秋雨前線は相変わらず居座って、台風18号の影響を受け今日も雨となりました
9月のワンゲルの会の路地裏歩きは、東京下町の木場から深川
まだちょっとノドがイガイガしていましたが、当日のお天気は幸いうす曇り・・・
歩きたい気持ちが勝り思い切って参加してきました。
今年の夏から秋にかけては雨が多いせいか?、とにかく蒸し暑い
この日も30度を越えたようで、汗まみれになりました
江東区「夢の島公園」散策(9月28日)
昭和20年代から都民のゴミ捨て場として有名になった「夢の島」も、
60年の流れで緑が茂る市街地として発展しています。
集合はJR京葉線&りんかい線「新木場駅」に10時、お馴染みの顔が集まりました。
この日の参加者は男性9名、女性5名の合計14名。
「新木場駅」から首都高速「湾岸線」をくぐり、およそ7分で緑豊かな「夢の島公園」に入ります。
深紅の「アメリカディゴ」が迎えてくれました。
ゴミの埋立て処分地に整備された巨大な公園「夢の島公園」では、最後の「フヨウ」が咲いていて
公園中央に位置する広大な芝生には、小学生が集まっていました
熱帯植物館や五福竜丸展示館、ヨットハーバーなどなど、見所もいっぱいの公園です。
第五福竜丸展示館
最初に案内されたのが、ヨットハーバーの手前に建つ船の形に似た展示館です。
中はクーラーが効いていてホッとしました
ここには、木造のマグロ漁船「第五福竜丸」およびその付属品や関係資料が展示されています。
「第五福竜丸」は、昭和29年(1954年)3月1日に太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁で
アメリカが行った水爆実験によって被害を受け、無線長の久保山愛吉さんが亡くなりました。
当時はこのような木造船で遠くの海まで魚を求めて行ったのですね。
船尾の底部分には小さなスクリューと、木製の舵・・・
これで太平洋の赤道直下のマーシャル諸島まで航海したとは驚きです
「第五福竜丸」は、昭和22年(1947年)に和歌山県で建造され、初めはカツオ漁船として活躍し、
後にマグロ漁船に改造され遠洋漁業に出ていました。
水爆実験での被爆後は、練習船に改造されて東京水産大学で使われていましたが、
昭和42年(1967年)に廃船になったものです。
東京都は、遠洋漁業に出ていた木造漁船を実物によって知ってもらうとともに、
原水爆による惨事がふたたび起こらないようにという願いをこめて、この展示館を建設したそうです。
<昭和51年(1976)6月10日開館>
第五福竜丸だけでなく、被災した日本漁船の総数は856隻、廃棄された魚は約486トン。
ビキニ水爆被災は人々の日常生活を直撃しました。
放射能に汚染されたマグロは「原爆マグロ」と呼ばれ、その騒動は日本全国に波及
街の魚はほとんど売れなくなり、廃業する魚小売業者も出たそうです。
その年の4月以降には「日本全国で放射能雨が降った」との報道により、農産物に対する恐怖も広がりました。
私がまだ小学校の低学年の頃に聞いたこのニュース・・・
「雨に濡れると頭がはげる」と、子供同士で騒いだ事を覚えています。
日本は広島&長崎と人類で初めて被爆を経験した国です。
そしてこのビキニ環礁での漁船の被爆・・・
その上、2011年3月11日の「東日本大震災」によって引き起こされた東電福島第一原発の事故での放射能汚染・・・
放射能の恐怖は遠い昔の話しではなく、今でも続いているのです
アメリカの水爆実験の被災者は日本の漁船だけでなく、ビキニ環礁の実験場近くのマーシャル諸島の人々も・・・
その実態が知られるようになったのは、1990年代に入ってからでした。
オバマ大統領の核兵器の先制不使用宣言を支持することは被爆国としては当然ですが、
お隣の北の国が盛んに行っている原爆実験も怖いものがあります
そして「日本も核を持て」というアメリカの大統領候補のトランプ氏が選ばれたらどうなることでしょう
厳粛な気持ちになって外に出ると、第五福竜丸のエンジンが展示されていました
このリーダーの街歩きは、必ずこうした施設見学がありお勉強になりますわ。
私が10代の頃に「夢の島」の臭いと大発生したハエの被害が東京を襲いました。
TVのニュースで見た事があります。
そんな大東京のゴミ捨て場が、今では緑豊かな公園になりました
「夢の島熱帯植物館」へ
ここには焼却場で発生した熱を利用した熱帯植物館があります。
歩いて向かう途中、「パパイヤ」の花と実が生っていました。
そして大きなカボチャがたくさん転がっているのが見えてくると
夢の島「熱帯食物館」でした。こちらのご紹介は次回に続きます。
「カマキリと同居」
9月中旬から畑作業や庭仕事で忙しくしていましたので、その時私の衣服に付いてきたのか?
それとも洗濯物にくっついていたのか?
