友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

小説家志望

2010年10月30日 19時47分07秒 | Weblog
 大型の台風14号は、この地方ではほとんど風もなく、通り過ぎていった。我が家から次女が今朝、茨城へと帰っていった。次女が台風を連れて行ってくれたのかと思ったけれど、すると向こうは嵐になっていないかと心配になった。「もう家に着いた頃かな?」とカミさんに聞くと、「ダンナが迎えにきてくれたとメールが来たわよ」と言う。そうかそれならばよかった。次女はホントに些細なことからすぐにとげとげしくなるところがある。優しさが彼女の取り柄なのだからもう少し鷹揚な心を育てて欲しいと私は願っている。

 次女だけでなく、私のブログを読んで、「これは私のことだ」と思った人から、「こんなことは言っていない」と怒られたことがある。誰がどう言ったとは特定できないように気をつけて書いているし、多少知っている人なら分かることなら、決してその人が傷つくようなことのないように書いている。中学からの友だちが、「もう少し、自分が出てもいいのではないか」とアドバイスをもらったので、「私」がどう思っているか、「私」がどう感じているか、という「私」だけははっきり自分のことですと言い切れるようにしている。他の人の言葉は、「私」へたどり着くために登場させているところもある。

 「毎日、よく書けるね。小説でも書いたら」と冗談で褒めてくれる人もいるけれど、どうも高校時代のことがトラウマになっていて、物語は書けない。文芸部の機関誌に短い小説を書いた。父親は「なかなかいいね」と言ってくれたけれど、顧問の先生からは「こんな自分勝手な独りよがりはダメだ」と酷評だった。やはり自分は見たものを書く新聞記事の方が向いているのかと思った。それに文芸部には私が太刀打ちできないと思う奴がいたこともあり、彼が物書きになれないならば私などはとても無理だと思ってきた。いつか、新聞か雑誌に彼の名前が出てくるだろうと期待していたけれど、未だに名前は出てこない。今はどうしているのだろう。

 65歳の男が自分の娘と変わらない歳の女と房事の最中に亡くなった。「情死こそ男の本望」と嘯いていた男にとっては満足な死に方だった。けれど、女は‥‥と私が物語を書きだしたなら、まず次女が「これは本当のことなのか?」と詰問してくるだろう。「小説だから」と答えても、「情死のようなことを望んでいるのか?」「そういう経験があるの?」「女の人はどういう人なの?」などと矢継ぎ早に質問してくるだろう。それに私にはその続きを構想できるだけの執筆力がない。自分のことは書けても、登場人物のいずれの人にもなりきれるだけの知識も素養もない。

 台風が過ぎ去って、明日から農作業や井戸掘り作業ができるだろうかと、そんなことに期待したり失望したり、相変わらずの生活が待っている。それでも実は最近、何か、自分の人生について分かりかけてきたことがある。それが何なのか、まだハッキリしないけれど、死ぬまでに分かればいいかと思っている。
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