(建保元年五月)九日。新日吉小五月会。上皇渡御。
(百錬抄~「新訂増補 国史大系11」)
(建保六年)五月九日。新日吉小五月会。上皇渡御御桟敷。其後御幸日吉社。
(百錬抄~「新訂増補 国史大系11」)
秦公景下野敦景競馬を勤仕の事
承安元年小五月会にて侍けるにや、秦公景、下野敦景、あはせられたりけるに、公景はまうけ上手、敦景はおひ上手なりければ、案のごとく敦景追てとりくみて、馬場末までとほりにけり。ともに興ありければ、両人めされにけり。公景はもとより院の召次所に候けり。敦景、叡感のあまりに、次日召次所に候べきよし、大宮大納言隆季卿の奉行にて仰下されけり。公景、此事をきゝて、院の中門に、主典代・庁官などが候ける中にて、「誠にや、敦景公景に地(ぢ)したりとて御所へめされ侍る也。公景に勝たらん者は、いか程のめにかあふべき」といひたりける、いと興ある申事也。
(古今著聞集~岩波・日本古典文学大系84)
(承元元年五月)九日。朝、天忽ち晴る。天明に退出す。今日、新日吉小五月。貴賤競ひ見る。車馬馳せ奔る。清貧具はらず、病気窮屈、旁々興無し。小男、入道大臣殿の御桟敷に参ぜしむ。秉燭以後に帰り来たる。当日の事、宗行之を行ふ(兼日は、頭弁)。競馬の行事、例の二人なり。刑部卿返り事、念人には所労に依りて参ぜず。或人と桟敷に於て見物。先づ、流鏑。七人乍ら的に中(あた)る。中央すこしもかたよせず、射わたりて候ひき。装束以下の事ハ、委しく記するに及ばず。競馬一番(左信久、右兼澄。持)。信久甚だ近く儲け、追ひ抜き候ひしヲ、取られて、馬二つが中に兼澄一寝。信久とかくせため候ひしかども、はたらかで末までねいりて候ひき。先づ右を召さる。両口三領。左も前に同じ。二番(信久・久清)。同じく前ヲ久清追ふ。事の外にいたしこめて、浅猿(あさまし)く見候ひしほどに、例の追ひ付きて、取り組みて融り了んぬ。先づ左を召す。両口。衣前に同じ。三番(景頼・久武)。久武両度勝と見え候ひしかども、特に定めらる。四番(助朝・兼直)。長乗り興無く、追ひ入れらる。五番(宣季・頼次)。右玄隔に追ひをくれて、不便に候ひき。左、両口三領。六番(長継・武守)。右遠く追ひて一鞭の後、口引きて、わざとすると見候き。左片口二領。七番(重列・行弘)。行弘、追ひ勝つ。一領。二番、猶面白く候ひき。其の外興無しと。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)
二十九日 丁卯。陰 (略)又当時洛中ノ事ヲ尋ネ問ハシメ御フ。去ヌル九日ニ、新日吉小五月ノ会、上皇ノ*御宇ニ(*御幸ニ)、流鏑馬已下ノ事、故ニ以テ射手等ヲ刷ハル、
多クハ西面ノ輩ノ子息ノ垂髪ナリ。各月卿雲客トシテ、之ヲ出デ立タル、即チ清綱ガ息童、其ノ役ニ従ヒテ、又峰王童ト号ク〈院ノ御寵童。西面ニ候ズ〉、箭的ニ中ラザルノ間、逐電シテ忽チ以テ出家スト〈云云〉。射手等ノ記、御覧有ルベキノ由、仰セラルノ間、懐中ヨリ之ヲ取リ出シ、御前ニ披キ置ク。是レ子息射手ニ列ナルノ*旨(*間)、申シ出サン為ニ、兼テ用意スト〈云云〉。
(略)
五番 〈左右〉 〈高遠国文〉追勝●二ヲ取リ落トサル 禄三
(略)
(吾妻鏡【承元二年五月二十九日】条~国文学研究資料館HPより)