二週間ほど、このカマキリと同居していました。
蜘蛛やゴキブリは怖いけど、このまん丸目玉が何となく愛嬌がある・・・
リビングの天井近くにいたかと思うと、ダイニングテーブル横の出窓にいたり・・・
その内だんだん茶色くなってきたので、外に出してあげました。
洗面所にはおんぶバッタの姿もあって、田舎の風情の我が家です。
そんな折、taeさんのご主人からブドウと一緒に送られてきた「イナゴの佃煮」
今では高級品で「桐箱入り」で売られたりしていますが、こちらは知り合いの方の手作りとか。
美味しい味付けでしたが、イナゴの手足が同居した仲間たちを思い出して喉を通らない
結局お行儀が悪いけど、手足を取り除いて少々頂きました。
殻付き小エビの佃煮のような食感でしたわ。
イナゴの佃煮昔は結構食べていたけど
今は、イナゴの姿を見たら食べづらいですね。
味は良いんだけど。
以前信州に旅行に行ったとき、イナゴの佃煮がでてきました。
美味しそうな佃煮の色なのですが、グロテスクな感じがして結局食べれませんでした。
足や羽などを取ってとも思ったのですが、無理でした。
難しい話題を取り上げましたね。
第5福竜丸、久保山さんが亡くなった恐ろしいニュースを、
子供ながらに覚えております。
確かこの船は焼津港に入稿したのではないかと記憶の片隅にあります。
今は夢の島で保存されているのですね。
お隣の北の国が盛んに行っている原爆実験、アメリカ次期大統領候補トランプ氏の発言も恐ろしいですね。
詳しい説明を有難うございました。
相変わらず小学生の絵日記の様な稚拙極まりないマイブログですが、
覗いて頂ければ幸いです。
海から遠目に見たことはあるのですが。
植物がいっぱいのようできれいですね。
第五福竜丸があるのですか。
あのニュースはセンセーションを巻き起こしましたね。
本当に北の国の暴走が怖くなります。
イナゴの佃煮は子供の頃はたくさん食べましたが、その後は殆ど口にしていません。今も手作りする方がいらっしゃるとは!
カマキリと同居とはnao♪さんの意外な面を見たような気がします。
夢の島辺りは歩いたことがないと思います、第五福竜丸が展示保存されていることは知っていましたが何処にあるのかは知りませんでした。
ビキニ第五福竜丸事件当時は私も小学生でした、詳細は分からなかったものの「第五福竜丸」「久保山さん」の言葉は記憶残るほど強い印象でした。
「イナゴの佃煮」小学生のころ一・二度口にした事が有るように思いますが定かではありません、
それ以降現在に至るまで目にしたことは何度かありますが口に運んだことはありませんね。
恵那様はイナゴの佃煮、結構食べたのですね。
今度は東北へご旅行なさったようですね。
「山寺」編を読ませていただきました。
今から17年くらい前に、夫と車で「鳥海山&月山登山」に行きました。
その際「山寺」に寄りました。その時食べたお蕎麦が、今までの人生で一番おいしいお蕎麦でした。
私は木曾路を旅した時に出された「蜂の子」がダメでしたね。
イナゴはお米を食していると思うと食べられないことはありませんでしたが、・・・
庭や畑にはバッタの姿が多く、家の中でのカマキリを見ていたら足と羽根が喉を通りませんでした。
この惨事の後、原爆禁止運動が広がっていったようです。
第五福竜丸の船体には静岡県焼津港とクッキリ書かれていました。
展示館の説明板によると、乗組員たちは最初地元の病院に入院しましたが、
すぐに東京の東大病院と国立第一病院に移されたそうです。
国際的にも、歴史的にも、「一大事!」の出来事だったと思います。
この船は廃船になった時、夢の島に捨てられていたそうです。
それを後世に知らせるためにこの展示館が造られ、今では修学旅行などの学生が訪ねることが多いとか・・・
私もここにこの様な施設があることは知りませんでした。
時々紅さんのお部屋には伺っていますが、足跡を残さずに失礼しております。
「あのゴミの島が!」とビックリしました。
でも、すぐ近くに「第五福竜丸展示館」があることは今回行って初めて知りました。
無料で、冷房も効いていて、目の前がヨットハーバーで・・・
そんな中で、子供の頃に遭遇したセンセーショナルなニュースを思い出していました。
tonaさんは子供の頃にはイナゴの佃煮をたくさん召しあがったようですね。
カマキリは2週間ほど我が家のリビングに居て、たまに思いがけない所に姿を現しました。
あのボクサーのように前足を構える姿が印象的でした。
捕まえる時は凄い反抗姿勢で大変でしたよ。
それでも「第五福竜丸・久保山愛吉さん」の名前がインプットされているという事は一大ニュースだったと思います。
写楽さまは夢の島に第五福竜丸が保存されていることをご存じでしたか・・・
昔はイナゴの佃煮が結構出廻っていたのでしょうか?
それとも地方によってでしょうか?
私は父の転勤で両親が岡山の倉敷に住んでいた頃、時々贈答品でもらっていたのを知っていますが・・・