震災7年8月13日
日本には数々の神社仏閣があります。そして、それぞれは、なにがしかの役割を担っています。そんな中で、先日ふと、気づいた事があります。
今まではご神体はどこにあるのかなとか、神様はどこにいるのかなと、考えていましたが、神道とは、周りに充ち満ちている自然そのものが神であり、神社はその入り口に過ぎないということです。神社というものは、人と自然が交わるプラットホームのようなものであり、そこに自然のエネルギーが集まり満ちているのだと考えると、合点がいきます。
そこへ行くことは、神社という場所を通して人が自然と交わることに気づくことです。 鳥居をくぐり神殿に向かいます。そして、合掌礼拝をします。そうすることで、自然と一体となる神聖な場所なんです。
宗教には具体物であるプラットホームが必要です。キリストや釈迦やマホメットなどの聖人を窓口としてその後ろに本質があるのです。その本質が大切なのですが、具体物を拝む事ですましてしまっていることが現実に多いように思います。
神社の前で手を合わせることは自然と一体になることです。周りに充ち満ちている自然と一体となりそのエネルギーを受けて自分も自然にとけ込むのです。
仏教が個人の苦悩に焦点を当て、そこから神を考えようとするのに対して、神道は逆に大局から個人や自然を俯瞰します。自然と切っても切り離せないのが、神道です。
私的には自然を支配している大きな力、すなわち自然の摂理が神となります。自然の摂理を大なる神とあがめ、その中にある小なる神が宇宙から与えられた自らの分け前である自分です。自分で生きているようで、実は大いなる神に生かされている存在です。そのことを知ることにより、人は謙虚になり、神に畏敬の念をいだくようになるのです。
さて、神社は仏教が伝来する以前から各地にありました。人が誕生して以来、人は自然という環境の中で生きて来ました。死者には花を手向けたり、生前使用していた物を一緒に葬ったりして来ました。自然の恩恵や恐怖を数々受けて今日があるわけです。
遙か昔は人工物は何一つ無かったわけです。我以外すべて師であり、自然でした。人間よりとてつもなく大きな存在が自然だったのです。
ですから、当然、人も自然の一員だという考えになるのが、自然な流れでしょう。どうやってもかなわないものが自然だったのです。だから、畏敬の存在なのです。無機、有機を問わず地上に存在する物すべてに対してです。ですから、本来は自然と共に生活してきました。その先史と言われるその期間は人類の歴史の中でもすごく長い間でした。やれ放射能だ、アトピーだと言われ始めたのは最近の話です。
その後、人間はよりよく生きるために数々の発明発見をし、生活を利便化させて、恐ろしい自然を克服しようと考えて来ました。飛べない人間が空で鳥のように羽ばたいたり、ウランを集めて原子爆弾を作ったり抗生物質を発見し医療に使ったり、合金を作ったり、プラスチックなど自然では存在しない物もたくさん作り出しました。自然の生態系をはずれた物ができた頃から、人体に色々な問題が出てくるようにもなりました。その顕著な例がアトーピー反応です。
さて、自然の懐は本来、格段に広く大きく、とても人智では計りしれないものなのです。無限といってもいいでしょう。(宇宙まで含めれば)ですから、自然を征服というのは天に唾するようなものです。自然という懐の中での発明発見なのです。そう考えた時、人は自然の前で謙虚になれるのです。自然を凌駕するなどという奢りは絶対もってはいけないのです。人の幸せを考えたとき、自然とどう関わっていくかが大切なのです。自然という大きな枠の中での文明、文化であると謙虚にならなくてはいけません。
医療も科学も自然界に無いものを作り出してはいけないのです。最近増えているアトピーなどの奇病も病気では無く、自然の生態反応です。アレルギーといって間違いないでしょう。自然にもともと存在しない化学がいたずらをしているのでしょう。そのことを考えて治療をしないとステロイドなどで、表面は直ったように見えても、根本では直っていないので、また、再発してしまいます。
また、時を経ればすべての物は朽ちてゆくのが原則ですが、人は腐らない物を作り出しては新たな課題を作っています。本来人間には病気は無いのです。不健康な状態を作っているだけです。それを病気だと決めつけて対処療法的な治療をしています。
