徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

青春の1ページをブログで! ~ 濟々黌水球部の記録 ~

2011-08-29 23:06:29 | 水球
 この8月から母黌水球部の歴史を辿るブログを立ち上げた。OB仲間の支援もあって始めたのだが、実はこの企画、濟々黌水球部の黄金時代を築いた名コーチ、矢賀正雄さんがまだご存命だった7年ほど前、何か目に見える形で記録を残しましょうとご相談していた企画なのである。その当時はまだブログが普及していなかったのでビデオ化を考えていた。矢賀さんはさっそくシナリオづくりに取り掛かられたが、その直後に病に倒れられ、企画は中断したまま、残念ながら矢賀さんは帰らぬ人となってしまわれた。それ以来、ず~っと気にはなっていたが、なかなか再び立ち上がる気力が湧いてこなかった。しかし、近年、諸先輩方が次々と鬼籍に入られたり、年の近いOBたちの中にも早世する人が出てきたりすると、もう時機は今しかないのではないかと思うようになった。これから記録を調べたり、OBや関係者の皆さんから情報を集めたりするのは大変だが、気長にやって行きたいと思う。近々、矢賀さんのお墓に報告に行くつもりだ。
■ブログタイトル
 Legend Of Seiseiko Water Polo Club(碧落仰げば偉なる哉 ~濟々黌水球部の記録~)
 http://swpc.exblog.jp/


武士とメレンゲ

2011-06-29 16:57:01 | 水球
 熊本には肥後細川藩時代の1700年代の初め頃から始まったと言われる「小堀流踏水術」という古式泳法が今日まで受け継がれている。川や海など水の中でも戦える武術の一つとして始められたもので、泳法としては立ち泳ぎや抜き手、浮き身などがあるが、中でも基本中の基本は立ち泳ぎだ。この立ち泳ぎの技術は、水球やシンクロナイズド・スイミングの基礎技術である「巻き足」と全く同じである。水球という競技がイギリスで始められたのは1800年代の後半で、今日と同じような基礎技術が確立したのは1800年代の終わり頃といわれているから、立ち泳ぎの泳法を覚えたのは日本の方が200年ほど早かったわけだ。この立ち泳ぎのことを英語で「トレディング・ウォーター」、通称は「エッグ・ビーター」という。「エッグ・ビーター」というのは、もともとボウルに入れたなま卵をかき混ぜる、棒の先に針金が何本も丸められたあのお馴染みの調理器具のことだ。つまり、巻き足の足のまわし方が「エッグ・ビーター」で卵をかき混ぜる動作を連想させることから、こう呼ばれるようになったらしい。その昔、小堀流踏水術の修練に励んだお侍さんたちも、300年後、その武術をメレンゲづくりの道具のように呼ばれることになるとは思ってもみなかっただろう。


輝いていた時代! ~ インターハイ連覇から50年 ~

2011-04-12 13:09:35 | 水球
 わが母黌、濟々黌の水球部が全国大会に顔を出さなくなって久しいが、今年はインターハイに連覇してからちょうど50年になる。夏休みの東京合宿を終えて、チームはインターハイの開催地、金沢に向かったが、僕ら1年生は、インターハイグループと国体グループに分けられ、僕は国体グループになったので金沢には行けなかった。金沢で優勝して凱旋したチームを熊本駅に迎えに行った日のことを鮮明に憶えている。母黌チームはなぜか、国体には運がなく、前年の地元熊本での大会に続き、この年の会津若松大会も決勝で宿敵、京都の鴨沂(おうき)高校に敗れた。しかし、当時は間違いなく、鴨沂高校と並び高校水球のトップに君臨していたことは間違いない。これ以降も、インターハイ1回、国体1回の優勝があるが、母黌水球部が最も輝いていたのは昭和36年(1961)であることは間違いないと思う。
※写真はこの年の春、恩賜記念運動会でパレード前に撮ったもの。(前列左端が僕)


USAウォーターポロ フィーチャリング “バート・ランカスター”

