先日、西村直子さんがフェイスブックで「寂心さんのクス」(熊本市北区北迫)について書かれていたので、いつもの「ハテナ?」虫がうごめき始めた。
5月21日に投稿したブログには次のように書いている。
一昨年、熊本市歴史文書資料室で謡曲「檜垣」の詞章を調べたことがある。謡曲「檜垣」といっても、有名な世阿弥の「檜垣」ではなく、寂心さんの大クスで知られる鹿子木寂心(親員)が作ったという謡曲。資料室の所員さんにも手伝っていただいて探したが、結局見つからなかった。
ところが先日、昭和初期に発行された「熊本市史」を見ていたらこれが載っていた。それが下記の詞章である。
世阿弥の「檜垣」のもとになったともいわれるが、もし、鹿子木寂心の作であるならば、寂心は世阿弥より後の時代の人だから、むしろ世阿弥の「檜垣」に影響を受けた作品なのか、それとも世阿弥より前の時代の別の人の作品なのか。ナゾは残ったままだ。
その後も各種文献などを調べてみたがいまだ手がかりは見つからない。
鹿子木寂心は文武に秀でた戦国武将だったことがいろいろな文献に書かれており、そのほとんどに彼の作品の一つに謡曲「檜垣」があげられている。それが下の謡曲「檜垣」であると「熊本市史」に紹介されている。しかし、そのことについての疑義も合わせて書かれている。それは当然のことで、この詞章を読むと、すべて世阿弥の「檜垣」のなかに含まれている詞章であり、寂心よりも100年ほど前に生きた世阿弥が作ったとしか思えない。寂心は霊巌洞の岩戸観音を尊崇し、逆修を残しているほどだから、檜垣のことについても詳しく知っていたと思われる。日頃、世阿弥作の「檜垣」をよく謡っていたかもしれないし、それを誰かが寂心自身の作だと勘違いしたのかもしれない。
だが、そもそも世阿弥が「檜垣」を作るためには取材が必要だったはずだが、「檜垣」は佐渡に流された後に作ったといわれている。どうやって取材したのだろうか。室町時代には檜垣の名は広く知られていたとはいうが、謡曲として成立させるためには「誰か」から情報提供を受けたとしか考えられない。ナゾは深まるばかりだが今後も継続して調べるつもりである。
寂心さんのクス
5月21日に投稿したブログには次のように書いている。
一昨年、熊本市歴史文書資料室で謡曲「檜垣」の詞章を調べたことがある。謡曲「檜垣」といっても、有名な世阿弥の「檜垣」ではなく、寂心さんの大クスで知られる鹿子木寂心(親員)が作ったという謡曲。資料室の所員さんにも手伝っていただいて探したが、結局見つからなかった。
ところが先日、昭和初期に発行された「熊本市史」を見ていたらこれが載っていた。それが下記の詞章である。
世阿弥の「檜垣」のもとになったともいわれるが、もし、鹿子木寂心の作であるならば、寂心は世阿弥より後の時代の人だから、むしろ世阿弥の「檜垣」に影響を受けた作品なのか、それとも世阿弥より前の時代の別の人の作品なのか。ナゾは残ったままだ。
その後も各種文献などを調べてみたがいまだ手がかりは見つからない。
鹿子木寂心は文武に秀でた戦国武将だったことがいろいろな文献に書かれており、そのほとんどに彼の作品の一つに謡曲「檜垣」があげられている。それが下の謡曲「檜垣」であると「熊本市史」に紹介されている。しかし、そのことについての疑義も合わせて書かれている。それは当然のことで、この詞章を読むと、すべて世阿弥の「檜垣」のなかに含まれている詞章であり、寂心よりも100年ほど前に生きた世阿弥が作ったとしか思えない。寂心は霊巌洞の岩戸観音を尊崇し、逆修を残しているほどだから、檜垣のことについても詳しく知っていたと思われる。日頃、世阿弥作の「檜垣」をよく謡っていたかもしれないし、それを誰かが寂心自身の作だと勘違いしたのかもしれない。
だが、そもそも世阿弥が「檜垣」を作るためには取材が必要だったはずだが、「檜垣」は佐渡に流された後に作ったといわれている。どうやって取材したのだろうか。室町時代には檜垣の名は広く知られていたとはいうが、謡曲として成立させるためには「誰か」から情報提供を受けたとしか考えられない。ナゾは深まるばかりだが今後も継続して調べるつもりである。
寂心さんのクス