今日の中日新聞の『座視』に、拓殖大学の渡辺利夫学長が尖閣諸島の問題で、「かくも恬然たる政権の対応に深い無力感を抱かずにはおられない」と書いていた。そして論説は、「外交とは武器を用いない戦争である」と古くから言われている指摘する。外交の基本は「隙を見せれば突く、退けば押す、というのは人間関係では不徳義であろうが、国家間や民族間においてはむしろ常套である」と述べ、続けて「国際関係とは今日でもなおエスノセントリズム(自民族中心主義)が第一義であり、友好や善隣や友愛は第一義を促すための手段に過ぎない」と説いていた。
確かに、国民の多くが共有する認識だと思う。私の友人もそしてこのブログを読んでくださっている人の多くもそう考えている。私も現職の外務大臣とか総理大臣であれば、間違いなくこのような立場で答弁するだろう。私は正直でありたいと思っているけれど、政治家ももちろん正直であるべきだとは思っているけれど、何もかもでなくてもよいと思っている。嘘をつく必要はないけれど、一人の市民ではない国の指導者はストレートな表現が時には取り返しのつかない事態を生む場合だってあるから、そこはよく考えた言い回しになってやむを得ないだろう。
私ごときものが大学の学長の論説に異議を唱えることではないけれど、そして外交の基本は国益を守ることであることに反対するわけではないけれど、それでもそんな古代ギリシア以来のやり方をいつまで続けていけばいいのかと疑問を抱いてしまう。しかも、核爆弾という人類を滅亡させるに足りる兵器を持ち、資源は枯渇する一方にあり、地球規模の環境汚染が広がっている。つまり、第2次世界大戦以前とは大きく異なる時代に入っているのに、以前と同じように自民族中心主義でよいのだろうか。
私は日本人のあいまい性が好きだ。国民を戦争に駆り立てながら、責任を取らなかった軍人や政治家を情けない人たちだと思って生きてきたけれど、何事もキチンと決めてしまわない民族性も利点なのかもしれないと考えるようになった。日本人の島国という狭さがもたらした共同体意識が子どもの頃から嫌いだったけれど、束縛性が強くなければそれもまた気持ちよい生活につながるものだと思うようになった。外国のものを何でも進んで取り入れて自分のものにしてしまう日本人の能力は凄いものがある。仏教に象徴される東洋哲学は、日本で結実されたものだ。
これからの国際社会がどのようになっていくのか、私にはわからないけれど、少なくとも日本人のあいまい性や隣人への思いやりや人生の悟りが国際社会の基本になっていくのではないだろうかと思っている。学長も「隙を見せれば突く、退けば押す、というのは人間関係では不徳義」と認めている。だから、自民族中心主義から脱皮する必要があるし、そのような時代の中心的な考え方に、あいまい性や思いやりや悟りが大きく作用するのではないだろうか、そう密かに期待している。
確かに、国民の多くが共有する認識だと思う。私の友人もそしてこのブログを読んでくださっている人の多くもそう考えている。私も現職の外務大臣とか総理大臣であれば、間違いなくこのような立場で答弁するだろう。私は正直でありたいと思っているけれど、政治家ももちろん正直であるべきだとは思っているけれど、何もかもでなくてもよいと思っている。嘘をつく必要はないけれど、一人の市民ではない国の指導者はストレートな表現が時には取り返しのつかない事態を生む場合だってあるから、そこはよく考えた言い回しになってやむを得ないだろう。
私ごときものが大学の学長の論説に異議を唱えることではないけれど、そして外交の基本は国益を守ることであることに反対するわけではないけれど、それでもそんな古代ギリシア以来のやり方をいつまで続けていけばいいのかと疑問を抱いてしまう。しかも、核爆弾という人類を滅亡させるに足りる兵器を持ち、資源は枯渇する一方にあり、地球規模の環境汚染が広がっている。つまり、第2次世界大戦以前とは大きく異なる時代に入っているのに、以前と同じように自民族中心主義でよいのだろうか。
私は日本人のあいまい性が好きだ。国民を戦争に駆り立てながら、責任を取らなかった軍人や政治家を情けない人たちだと思って生きてきたけれど、何事もキチンと決めてしまわない民族性も利点なのかもしれないと考えるようになった。日本人の島国という狭さがもたらした共同体意識が子どもの頃から嫌いだったけれど、束縛性が強くなければそれもまた気持ちよい生活につながるものだと思うようになった。外国のものを何でも進んで取り入れて自分のものにしてしまう日本人の能力は凄いものがある。仏教に象徴される東洋哲学は、日本で結実されたものだ。
これからの国際社会がどのようになっていくのか、私にはわからないけれど、少なくとも日本人のあいまい性や隣人への思いやりや人生の悟りが国際社会の基本になっていくのではないだろうかと思っている。学長も「隙を見せれば突く、退けば押す、というのは人間関係では不徳義」と認めている。だから、自民族中心主義から脱皮する必要があるし、そのような時代の中心的な考え方に、あいまい性や思いやりや悟りが大きく作用するのではないだろうか、そう密かに期待している。