2011-03-16 16:49:37 | 水球
 水球専門のブログ「Water Polo Legends」で貴重なビデオを発見した。なんとあのハリウッドの大スター、バート・ランカスター(1913-1994)がホストを務める水球の教材ビデオが存在していたのだ。1964年の東京オリンピックで予選リーグ敗退という成績に終わったアメリカ水球委員会は、アメリカの水球を強化するため、水球王国のハンガリーからガボール・ナジを招聘し、この教育ビデオを作ったらしい。たしかにこの頃のアメリカの水球チームがたいしたチームじゃなかったことは、僕はこの目で見て知っている。オリンピック前には日本代表ともテストマッチをやったが、間違いなく日本の方が実力は優っていた。今日では世界のトップクラスの力を持つようになったアメリカ水球はこんな努力もやっていたわけだ。それにしても、この当時のバート・ランカスターといえば、ハリウッドからヨーロッパに活躍の場を広げていた時期。こんな全盛期のアカデミー賞俳優を教材ビデオに使うなんて、やっぱりアメリカという国はすごい!




「山猫」(1963)ルキノ・ヴィスコンティ監督
バート・ランカスターとクラウディア・カルディナーレ

ウォーターポロ レジェンド ~古荘次平~

2011-02-25 22:00:15 | 水球
 先日、「Water Polo legends」というヨーロッパのブログ(ギリシャの元水球選手が運営しているようだ)を見ていたら、古荘次平さんの写真が出てきて驚いた。古荘次平さんと言えば、1936年のベルリン・オリンピックに日本代表の水球ゴールキーパーとして出場した、いわば日本水球の祖の一人である。熊本商業から早稲田大学に進み、名もない平泳ぎの選手から水球のゴールーキーパーに転じ、猛練習を重ねてオリンピックの日本代表に登りつめた立志伝中の人だ。彼が水球のゴールキーパーとして成功した要因の一つは、熊本伝統の小堀流踏水術の心得があったからだとも言われている。水球の基本中の基本は巻き足を使ったフローティング技術。これが最初から出来ていたのは大きかったのかもしれない。ちょうど僕らが高校時代、忙しい社長業(白屋/現シロヤパリガン)の合間を縫って練習を見に来ていただいた。技術面よりも精神面のご指導をよく憶えている。古荘さんの言葉の中で一番忘れられないのは「負けて新聞記事になるようなチームになれ!」だった。

おいでませ!山口国体2011 ~山口国体1963の想い出~

2011-02-16 19:31:36 | 水球
 今年10月には山口県で二回目の国民体育大会が行なわれる。山口県での国体は僕にとって二つの意味で特別な大会。一つ目は48年前の一回目の山口国体は、僕が高校時代に参加した最後の公式試合であり想い出深い大会。そして二つ目は、かつて住んでいたこともある懐かしい土地での大会。山口市と山口県立大嶺高等学校のサイトから写真をお借りして当時の様子を振り返ってみた。僕が参加した水球競技は美祢市で行なわれ、大嶺高校のプールが試合会場となったが、この各写真とほとんど同じような光景が僕の記憶の中にも残っている。それにしても記憶の中の光景は色褪せていないが、こうして写真で見ると、なんとレトロなというか、ノスタルジックな雰囲気には驚いた。今年の秋にはなんとしても見に行きたいものだ。
山口市国体実行委員会のサイト
大嶺高校のサイト


僕らも美祢市民の皆さんから大歓迎を受けた。


まだこんな風情のある街並みが残っていた。


街中はお祭の雰囲気だった。


僕らも市民と交流した記憶がある。ちょっぴりスターになった気分。


小さな町での初めてのビッグイベント。


僕らは旅館に泊まったが、民泊も行なわれたんだなぁ!


