常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

歩くよろこび

2021年08月15日 | 日記
雨が止んで、少し晴れ間も見えてきた。気温はまだ低く、10月ころの気温だ。ツメクサの咲く散歩道を歩くのが楽しい。生活に歩くのを取り入れてから、30年以上が経つ。歩きに関する本を手当たり次第に買った。歩き始めは、毎日続けるにはどうすればよいか。モチベーションをどう保つか。そのために、ウォーキングに関わる本が目につくとすぐに買った。本棚には、歩きに関する本がまだ数十冊が眠っている。

『人はなぜ道に迷うか』山口裕一、『遊々ウォーキング』真鍋博、『医師がすすめるウォーキング』泉嗣彦、『歩く本』伊藤幸司、『デジカメ自然観察の方法』海野和男、『すきっ腹ウォーキング』片岡幸雄、『ウォーキング万歳』、『百歳まで歩く』田中尚喜、『散歩学のすすめ』松永伍一、『ウォーキングの科学』能勢博などなど、数えたてれば切りがない。変わり種に、『アメリカインディアンの教え』というのもある。加藤諦三といえば、ラジオの「テレフォン人生相談」で長年にわたりわたりパーソナリティを勤める心理学者だ。若い時代には、この時間が面白く、11時になるとラジオのスィッチをつけたものだ。今でもラジオで、変わらない声が流れると当時のことが懐かしく思い出される。

加藤はアリゾナのインディアンが60㌔離れたトウモロコシ畑まで、朝走って行って耕し、夕方走って帰って来ると紹介したあと、こんな大事な話を書いている。
「よく疲れるから歩かない、疲れるから走らないといいますが、それは逆のこともいえます。つまり、歩かないから疲れる、走らないから疲れるのです。毎日少しずつでも歩き始めてみれば、自分がどんどん疲れなくなることが分かります。歩けば歩くほど疲れないで歩けるようになるのです。大切なことは歩き続けることです。」

もう何十年も前に読んで、眠っていた言葉に出会うことは貴重である。年だから疲れる、と最近しばしば思うようになった。そう言えば最近少し歩きが減っていた。少し歩きの距離を延ばしてみると、疲れない自分に思いがけず出会った。そして、本のこんな言葉にまた励まされる。

もう一つ、大事な「アメリカインディアンの教え」が書いてある。「身体を動かすと心がきれいにされる」ということだ。身体を動かすことは、心の傷を癒してくれる。学ぶべきは、身体を動かすこと、つまり歩く、走る、戸外で遊ぶ、そして姿勢を正すことで、憂鬱を払い、充実したきれいな心が手に入る。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バジルの花

2021年08月14日 | 
梅雨どきのような前線が、日本の上空に停滞して、時ならぬ大雨を降らしている。またしても、九州などの西日本に線状降水帯が出現して、川の氾濫など被害が出ている。今までの暑さが何処かへ行ってしまって、夜は夏掛けでも寒く感じる。コロナの感染爆発に加えて、大雨の洪水。この地球は、人間が生きにくくなってしまった。環境破壊を考えずにおしすすめてきた経済優先のつけがここにきて危機を作りだしている。

そんな心配をよそに、ベランダに撒いたバジルが、大きくなり食卓を彩るとともに可憐な花をさかせた。あの暑い日照りや吹くつける突風に耐えて、けなげで可憐な花である。花の咲いている先端を摘んで、水にさして食卓に置いた。バジルの芳香が食卓に漂い、気持ちを穏やかにしてくれる。トマトサラダや肉料理のトッピングにしても重宝する。

中国の故事成語に「解語の花」というのがある。唐の玄宗皇帝が楊貴妃などを従えて、庭の池に咲く蓮の花を愛でたときのことだ。玄宗は蓮の花に見入るお付きのもの向かって、「蓮の花も美しいが、ここにいる解語の花には敵うまい」と言いながら楊貴妃を指した。花顔、花のかんばせという言葉もあるが、楊貴妃を言葉を解す花と譬えたのだ。

