食で当面の腹を持たせる。
西朝日岳にきていよいよ大朝日岳の尖りが見えてきた。手前の中岳は、頂上を踏まず、中腹をトラバースする。いよいよ、この縦走の主目的は指呼の間だ。目を足元に向ける。花の終わったミネウスユキソウが山道のわきに見える。ひと月ほど早くくれば、エーデルワイスの大群落が見られるはずだ。この花を実見した深田の言葉を借りれば「小さな星形の真っ白なフランネルでできたような高貴な花」だが、その群落はその時代から咲き続けているらしい。今みえるのは、咲き終わりのニッコウキスゲ、見事な色のハクサンフウロ、ミヤマナデシコにトリカブトの紫が混じっている。できれば7月の花の季節の訪ねてみたいが、もう実現は難しいかもしれない。
中岳を過ぎて、山頂小屋が見えてくると銀玉水と名付けられた水場への岐れ道がある。そこへザックを置き、サブザックに空の水筒をいれて今夜、小屋で使う水を汲みに行く。山頂小屋には売店ももちろん水もない。山頂小屋に着いたのは4時。ザックを置いて、サブザックに水筒を入れて大朝日岳の山頂へ向かう。ザックを置いて身軽になった上に、目的がすぐそこに迫っているので一行の足取りは軽い。東の方からガスが湧いてきたが、頂上に着くころにはまた周囲の山並みが圧倒的な迫力である。連峰の南端、祝瓶山の秀麗な三角錐が美しい。その景観に、途中の疲れも苦しさも、もはや忘却の彼方である。一行のどの顔も達成の喜びに満ちていた。