試合会場となった大嶺高校のプール。父が見に来た最初で最後の大会。


唯一残っている僕の写真。宿舎の旅館の裏庭で。

野沢温泉の想い出

2010-05-07 20:46:21 | 水球
 5月のこの時期になると、必ず想い出すのは野沢温泉のことだ。学生時代、関東学生リーグ戦の開幕を前にして、毎年5月上旬から中旬にかけて、この野沢温泉で合宿をした。練習もきつかったが、周囲の鮮やかな緑と温泉が僕らを癒してくれた。定宿にしていたのは山田屋旅館さん。いろいろご迷惑をかけた。深夜に腹が減って我慢できなくなり、調理場に忍び込んでは飯と野沢菜をかき込んでいた。ある夜、旅館の方に見つかってしまい、こっぴどく怒られた苦い経験もある。機会があれば、ぜひもう一度、野沢温泉に行ってみたいものだ。そして、山田屋旅館さんにも、あの時のことをもう一度、謝りたいものである。

FREEDOM'S FURY(自由の復讐)

2010-04-04 23:22:00 | 水球
 「FREEDOM'S FURY」というドキュメンタリー映画がある。邦訳しにくいが、「自由の復讐」と言ったらいいのか、それとも「自由の激情」とでも言うべきか。どちらにしても、要するに1956年に起きたハンガリー動乱にまつわるドキュメンタリー映画である。ハンガリー動乱とは、ソビエト連邦軍がハンガリーに侵入し、数千人のハンガリー人が殺害され、それに対して民衆が立ち上がった革命のことである。また、その年に開催されたメルボルン夏季五輪の水球準決勝で起こったハンガリー対ソビエトの伝説的な流血戦を振り返っている。ハンガリーの国技である水球における選手たちの戦いぶりをモチーフにしながら、遂には自由を勝ちとったハンガリー讃歌とでも言ったらいいだろうか。この映画は日本公開はされていない。しかし、DVDは販売されているようだし、ほぼ全編がYouTubeにアップされている。とりあえずYouTubeで見てみた。懐かしい顔が出てきた。ジャルマティさんやカルパティさんなど、東京五輪の時にもハンガリーチームのメンバーとして来日し、競技スタッフとして働いていた僕も連日、挨拶を交わしていた人たちだ。すっかりお爺さんになってしまって・・・(こっちもそうだが)。今度はDVDを購入してじっくり見てみよう。


45年の時の流れ、変わったもの、変わらないもの

2010-03-25 18:49:38 | 水球
 あるサイト上に、2008年に埼玉で行なわれた高校総体・水球決勝戦の動画が置いてあった。僕らが大阪扇町プール(今はない)で決勝戦をやったのは1963年のことだから、この間45年を経て、何がどう変わったのか興味があり、見てみた。試合時間が長くなるなど、いくつかルールも変わっているが、一番違うのは選手たちの体格だろう。その一方、技術面ではほとんど差はない。むしろ、今の選手たちのプレーの方が、全体的に雑な感じがする。そして何よりも変わったなと感じたのは、ゴールが決まった時の派手なガッツポーズだ。僕らの頃は、そんなことをやったら、コーチにどやされたし、僕らも、得点を取っても、まるで何ごとも無かったかのように平然としているのがクールでカッコいいと思っていた。水球に限らず、最近はどんな高校スポーツでも派手なガッツポーズが当たり前になっている。中にはコーチ自らがやる奴もいる。今、メディアを賑わしている某高校野球チーム監督の「21世紀枠に負けて恥」発言は、相手に対する敬意なんか、これっぽっちもない昨今の指導者が、図らずも馬脚をあらわしたと言うべきだろう。

女子水球(Women's Water Polo)

2010-02-10 23:52:05 | 水球
 僕が現役選手の頃、と言っても最後に公式試合に出たのが28歳の時だから、もう35年も前のことだが、まだ女子の水球競技はなかった。日本ではまだ競技人口も少なく、九州にいるとほとんど競技を見る機会も無い。最近ではインターネットが普及したおかげで、海外の水球事情もよくわかるようになってきた。それによると、欧米では女子水球がオリンピックなどの世界的な大会が行なわれるようになったこともあって、男子と肩を並べるほどの人気スポーツになってきたらしい。世界的なスター選手も出てくるようになっていて、その中でもナンバーワンの呼び声が高いのが、ハンガリーのリタ・ドラーヴツ、ハンガリー式に言えば、というか日本と同じだが、ドラーヴツ・リタ選手だ。彼女はハンガリーのトップモデルでもあり、水球のトッププレーヤーでもある。近いうちに日本で世界的な大会を招致してくれないかな。なんとしても観に行くのだが。

 


リタ選手の出場した試合(白帽子7番)

第16回会津若松国体の想い出

2009-01-24 12:55:04 | 水球
 一生見ることはないだろうと思っていた映像を偶然発見した。それは今から48年前の昭和36年(1961年)に福島県の会津若松で開催された夏季国体の映像だ。この大会は僕にとって初めて参加した大きな大会だったので特に思い入れの強い大会だ。高校1年生だったので残念ながら試合出場の機会はなかったものの、大会期間中、台風に見舞われ、競技が一日延期になったり、停電で真っ暗な旅館の大広間にろうそくを立て、熊本県選手団が全員黙々と夕食をとったり、水球の視察に来られた義宮様を間近で見ることができたり、まだ水洗ではなかった旅館の深~いトイレの中に財布を落っことして大騒ぎを起こしてしまったりと沢山の想い出が残っている。以前、この大会の記録や映像・画像がないかとネットで随分調べたが、この年の秋季大会は秋田県で行われ、水泳競技だけが会津若松で行なわれたこともあってか、どこにも見当たらなかった。今回発見したのは「ふくしま教育情報データベース」というサイトの中の「県民ニュース」の1ページだった。この映像を繰り返し繰り返し見ていると、当時の想い出が鮮明に甦ってくる。
■ふくしま教育情報データベース
 http://www.db.fks.ed.jp/


【動 画】



水泳競技の開会式(メーン会場は鶴ヶ城内の会津若松市営プール)


競技開始、スタンドには鈴なりの観衆


水球会場となった会津若松市立第一中学校プール


水球競技を視察に来られた義宮様

北京オリンピック水球、ハンガリー3連覇!

2008-08-25 10:57:38 | 水球
 昨夜の午前2時過ぎ(正確には今日未明)になってやっと北京オリンピックの水球が見られた。男子決勝1試合のみしかも録画である。見逃してなるものかと眠気をこらえて頑張った。古豪ハンガリー対新勢力の旗手アメリカである。最近では世界選手権などの試合がYoutubeにアップされているので見る機会も増えたが、テレビで王者ハンガリーの試合を見るのは2001年福岡で開催された世界水泳選手権以来だ。生で見たのは1964年の東京オリンピック、1980年のハンガリー代表日本遠征の二度きりだ。ハンガリーのオリンピック3連覇がかかっていたが、アメリカとは格の違いを見せつけた。昔とはだいぶルールも変わったが、ハンガリーのプレーは基本的には何も変わっていなかった。キザな言い方をすると「ドナウ川の悠久の流れ」を思わせるものがあった。13名の登録プレーヤーのうち、8名は30歳を越えているという。ベテランが多いのは昔からそうだった。東京オリンピックの時もオリンピック出場3回目、2回目という選手ばかりだった記憶がある。大学を卒業すると現役を続けるのが難しい日本とは大違いだ。プレーぶりはというと、やはりハンドリングの良さは相変わらずだが、あまり泳ぎ回るのはお嫌いと見え、ゾーンディフェンス主体、相手にスピーディに泳ぎまわられた時、ディフェンスが意外にもろいのもまた昔と同じだった。しかし、ゲームの要所をのがさず決めるしたたかさはさすがだった。一方のアメリカ。思えば東京オリンピックの頃は日本と互角、いやむしろ日本が格上だった。この44年間についた差はあまりにも大きい。この試合に限って言えばアメリカの特徴はこれと言って見い出せなかった。むしろ、クロアチアやセルビアが出てきた方が面白かったと思う。一つだけ言えば、あの、トルソになった伝説的な名選手テリー・シュローダーがヘッドコーチを務めていたのは嬉しかった。放送に関して言えば、試合前、簡単なルール説明はあったが、ファウルに関して退水とペナルティシュートおよびフリースローの違いを説明してくれれば一般の方にももっと楽しめたのではないだろうか。