玄宗は楊貴妃を寵愛するあまり、その親戚である楊国忠を宰相に地位につけた。その上、楊貴妃が気に入った異民族の安禄山に、辺境守備軍を統率する地位を多く与えたため、軍事力を手中にした。この安禄山が、辺境守備軍をつかっていわゆる安禄山の乱が起きた。この戦のなかで、怨みをかっていた楊国忠は近衛兵によって殺され、楊貴妃を自らの手にかけて殺さねば生き延びられない玄宗であった。「解語の花」とは、繁栄のただ中に咲いたあだ花であった
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あっけらかん

2021年08月13日 | 登山
もう40年も昔の話だが、上の娘が東京の学校へ入学した。様子を見がてら上京して、友人に会って応援を依頼しながら娘を紹介したことがある。上京して間もない娘と話しを聞いた友人が、「ずいぶんあっけらかんとした娘だね」と感想を述べた。その意味を十分に理解できず、無頓着で気が利かない、という意味も含んでいるように感じて、「うん田舎育ちだからね」と返事した。この友人は女子大で教鞭をとって、同じ年ごろの子をたくさんみている人であったから、少し気になって後で辞書にあたって意味を調べてみた。

「何もせずぼんやりとしていることや、物事にこだわらずけろっとしているさま」と、辞書にはあった。なるほど、東京へ出て学校へ入る子たちは、環境に馴れるため、対人関係などで気を使うことが多いであろう。天真爛漫で何も心配していない様子に見えたのかも知れない、と納得したものだ。「あっけ」とは口を開く様子を示している。幼児に「お口をあっけして」などと使うが、呆気にとられるて、口が塞がらない驚きを示す様子の言葉でもある。

庄内の海岸にも五百羅漢像が鎮座しているが、五百のうち一、二体は、驚いて口を開けたままの羅漢だあるという。ある古語の先生は、「呆気羅漢」があっけらかんの語源ではないか、という説を主張している。あまりの驚きで口をふさぐこともできないでは、他人への気配りもできよう筈はない。わが家の娘はあれから40年も経っても、「三つ子の魂百まで」の通り、いまだに人さまの気遣いなど一向に気にもかけず、あっけらかん、として日々を過ごしている
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

縄文の名残り

2021年08月12日 | 日記
先ごろ、北東北と北海道の縄文遺跡群がユネスコの世界文化遺産に登録された。特別史跡である青森の山内丸山遺跡を含む、広範な縄文遺跡が登録されたことは、ビッグニュースだ。私の生まれた北海道には、神居古潭のストンサークルがあり、ジャガイモを作付けした畑から、矢じりに使用されたと思われる黒曜石の破片を見るのは珍しいことでもなかった。石狩川を遡上する鮭を漁り、ムカシシカやナウマンゾウなどの獣を捕獲する狩猟生活は、縄文以前からここに住む先住の人種の間で行われたきたものであろう。

縄文から弥生は、人類の歴史の大きな転換点である。狩猟採集により山野を移動しながら生きてきた縄文人にとっては、狩猟が運に左右されることは多分にある。神の恵みとして食物を得るという意識は強いものであったであろう。定住して米を作り、家畜を飼育する弥生時代になると、野良に出て一日作物の成長を確認する生活は、計画的で合理的な考えで生きるようになる。土器一つとって見ても、縄文の土器は実用に加え呪術的な装飾性が強い特徴を有している。一方の弥生式土器は、使用目的にあった単純な型式になっている。

最近、農作物の獣害が農家の大問題になっている。出荷直前の果実がイノシシやクマ、サルなどの食害にあっている。対抗手段として、箱型の罠が近くの果樹畑のある所に仕掛け、生け捕りにしている例も多い。縄文の頃は、防御というより野生の動物の通り道に落とし穴を作り、一たん落ちると逃げることできない工夫が凝らされていた。生け捕りは、イノシシの子であるウリボウを獲り、飼育の始まりでもあった。土器を手に入れた人類は、ここに獣肉、山菜、キノコなど手に入れられるものを全て入れたなべ物の食事が主流になる。これから、山形市の川辺では、鍋と食材を持って集まり、自然の石でつくったカマドで芋煮が行われる。これも、縄文の暮らしの名残りが、今日に生き残っている例である。

