想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

伝統とは

2010年07月23日 | インポート

 伝統という言葉がありますが、私はしばらくその言葉を忘れていました。しかし、息子が高校に進学し、妻から、その学校が「伝統を汚すな。」と、いっていたと、聞き、今時まだ、そんなようなことをいっている学校があるのかな、と、半ば疑心暗鬼にきいていいましたら、やっぱどうもそうらしいのです。時代遅れの感のある言葉です。いい意味の伝統は守らなければなりませんが、また、伝統も時代と共に変化して行くものなんです。時の流れが伝統をも少しずつ変えて行きます。それが、私たちが生きて歴史上に足跡を残して行くことです。
 どうも、過去を振り返ってみますと、伝統をいう人の中に多くが、その利益を独占していた方が自分に取って得になるという損得勘定でやっている人が多かったように記憶しています。自分が歩んだ後に後足ができ、その積み重ねが伝統になっていくのです。それが、歴史でもあり、生き様でもあります。ですので、栄枯盛衰等という言葉も生まれてきます。すべては固定していません。絶えず変化しているのです。だから、人生は変化の連続、その、集積であるといえるのです。だから、どんな金持ちでも永遠に金持ちであるはずがないのです。どんな不幸も永遠に続いて行かないのです。絶えず本質は時と共に変化して行くのです。変化こそ生きているあかしであり、そのことを悟ることが本質なんです。そう考えると伝統だ伝統だといっている人が可哀想に見えて来ます。
 自分が動いて新しい伝統を作って行けばいいのです。伝統とはそういうものだと思っています。

 「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」が論語に出ていますが、昔からよく聞く言葉です。歴史はそのために学ぶのだと思っています。でも、中学生ぐらいまでは歴史の勉強が苦手で、単に暗記教科ぐらいにしか考えていませんでした。何でスポットでその年代だけを覚えなくてはならないのか。そんな思いを持っていた時期もありました。そんな私が、自分の適正も分からないまま、工業高校に入り、今思うと、その学校もやたらと伝統という言葉をよく使っていました。
 「何が伝統だ。」という思いを当時から持っていたことは確かです。伝統で縛り付け伝統の上にあぐらをかいているという思いが昔から結構ありました。だから、伝統という言葉は昔から私には縁がないなという思いが強かったように思います。
 相撲界も今、大揺れに揺れています。そうです。伝統にあぐらをかいていて、世の中の変化についていけなくなったのです。この際、大きく膿を出して、再出発をはかってもらいたいです。昼間からの取り組みをやめて、幕内は午後7時から何て話も出ています。
 また、証券市場に目をやれば、東京市場は現在昼休みが1時間半もあるですが、こんなに長く休んでいるのは、東京だけのようです。外国の市場は昼休みもなく市場が開いているところもあるやに聞いています。今後、東京も昼休みをどうするかを検討していくようです。為替市場などは24時間休みなく動いているようです。
 ところで、色々な社会の仕組みが変わって来ていますが、一番変わっていない所が、
法曹界でしょう。裁判所などは最たるものだとおもいます。それから、象牙の塔で有名な医学界、警察関係、次が教育界、金融界などと続きます。前回でも振れましたが、
冤罪などの発生はそのことと多いに関連しています。松尾芭蕉不易流行と、いう言葉がありますが、この言葉はかみしめる必要があります。俳人でありながら、世の中のことをいい当てているなと思います。

 以上蒸し暑い夏のつぶやきでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エアーポケット 落とし穴

2010年07月22日 | インポート

  落とし穴は子供の頃、よくお宮で作って遊んだ記憶がありますが、生活上にも色々な落とし穴があるようです。飛行機に乗れば、エアーポケットという落とし穴にはまることもままあるわけです。
 人間の性(さが)とすると、現在はいつでも同じ状態が続くと考えてしまいます。が、生きている以上横軸に時間の経過があるわけで、必ずそれにより同じ状態が続くことはあり得ないことです。絶えず変化しているわけです。そこを見誤ると人生の方向もおかしくなります。

 こんな事件が最近ありました。国民保険に現在は入っていないにもかかわらず、国民保険税の督促状が来ました。あれ、今は社会保険なのにどうしてなのかな、と、早速市に問い合わせをしたところ、脱退届がないから、現在は社会保険、国民保険の二つの保険に加入していることが分かりました。
 私たちは、今、便利な生活に慣れてしまっています。これにどっぷりつかっている自分の心に大きな落とし穴があったのです。便利だという延長線上にこの督促の問題も潜んでいたのでした。
 このことから、一瞬社会の制度で社会保険に加入すると同時に国民保険は自動的に抜けることになるという身勝手な論理があったのです。人生そんなに甘くなかったのだな、自分がまず、しっかりしなくてはいけないな。と、自分を戒めました。
 やはり、どんな便利な世の中になっても、自分で大地にしっかり足をついて生きて行かないと、落とし穴にはまるんだなと思いました。今後の生き方の指針にしていきたいと思いました。
 いつも、人様がやってくれるのでなく自分で切り開く人生の大切さを改めて感じた出来事でした。自分で切り開き自分で人生のベクトルを決めていくんだと意を強くしました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

