友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

中日文化センターの特別講座を聞く

2010年10月14日 21時31分02秒 | Weblog
 中日文化センターで行なわれた特別講座「わたしの考える秀歌の条件」を聞きに行って来た。講師は歌人で中日歌壇の選者でもある岡井隆さん。岡井さんの人気のせいなのか、予定されていた会場が変更となった。聞くと参加者は70人になるそうだ。参加者のほとんどはわたしと同じくらいかもう少し上と思われる高齢者ばかりだ。そんな中に、私の斜め前にミニスカート姿の50代の女性がいた。若い人たちは短歌に興味を持つことはないのだろうか。参加者は実際に短歌を作っているのであろう、岡井さんの話に熱心に耳を傾け、メモを取っていた。

 しかし、席が後の方だったためか、話す内容が聞きにくい。岡井さんは昭和3年生まれと言うから82歳。私が通った短歌教室の先生もおそらく同じくらいの歳だった。やはり人は80歳を越すと声に力が無くなるのだろうか。岡井さんが冗談のつもりで話す小声が何を言っているのか分からない。それとも、短歌の世界に身を置いている人にはよく分かる話だったのだろうか。私の周りを見る限りでは、コックリコックリやっている人が結構いたから、退屈というよりも聞きづらかったと思う。それと、「秀歌とは何か」という主題についても、極論を言えば、絶対的な定義は難しいということだ。

 岡井さんは歌人の玉城徹さんと河野裕子さんの歌を取り上げて、解説してくださった。玉城さんの「いづこにも貧しき路がよこたはり神の遊びのごとく白梅」は、終戦後の貧しい路、それは人の歩いてきた道でもある、そこに神様が遊んでいるように白梅が咲いているという情景を詠んだものだと話す。玉城さんの作品の多くはこうした情景を真っ直ぐに詠ったものが多いそうだ。そこには1千年も2千年も変わらないものがある。「アララギ」の歌人が目指してきたものである。

 これに対比して、河野裕子さんの「あをぞらがぞろぞろ身体に入り来てそら見ろ家中あをぞらだらけ」とか「君は今小さき水たまりをまたぎしかわが磨く匙のふと暗みたり」の作品を取り上げる。河野さんの短歌はいろんなものをいっぱい詰め込んでいるばかりか、言葉の使い方もストレートではないが、その時その時の捉えている思いがよく分かると。そんな話を聞いていると、短歌が時には純粋に美を求め、時には生活に根ざした思いに重点を置き、揺れ動いてきたのだなと思った。

 話が聞きづらかったこともあり、眠気に襲われていたが、ふと斜め前を見ていて目が覚めた。そこで浮んだ2句。
  「靴を脱ぎ白き足指からませて 岡井隆の短歌論聞く」
  「教室の隣の女(ひと)はおもむろに スカートまくり太ももを掻く」
 お粗末でした。
コメント
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