新日吉小五月会の競馬に佐伯国文大江高遠に勝つ事
承元々年より三ヶ年があひだ、新日吉(いまひえ)小五月会に、北面下臈に随身を合せられけり。同二年の五番の乗尻(のりじり)、左兵衛尉大江高遠、右大将野宮左大臣公継下臈佐伯国文とさだめ下されけり。高遠は、馬にもしたゝかに乗(のる)うえ、大男にて強力(がうりき)のきこえありけり。国文は、小男無力の者なりければ、うたがひなく取てすてられなむずと、人々も思たりけり。高遠も傍輩にあひて、「高遠が小指と国文がかひなと、いづれがふとき」などいひけり。さる程に、打ちがひて、高遠前に立たりけるを、国文追て、やがて高遠を取落しつ。高遠落さまに、国文が馬のみづゝきを取て、ひざまづきたりけるを、国文とりもあへずおのが馬の手縄・おもがいをいしはづして、平頭を打てけり。高遠、轡を持ながら、尻居にまろびぬ。国文が馬轡もなくて走けるを、中判官親清、馬場末を守護して候けるが、その郎等たかまとの九郎、国文が馬のくびにいだきつきて、桟敷におしあてゝ留てけり。高遠むなしき轡をもちて、馬場末にありけるを、国文下人をめして、「其轡よも御用候はじ、申給らんと、江兵衛殿に申せ」といひたりければ、国文が郎等すゝみよりて、そのよしをいひければ、高遠、「すは」とて、なげすてたりけり。国文轡はげてあげてまゐりたりけり。舎人一人口に付て、禄二領給りけり。ことに叡感ありけるとぞ。かやうの時、おもがいおしはづす事は、江師記しおかれたるは、馳出して百の術ありと侍なる、其一なりとぞ。
(古今著聞集~岩波・日本古典文学大系84)
十日 天晴、
今日被遂小五月云々、念人不参、依有事恐、猶不見物、酉時許、府番長清景来、語云、日来罷居交衆不思寄之間、如御馬馳一度不見物之間、一昨日俄有催、仍昨日周章参、依雨延引了、今日結殿下左府生武宗、心中先為悦之処、不経程勝了、面目何事過之乎云々、
(略)
三番 依〔頼〕次、
敦近<勝>、 纏頭一人、 勝甚無興××被召云々、
(略)
(「明月記」建仁元年五月記断簡~「明月記研究」4号)
下野敦近禄を鞭の前に懸けて後鳥羽院の不興を蒙る事
後鳥羽院御時の競馬に、院の左番長秦頼次、府生下野敦近つかうまつりけるに、頼次が乗たる馬、鞭を打たりけるに、馬場もとへはしり帰りたりけるに、敦近勝にけり。勝負普通ならずと沙汰ありて、ほどへて敦近をめされたりけるに、保延の敦延が事を思ひ出て、禄を鞭の前にかけて、したしき物どもにむかひて、「師子にや似たる」といひたりければ、御気色あしく成て、所帯も相違してけるとかや。かやうのこと葉は、人によりていふべきなり。
(古今著聞集~岩波・日本古典文学大系84)
(建仁二年五月)九日。夜並びに今朝、甚雨。天猶陰る。新日吉小五月。兼ねての日に、催し有りと雖も、所労の由を申すの後、重ねて催し無し。又出仕する能はず。
十日。申の時許りに、雨即ち止む。今日、新日吉小五月(昨日延引)行はると云々。所労未だ快からざるに依り、出仕せず。夕来たりて九条に宿す。明日精進に依るなり。先づ八条殿に参ず。一品宮御目御悩の事、聞き驚き少なからず。此の事に依りて、日吉に御幸と。密々に具し奉らしめ給ふべし。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)