緑陰

2010年07月21日 | インポート

 緑の木陰、緑陰、ふと見上げると、葉っぱの緑が目に飛び込んできた。その向こうに葉陰に揺らぐ青い空がみえた。緑っていいな。涼しそうなかんじだな、と、思わずにはいられなかった。これが、緑陰ってことだな。 

植えてから早20年近くが経過する。植えたときは背丈1m太さは1cmほどでひょろひょろしていたのを思い出すが、今ではこんなにも大きく成長してしまった。
 夏は暑いので、結構玄関口のこの木の下で色々庭仕事をやることが多い。また、サンマを焼くときもある。
 ふと、見上げたときに見た緑の美しさ、その先に葉陰に隠れながら揺れて見える青い空その混ざり具合がまた、いい。日光を通した緑の葉が特に健康そうに見えた。この下にいると本当に癒される。

「見上げれば 南京ハゼの 緑陰かな」
「見上げれば 南京ハゼの 木陰かな」の方がリズムがいいかな。
「見上げれば 南京ハゼが こちら向く」南京ハゼとの関係がいいですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

しがらみと関わり

2010年07月21日 | インポート

 退職したら、もう、しがらみのない世界で暮らしたい。と、どれだけ思っただろうか。しかし、現実、また、しがらみの世界に戻ってしまった。よくよく考えれば、人はしがらみのない世界では暮らせないのだ。しがらみと、考えるから、嫌になる。それを関わりととらえたらどうだろう。人は一生色々なものとの関わりの中で生活している。人と人との関わりの中で生活し糧を得ているのが大半だろうと思う。私も、最近このしがらみの世界に大きく足を踏み入れ生活するようになった。
 しがらみと考えれば、心が重くなる。しかし、ふれあいとか関わりととらえれば、成る程、人は一人で生きているようで常時関わりの中で生きているんだなということになる。ただ、最近は人を相手にすることが多くなった分、自然とか環境の中での自分であるという考え方少しずれてしまったなと思う。しかし、軸足はいつも、この世の中、人だけで生きているのではない。大きな自然があり、その中に人という種もいるという地球的規模でとらえていないと、いけないと反省している。
 私は昔から、父が唱えていた般若心経を毎日声に出して、一度は周りに自分を同化させ自分を無にする時間を取るように心がけてきたが、最近少し、唱えることを忘れた日があるので、ここ、1ヶ月前から、ウォーキングの中の組み体操の中に般若心経を唱えることを一緒にやるようにしている。 
 この組み体操を自分なりに考えて実践しているおかげで、腰痛もあまりなくなり、昼間の座り仕事が随分楽になったような気がする。
 結局、体のコンディションも詰まるところ、血の流れをよくすることだと思うので、この体操は歩きながら色々な部分の血の巡りをよくするのに役立っているなと思う。まあ、頭の中も同じように血の巡りが悪くなると老化が始まるので、努めて右脳から左脳まで色々な部所を使うように心がけている。いわゆるパトスとロゴスのバランスが大切である。
 「十の説教よりも一つの笑顔」という言葉もある。上のことは白日夢ととらえ、「人は毎朝生まれ変わる」できょうもリフレッシュでレッツゴー。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神のみぞ知る真実

2010年07月20日 | インポート

 袴田事件のことが気にかかった。裁判所こそ良識の府と信じていた私にとって、冤罪が心に重くのしかかるようになってきた。誤審、警察の正義など、いくつも気にかかることがあった。真実は他にあると信じつつ今の裁判官制度の中では、自分と違う判断を法という名の下にまとめねばならなかった熊本裁判官の苦悩に焦点を当てて見たかった。
 無実でありながら、冤罪をかけられたあの袴田被告と同じ苦悩を味わうこととなった。裁判員熊本さん曰く、どうして、無実を確信している俺が、死刑を宣告する判決文を書かなければならないのだろうか、憲法でいう「良心の自由」はどこに行ってしまったのだろう。明らかに、自分の意に反して判決をくださなければならないこの制度は間違っているといわざるをえない。袴田さんはもっとつらいと思う。昔は私は冤罪などほとんどなく、被告人が嘘を言っているくらいに考えていたが、最近はどうも逆のような気がする。こちらの方が事実だと確信してきた。なぜ、このような大事なことが社会で大きくとりあげられないのだろうか。不思議だ。私もこの事実に気がつかず今日まできたことが恥ずかしいと思う。
 今後、この件は注視していかなくてはならない。人権が大切といわれながらもこんな状態では末が思いやられる。もっと、真実を見つめて行かなくてはならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする