徒然なか話

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漱石くまもとの句 ~秋~

2024-11-07 20:10:02 | 文芸
 1週間ほど前、市立図書館へ行った時、郷土関連図書のコーナーで「くまもとの漱石 : 俳句の世界」という本が目に入った。これはまだ読んでなかったなと思い借りて来た。夏目漱石来熊120年記念の年に出版されたもので、漱石が熊本時代に詠んだ俳句をまとめたものらしい。
 今日は秋の句の中から三句選んでみた。

▼合羽町の家
 「病妻の閨(ねや)に灯ともし暮るゝ秋」

 明治29年秋、光琳寺の家から引っ越してすぐ鏡子夫人が病の床に伏したことがあり、漱石は寝ずの看病をしたそうだ。その時の心境を詠んだものだろう。何とやさしい旦那様と思われる向きもあろうが、エリート官僚の舅やお手伝いの老女まで一緒に付いて来た箱入り娘と結婚式を挙げてまだ3ヶ月。そりゃあそうなるでしょう。漱石まだ29歳である。
 この合羽町の家もその年が暮れて初めて迎えた正月にお客や生徒が押しかけて来て、これに懲りた漱石は1年にも満たない30年7月に大江村の家に引っ越すことになる。


合羽町の家

 「行秋や此頃参る京の瞽女(ごぜ)」

 当時は熊本にも京から瞽女(女性の盲人芸能者)がやって来たのだろうか。僕が幼かった戦後間もない頃まで、いろんな物売りが遠方からもやって来たが、瞽女の姿を見たことはない。明治中期の頃は熊本市は九州一の大都市だったのではるばるやって来る価値があったのかもしれない。

▼大江村の家
 「傘(からかさ)を菊にさしたり新屋敷」

 明治30年暮れ、正岡子規に送った俳句の中の一句。この時、漱石が住んでいた熊本三番目の新屋敷(大江村)の家は、明午橋の少し下流、現在の白川小学校の裏手辺り。どこに植えられていた菊かわからないが、隣接する「傘(からかさ)丁」と掛けているのかもしれない。


大江村に住んでいた頃の漱石夫妻。書生、使用人とともに

 漱石は熊本時代に900句余りの句を残したといわれる。秀句も多く、俳句の才能が花開いたのが熊本時代だった。