ですので、その状態を元に戻すのが治療なのですが、やたらと、短期間で強制的に外面だけ直そうとするからいけないのです。抗生物質などはいたちごっこでどこまで行っても、耐性菌が出てくるのが自然界の法則です。考えないといけません。無意味な開発競争をしているだけだと思います。やがて、そのことの愚かさが分かる時期が来ると思います。軍拡競争と同じです。
矛盾という言葉がありましたが、どんなものでも刺す矛と、どんなものでも守る盾がやりあったならどうでしょう。どちらかが負けるはずです。だから、矛盾しているのです。人間をもっと、全体としてとらえることが大切です。また、自然界の一員として広くとらえるのがいいと思います。個人や国家のエゴで間違えた方向に行かないように考えたいものです。
人は、科学では理解できないほど、複雑な心を持っているのです。同じものを見てもその瞬間、瞬間、違うものに見えたり違う感覚や心象を持ちます。それが、人間なのです。
どれだけ、時代が流れても、個人はゼロから生まれてゼロになって死んで行くのです。それが、自然の流れです。前提がころころ変わるから心なんです。今の代数は十進数という前提の中で考えます。その、前提が崩れたらどうなるでしょう。二進数の世界を勉強してみればよく分かります。必ず、ある前提のもとに成り立つ世界が現世です。
何とも不思議な世界が心なのです。質量がないのです。質量が無いと言えば、人間が作り出した概念の図形も形はあっても質量はありません。不思議だなといつも思っています。
形あるものはいつか壊れるのがこの世の道理ですが、質量の無いものは壊れようがありません。ですので、スピリチュアルな世界があるのでしょう。科学では計りしれない世界です。このように時間や質量や空間などが無い世界が三途の川の向こうの世界の様な気がしてなりません。
現世は物理的な物や時間の流れ空間で決まっています。時が流れれば、形ある物は壊れて土に帰って行きますが、霊魂や、心の世界はもともと形がないものですので壊れません。空間も時間も無いのですから、無の世界です。距離もありません。
テレパシーも向こうで思ったことが、瞬時に相手に伝わる世界です。時の流れのある現世からは想像はつきませんが、永遠の世界なのです。三途の川をはさんでいます。この世を去り永遠の世界に生まれるという意味もそれで合点がいきます。きっと、だから、信仰を積むとこの世のお別れから永遠の世界へ安心してゆけるのです。人は皆、形も質量もなく、混雑もありません。ただ、信仰心の無い人はそのことに気づいていないだけです。
科学の発展も今後は自然とどう共存をするかということを考えながらやっていかないと大変な事になってしまうのです。人が人であることは科学を超えて存在しているということです。人は肉体という物質を持ってこのように誕生していますが、同時にどうしても科学では解明できない心を持っているのです。これを否定してしまったら人間の尊厳はどうなるのでしょう。
科学も所詮はある側面を解明しているのに過ぎないのです。この世は三次元の世界だという空間の中で、時の流れの中に我々はいるわけですが、私はそれだけでなく、この世の中にも時を超越したものが、存在するのではないかと考えています。それが、死後の世界であり、魂の世界ではないかと最近想うようになりました。
人の肉体はいつか、滅びます。時と言う流れの中で自然現象として生き物である限り、朽ちてゆくのです。これは、生き物の宿命です。ですので、これは受け入れるしかないのです。
その後の世界はどうかということを時々この歳になると考えるのですが、多分永遠の命の世界は時間を超越してどこへでも瞬時に移動自由な世界ではないでしょうか。その世界が我々俗世界にも時々現れるのが、スピリチュアルと言われるものではないかと想います。
人間の俗世界からは常識では考えれない世界のことが時々話題になります。それが、神との交わりであり、時を超えて起こる事象ではないかと想われます。世の中にはそのことが感知できる人がいるのも事実な様です。
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