五月(ごぐわつ)
藤(ふぢ)の花(はな)の紫(むらさき)は、眞晝(まひる)の色香(いろか)朧(おぼろ)にして、白日(はくじつ)、夢(ゆめ)に見(まみ)ゆる麗人(れいじん)の面影(おもかげ)あり。憧憬(あこが)れつゝも仰(あふ)ぐものに、其(そ)の君(きみ)の通(かよ)ふらむ、高樓(たかどの)を渡(わた)す廻廊(くわいらう)は、燃立(もえた)つ躑躅(つゝじ)の空(そら)に架(かゝ)りて、宛然(さながら)虹(にじ)の醉(ゑ)へるが如(ごと)し。海(うみ)も緑(みどり)の酒(さけ)なるかな。且(か)つ見(み)る後苑(こうゑん)の牡丹花(ぼたんくわ)、赫耀(かくえう)として然(しか)も靜(しづか)なるに、唯(たゞ)一(ひと)つ繞(めぐ)り飛(と)ぶ蜂(はち)の羽音(はおと)よ、一杵(いつしよ)二杵(にしよ)ブンブンと、小(ちひ)さき黄金(きん)の鐘(かね)が鳴(な)る。疑(うたが)ふらくは、これ、龍宮(りうぐう)の正(まさ)に午(ご)の時(とき)か。
(泉鏡花「月令十二態」~青空文庫より)