黒曜石は火山岩の一種で、マグマが噴出して急激に冷やされてできる。そのため、どこにでもあるというものではなく産地は特定される。割ると鋭い破断面が出てくる。先史時代から矢じりやナイフなどの石器として世界中で使われた。日本の産地では北海道の遠軽、長野県和田峠、伊豆天城、箱根などで山地で海水に接しているところで良質の石が産出される。狩猟生活をしている先史時代の人々には非常に重宝されて、この石器の交易が極めて広範囲で行われていたことが、考古学の研究によって明らかになっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブナとヤマユリ 翁山

2021年08月08日 | 登山
尾花沢と宮城県加美町との県境にある翁山(1075m)は伝説の山である。翁山小屋近くの登山道に「白髪の翁と白鹿に会えましたか?」看板が下山してくる登山者に問いかけている。この山は、昔は宝寿峰と呼ばれていた。ある男が珍しい白鹿を見かけ、この鹿を捕らえようと弓に矢をつがえ射ようとした。するとそこへ現れたのは、白髪の翁だ。「待たれい。わしは春日明神に仕えるもの。全て生きものの命は尊い。この地では無用の殺生しないよう、また神仏のありがたさを万民に知ってもらうためこの地に来た」というと、白鹿と翁は忽然と姿を消した。こことがあってから、人々はこの山を翁山と呼ぶようになった。これが翁山に伝わる伝説である。

連日の猛暑で、山も気温が上がるのでは、と心配しながら朝8時に登山口にきた。翁山小屋がその起点となるが、高橋集落からここまでの林道が、流水に削られた悪路である。小屋までの距離を考えると、悪路もがまんするしかない。登山道に入ると、霧のような雲が垂れこめて、熱暑がまったくない。時折り吹いてくる風に押されるように登山道を進む。ブナの緑が美しい。これで春から何度目のブナ林だろう。見るたびに、その濃度に変化があり、いつも新鮮だ。
特に豪雪の尾花沢でブナ林がブナが反映する。雪に弱い樹種が姿を消し、林床に笹の映える単純林となっていく。結果、夏に木陰の多いブナの樹林が形成される。

登山口から2時間弱、きれいに下刈りされた歩きやすい登山道を登っていく。今日の山行には、新しく会に入った新人が二人、初めてご一緒した。若いTさんと平均年齢のAさん、新人とはいえ登山歴は十分なお二人。足取りも軽々と登られる。会にまた新しい個性が加わって、さらなる活性化が期待される
ブナ林を抜けると、翁山の頂上が見えてきた。登り初めて1時間半、涼しい山中のため、身体も足も疲労は感じない。10時42分、頂上に着く。祠があり、里の五穀豊穣を司るご神体が祀られている。祠から見晴らしのきく頂上へ。霧が一部上がって、登山口やその前の集落が見えてきた。ここで記念撮影。真夏の標高の低い登山にしては、酷暑の街から涼を求めるには十分であった。帰路はヤマユリの群生が風にゆれる黒倉山への稜線を歩く。やや花は終わりかけているが、たくさんの花をつけたユリが、稜線を彩っている。何度も来た仲間は、ユリは減少傾向だといういう。株立ちしたヤマユリが何十もの花をつけ、種類も車ユリなど数種があったとのこと。だが、山の花が少なくなってくるこの時期、これだけの多くのヤマユリの花に癒される時間は貴重だ。

黒倉山との鞍部から、登山口の翁山小屋への道を取る。ここからはロープを張った急坂。歩幅を小さく、重心を後ろにとって下る。道は多少滑りやすいが、安全のためのロープあって下りやすい。一時間ほど下って山中の木陰で昼食となる。登山口には11時30分。帰路、担当のSさんの尾花沢の実家で、冷やした大きなスイカを割ってお・も・て・な・し。その味は、燕岳の合戦小屋で食べたもの数倍、その量はお腹がいっぱいになるほど。山登りで涼をむさぼり、下りてスイカで喉を潤す、最高の一日になった。本日の参加者、13名、内男性3名、新人2名。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする