東福寺のそばを通る「東大路」を、三十三間堂のある七条方向へ、北に上がると、大きな樟が聳える神社があります。「新熊野神社」です。新熊野と書いて「いまくまの」と呼びます。
ミモロは、以前に泉涌寺に行った帰りに、ちょっと足を伸ばして、お詣りに向かいました。
京都には、熊野と付く神社が、3つあります。聖護院のそばにある「熊野神社」、新島襄の墓所のそばにある「熊野若王子神社」、そしてこの「新熊野神社」です。
世界文化遺産の「紀伊山地の霊場と参詣道」で登録された「熊野三山」。平安時代、神仏習合思想の影響から、もともと別々の起源により信仰を集めていた、熊野本宮社大社、熊野速玉大社、熊野那智大社がまとめて、一体のものとして信仰されるようになりました。
平安時代、貴族の間で、なぜか熊野詣が大流行。初めて熊野詣をしたのは、延喜7年(907)の宇多法皇、そして花山法皇と続きます。寛治4年(1090)に初めていらした白河上皇は、それから8回。その孫の鳥羽上皇は、21回。永暦元年(1160)に34歳で初熊野体験をした後白河上皇は、なんと生涯で34回も。天皇としての在位期間は、わずか3年、31歳で、二条天皇に、譲位します。65歳で崩御されますから、34歳から34回ということは、毎年1~2回、熊野にお出かけになった計算。それでも満足できなかったのか、熊野詣大好きな後白河上皇は、住まいのあった法住寺の鎮守寺として、1164年に、三十三間堂造営を平清盛親子に命じ、さらに、さすがに熊野までは、遠く、行きたくても、簡単に行けないことから、鎮守社として創建したのが、この「新熊野神社」です。その後、長い間、京都の熊野信仰の中心地だったそう。
ちなみに、熊野若王子神社は、後白河上皇により、永観堂の鎮守社として創建されたもの。
「ホント、後白河上皇って、熊野神社が大好きだったんだねぇー」と、ミモロは、NHKの大河ドラマの「平清盛」での後白河上皇役の松田翔太さんの顔を浮かべます。「ドラマでは、熊野詣をそんなにやってなかったよー」と。確かに、あんまり出てこなかったかも…。まぁ、ドラマですから…。
しかし、「新熊野神社」は、応仁の乱で焼失、その後は、かなり荒れたようですが、江戸時代初期に徳川家から後水尾天皇の中宮となった、東福門院和子(秀忠と江の娘さん)により再興。現在の本殿は、後水尾天皇の皇子、聖護院宮道寛親王によって、寛文13年(1673)に修復されたもの。
熊野造りという建築様式で、京都市重要文化財です。ちなみに、やはり応仁の乱で焼失した、聖護院にある熊野神社も、道寛親王が再興しています。
「白河法皇や後白河上皇の時代って、ホント複雑…。昔は、奥さんの数も多く、子供もたくさんいて、人間関係がメチャクチャ複雑…みんなの思惑っていうの…それが、絡み合って…もう、わかんなくなっちゃうー」と、いつもこの時代のことになると、頭を抱えるミモロでした。
京都の歴史を見て行くと、後白河上皇、後水尾上皇のふたりがよく登場します。お二人とも、早めに譲位なさって、平家や徳川家の経済力をバックに、さまざまなことをなさったから…。また、それに加えて、お二人とも、天皇家では、ご長寿でした。「やっぱり長生きすると、いろいろできるんだねぇー」と。
さて、話を、神社に戻しましょう。
境内を歩き回ったミモロ・・・「あれー熊野古道だってー」
本殿の北側の小高いところに、熊野詣ができるようになっています。
ポイントには、
八咫烏や滝尻王子などのオブジェが。
実際は、かなり巡るのが大変な熊野古道も、ここなら手軽に…その気分が味わえます。
最後は、「花の窟(いわと)」へ。
「なるほど~神社ののぼりの意味がわかったー!」
さて、この神社の入口に聳える樟(クスノキ)は、なんと樹齢900年とか。紀州熊野から運ばれた、後白河上皇お手植えの樟だそう。現在は、ご神木で、「樟大権現」として、長寿、病気平癒と共に、お腹の神さまとして信仰を集めています。
ミモロ、しっかりお詣りしないとー、食べ過ぎ予防にいいかも…。「予防じゃなくて、食べても、お腹壊さないように、お願いするんだもん…」と、熱心にお願いを…。
「新熊野神社」創建には、本場、熊野から、この樟だけなく、石や木材なども運んだというから、本格的です。
また、「新熊野神社」は、室町時代、能の世阿弥が、若い頃、興行を行ったところで、「能楽発祥の地」と言われます。
「今は、それほど大きな神社じゃないけど、盛りだくさんの内容って感じだったねぇーフ~」と、ミモロ。
さすが、歴史ある神社です。
帰り道…なにかブツブツ言っているミモロ…「ねぇ、なんで猫野神社ってないんだろ?」
*「新熊野神社」の詳しい情報は、ホームぺージで…
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