月寒は旧日本陸軍が作った街です。明治33年に歩兵第25連隊が創設され、札幌の隣の豊平町月寒に駐屯することになりました。軍都旭川を拠点とする第7師団に属していました。第7師団は多くが旭川に駐屯していましたが、野砲兵連隊(函館)とこの歩兵第25連隊だけが別でした。
歩兵第25連隊が駐屯することになったことから、北海道で最初の水道(取水源は月寒川を堰きとめた西岡水源池)が敷設されたのもこの月寒の地です。
現在では、歩兵第25連隊が駐屯していたことを示すものは少なくなっています。トップの写真は旧北部軍司令官官邸で、現在、つきさっぷ郷土資料館となっているものです。北海道大学の学生寮としても戦後から昭和59年まで使用されていました。
忠霊塔のある平和公園には、次の写真の連隊入り口にあった門が移設されています。
たぶん門が有ったところには、松の木だけが残っています。衛兵の松と呼ばれているそうです。
地下鉄東豊線を掘削するに当っては、旧陸軍の防空壕が有るのではと随分、危惧されました。また、一昨年まで鉄筋コンクリート造の爆弾に耐えるように作られた頑丈な建物も残っていました(記憶では、理科教育研究所との表札が下がっていた)が、取り壊され、現在、開発行為がなされています。
月寒は、もともと「つきさっぷ」と呼んでいましたが、これを「つきさむ」としたのは、難解な読みを嫌がった陸軍の要請であったとの説もあるようです。
歩兵第25連隊が駐屯することになったことから、北海道で最初の水道(取水源は月寒川を堰きとめた西岡水源池)が敷設されたのもこの月寒の地です。
現在では、歩兵第25連隊が駐屯していたことを示すものは少なくなっています。トップの写真は旧北部軍司令官官邸で、現在、つきさっぷ郷土資料館となっているものです。北海道大学の学生寮としても戦後から昭和59年まで使用されていました。
忠霊塔のある平和公園には、次の写真の連隊入り口にあった門が移設されています。
たぶん門が有ったところには、松の木だけが残っています。衛兵の松と呼ばれているそうです。
地下鉄東豊線を掘削するに当っては、旧陸軍の防空壕が有るのではと随分、危惧されました。また、一昨年まで鉄筋コンクリート造の爆弾に耐えるように作られた頑丈な建物も残っていました(記憶では、理科教育研究所との表札が下がっていた)が、取り壊され、現在、開発行為がなされています。
月寒は、もともと「つきさっぷ」と呼んでいましたが、これを「つきさむ」としたのは、難解な読みを嫌がった陸軍の要請であったとの説もあるようです。