11月13日(日)、群馬県郵便局訪問には半日ほど時間があったので、富岡製糸場を見に行きました。
富岡製糸場は明治5年(1872年)に官営工場として建設されました。明治政府が造った官営工場がほぼ完全な形で残っているそうです。昭和62年3月5日まで、現役で稼働していたとのことです。
入口を入ると旧管理棟が左手にあります。
ここで、入場料を払います。ガイドさんの案内があります。私もそれに従って、見学しました。
下の写真は東繭倉庫です。
木骨レンガ造りという珍しい形式です。木や基礎の石は日本のものです。さらに、レンガも日本で造られました。設計したオーギュスト・バスティアンらが、瓦造り職人に、手まねで教え、製作したそうです。フランス積みと呼ばれるレンガ積みです。目地はセメントではなく、漆喰が使われています。
この富岡市に製糸工場を建設するよう進言したのは、フランス商館に勤務していたポール・ブリュナだそうです。そして、お雇い外国人として工場建設を進めました。住まいはブリュナ館になっています。
ブリュナが去った後も、建物は利用されました。洋裁室の札が付けられています。
富岡製糸場は、明治26年、払い下げで三井財閥へ、明治35年、原合名会社に渡り、昭和14年、片倉製糸紡績(現、片倉工業)が取得します。そして、昭和62年まで大切に製糸工場として使用されています。
工場の中は、昭和62年に閉鎖されたままになっています。
上の写真の機械はプリンス製(プリンス自動車を作った会社でしょうか)だと説明がありました。柱の無い広い空間を確保するため、屋根を支える部分はトラス構造になっていました。
屋根の部分を梁で受け、両側の柱に伝えているようです。
東と西に繭倉庫があります。長い建物です。西繭倉庫です。
富岡製糸場の工場ができたのは、7月だったそうです。しかし、すぐには操業できませんでした。作業をする工女が集まらなかったそうです。理由は、外国人は工女の生き血を飲むとの噂が広まったからだとのことです。赤ワインを血と誤り、そのような噂になったそうです。初代場長の尾高惇忠の娘であった尾高ゆうや士族の娘を集め、やっと10月から操業できたそうです。ここで、仕事を覚えた工女が全国に技術を広めていったそうです。
富岡製糸場は現在、富岡市が所有しています。世界遺産登録を目指しているそうです。100年以上前に建設され、西洋技術を基に、日本的な工夫を加えたた建物がほぼそのまま、残っています。貴重な財産です。ぜひ、世界遺産に登録されてほしいです。
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