アメリカのパワープレイ


勝利を喜ぶハンガリーのマダルシュとキシュ


アメリカのヘッドコーチ/テリー・シュローダー

たかがボールと思うなかれ

2008-07-21 13:09:28 | 水球
 FMクマモトを聞いていたら、ある番組に熊本市内の某高校で水球のゴールキーパーをやっている高校生がゲストとしてよばれていた。MCから水球についていろんな質問を受けていたが、その中で、使用するボールについて質問された高校生が「サッカーボールよりひと回り小さい」と答えていたが、これは誤りで、実は大きさも重さもサッカーボールと水球ボールは全く同じなのである。おそらく彼は材質の違いでそう感じていたのだろう。水球という競技はサッカーをそのルーツとしている。従ってもともと全く同じボールを使っていた。事実われわれの時代に使っていたボールはほとんど区別がつかず、遠征先で乗った電車の中で、ボールを抱えたわれわれを見たサッカー関係者から話しかけられたこともある。時代を経て水球のボールは耐水性を重視して改良が重ねられ、今日の姿となった。こんなことは知らなくても水球はやれるだろう。しかし、そこには水球というスポーツがもともとどんな起源を持ち、どう変化しながら発展し、今日のルールやプレーシステムや戦術が形づくられてきたかという歴史が秘められている。そういうことも教えてあげるのが指導者の役割だと思うのだが。

練習今昔

2008-06-01 22:34:51 | 水球
 2年ぶりくらいに後輩たちの練習を見に行った。われわれの時代とはルールもプレースタイルもだいぶ違う。浦島太郎みたいな爺さんがのこのこ出てって、うかつに口出しも出来ない感じだ。コーチがゴールキーパー候補の新入生に巻き足の特訓をやっていた。バーベル用の5キロの円盤を持たせて「さぁ、これを持って5分間やってみよう!」。1分ほど続けた新入生、「もう無理です!」。これに応えてコーチ、「そうだね、もう少し体力つけてからやってみようね!」。やさし~い!。われわれの時代にはありえな~い。新入生の頃、同じような訓練を何度もやらされた。弱音を吐こうものなら、いきなり頭に竹刀が飛んできた。そして先輩の叱咤、「苦しかったらプールの底で休んで来~い!」。ちなみにその当時のプールの深さ3メートル。いやはや、とんでもない時代に育ったものだ。

君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956

2007-12-15 19:54:29 | 水球
 今、どうしても観たい映画がある。それはハンガリー映画の「君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956」だ。東京など主要都市では先月から公開されているが、熊本ではまだ公開の予定はないらしい。
 この映画は1956年に起きたハンガリー動乱と、その直後のメルボルン・オリンピックでの水球の流血戦という2つの史実を背景に、自由を求めて闘った若者たちの愛と悲劇の物語だ。
 当時小学5年生だった私は、今でもメルボルンの流血戦を伝えるラジオや新聞のセンセーショナルな報道ぶりを鮮明に憶えている。そしてそれは、数年後に水球という競技にのめり込むきっかけともなった。

映画のシーンから














 メルボルン大会で金メダルを獲ったハンガリーチームは、8年後の東京オリンピックでも金メダルを獲った。そのメンバーの中には、流血戦の経験者も5名含まれていた。東京大会当時、大会裏方のアルバイトをしていた私は、彼らと接する機会に恵まれた。中でも“水球の神様”と呼ばれていたカルパティや、世界で最もスピードのある水球選手といわれていたジャルマティは日本人より小さいくらいの体で驚いたことを思い出す。


当時、世界各国の新聞を飾った写真(ハンガリーのザ-ドルだったと思う)


メルボルン大会(1956)のハンガリーチーム
ボルヴァーリ、ボロシュ、ジャルマティ、ヘヴェシ、イェネイ、カニジャ、
カルパティ、マルコヴィッチ、マイエル、シヴォーシュ、ザ-ドル


東京大会(1964)のハンガリーチーム
アムブルッシュ、ボドナール、ボロシュ、ドモトル、フェルカイ、ジャルマティ、
カニジャ、カルパティ、コンラード、マイエル、ポ-チク、ルショラ-ン