ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

ラクダ色の革カバン

2014-11-19 20:00:22 | 恩師
 大学に入学して最初に受けた講義は『一般社会学』だった。
 北海道の小都市にある小さな教育大学にあって最も大きな教室に、
私たち1年生だけでなく沢山の学生がいた。
私は、前方中央の席を選び、講義の始まりを待った。

 しばらくすると、
いかにも学者風でよれよれの背広にネクタイ、猫背、
その上、白髪まじりで長めのパサパサ髪をオールバックにした教授が、
静かに静かに教壇に立った。

 私は、A田先生のその立ち振る舞いを見て、
「うわぁ、大学だ。」
と心が高ぶり、ギリギリの成績ではあったが、
こうして大学という舞台にいることに、この上ない幸せを感じた。

 先生は、くたびれたラクダ色の革カバンから
2,3冊ノートを取り出し、それを机に置くと、
おもむろに白いチョークを握り、
『SOCIOLOGY』と筆記体文字で大きく黒板に書いた。

 私は、当然読めなかった。
しかし、何も見ず、
手慣れている風にスラスラとスペルを書く姿を目の前にし、
新入生の私は目を見張り、思わず「すごい。」とつぶやいていた。

 以来1年間、私はこの講義だけは一度も欠かさず聴いた。
残念なことに講義内容の多くは理解できなかったが、
専門用語の横文字を殴り書きし、その文字を指さしながら、
それでもちょっと照れくさそうに、誰とも目を合わせず、
しかし熱の入った語り口調での講義に、私は一人のぼせていた。

 だから、2年生から始まるゼミでは、
A田研究室のゼミを選択した。
「これで、毎週先生とお話ができる。」
それだけでワクワクした。

 しかし、劣等生の私だった。
専門書などどれだけ頑張っても理解不能。
そんな私でも、先生は他のゼミ生と分け隔てなく問いかけてくれた。

先生の質問に答えるどころか、
私はその質問の内容さえ分からなかった。
先生は、
「いいんだよ。塚原君、
質問が質問として理解できたら、
それはその質問の半分が分かったことになる。
頑張りなさい。」
と、私を励ましてくれた。

 風貌などは全く似てはいないのだが、
どこか父に共通するものを感じ、
私は次第に甘え上手になった。
いつ頃からか同期のゼミ生と二人で、
先生のご自宅に伺うようになった。

 夕食後、大学の近くにある平屋の質素なお住まいを訪ねると、
先生一人が出迎えてくれた。
座卓のある広い居間に通された。
いつ行っても、先生は、初めにガラスコップと箸を卓に並べ、
次に台所から、日本酒の一升びんを片手にぶらさげ、
一方の手にロースハムを10枚ほど並べた大皿を持ってきた。
 当時、ロースハムは高価なものだったが、
それを肴にお酒をいただいた。
何も分かっていない学生二人の談論風発を、
先生は穏やかな表情で聞いてくれた。

 ある時、酒の勢いで私は本音を言った。
「僕は頭が悪く、特に物覚えがダメなんです。」
先生は、すかさず
「塚原君、君が大切だと思ったこと、
それだけを覚えておけばいい。つまり決定的瞬間だけ覚えておけばいいんだ。
後は全部忘れていい。」
私を縛っていた縄が一本ほどけた。
その言葉は、今も私を支えている。

 学生運動が盛んな時代だったが、
何とか4年生になり、夏、教員採用試験を受けた。
 結果は、不合格。
それでもめげずに第2次採用試験がある首都圏の都県を受験した。
これもことごとく不合格。
お先真っ暗な時、
東京都がこの年度だけ1月末に、
第3次採用試験を都内で実施することを知った。

 最後のチャンスと、受験を申し込んだ。
ところが、私には東京へ行く旅費がなかった。
それを知った友人達が
なんとか費用の半額をカンパと称して集めてくれた。
それでも、不足分を工面するめどが立たなかった。

 学食帰り、真冬のキャンパスをうつむきながらトボトボと歩いていた。
バッタリ先生に出会った。
 「君を探していたんだ。東京の受験、頑張りたまえ。」
と、くたびれたラクダ色の革カバンから祝儀袋を取り出した。
 袋には、『祈念 A田』と黒々とあった。
旅費の半額を賄うのに十分なピン札が入っていた。

 奇跡がおこり、私は1次筆記試験に合格した。
そして、2月、第2次作文・面接試験がこれまた都内でとなった。
再び、同じ悩みが訪れた。
ところが、これまた友人達のカンパ。
そしてキャンパスの雪道で、
「君を探していた。」
と、先生から『祈念』と書かれた祝儀袋。
 私は、経験したことない幸福感を力にし、2次試験も突破した。
卒業を目の前にして、江戸川区から採用内定の知らせも頂いた。

 大学を離れる日、
こんな私なのに、沢山の後輩達が駅まで見送りにきてくれた。
 数日前、私は先生へのお礼に代えて、
よくお酒を頂いたご自宅の屋根の雪下ろしを一人でやった。
先生は姿を見せなかった。
奥様に精一杯のご挨拶をし、お別れをしてきた。

 まだストーブに火が燃えている駅だった。
若者ののりで、大声をあげ、寂しさをごまかしながら、
それでも、別れのタイミングを見計らっていた時だった。
駅舎の扉が開いた。
まさかと思った。
黒の大きめのオーバーコートに
くたびれたラクダ色の革カバンをさげ、先生が入ってきた。

 言葉を失っていた私に、
先生は、焦げ茶の中折れ帽子をとって、
いつものようにちょっと照れたような表情で、
「塚原君、虐げられた者の味方でいたまえ。」
と、右手をさしだしてくれた。
初めて先生の手を握った。

 先生が亡くなられて、20年近くになるだろうか。
先生から託された『虐げられた者の味方』と言う言葉を忘れたことはなかった。
しかし、私にはあまりにも難しいことだった。

振り返ると、教師としてあるいは人間として、
私はどちらかと言えばいつも『虐げられた者』の側で生きてきた。
いや生きようとしてきた。
だが、「味方として何ができたか。」「味方であったか。」と問われると、
私は再び大学のゼミの時間に戻り、答えに詰まってしまう。

そんな私を見て、先生はきっと、
「その言葉を忘れなかっただけでいいんだよ。」
と言ってくれるような気がする。

 私は、まだ、一度も先生のお墓参りをしていない。
それどころが、先生のお墓がどこにあるのかも分からない。

 大きな忘れ物をしたままでいる。




街路樹のナナカマドが 赤い実だけに

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