この写真は大正初期の大和座である。明治41年、熊本市練兵町(現在の中央区辛島町・ホテルクラウンヒルズ熊本の位置)に建設された歌舞伎専用の劇場。定員2500人、来熊の歌舞伎役者はほとんどここの舞台を踏んだという。昭和18年に歌舞伎座に改称。昭和36年に閉館するまで市民娯楽の殿堂だった。
大正6年この劇場で公演した関西の喜劇役者・志賀廼家淡海(しがのやたんかい)は劇中で「ヨイショコショ節」を初めて唄い、それが評判を呼び、昭和に入った頃「淡海節」と呼ばれるようになった。今では彼の出身地滋賀県の民謡として定着している。
しかし、もともと「ヨイショコショ節」は山口県で唄われていた民謡。NHKの「新日本風土記アーカイブス『みちしる』」では山口県周防大島に伝わる民謡として紹介されているが、元治元年(1864)の第二次長州征伐(四境戦争)において大村益次郎率いる長州軍が 「石州口の戦い」で幕府軍を破ったとき、奇兵隊の一員として参戦していた人が陣営で唄われていたこの唄を持ち帰ったものという説があるという。
のちに「淡海節」として名古屋で流行ったそうで、下の東海風流プロジェクトの映像で、崎秀五郎さんが、名古屋甚句と同じ手付(三味線演奏用の作曲)という話をされているが、おそらくその頃に手付が行われたものと思われる。
唄の歴史を遡って調べると実に興味深いことが次々と出てくる。
大正初期の大和座の賑わい
▼志賀廼家淡海が唄う「淡海節」
▼東海風流プロジェクトが演奏する「淡海節」
大正6年この劇場で公演した関西の喜劇役者・志賀廼家淡海(しがのやたんかい)は劇中で「ヨイショコショ節」を初めて唄い、それが評判を呼び、昭和に入った頃「淡海節」と呼ばれるようになった。今では彼の出身地滋賀県の民謡として定着している。
しかし、もともと「ヨイショコショ節」は山口県で唄われていた民謡。NHKの「新日本風土記アーカイブス『みちしる』」では山口県周防大島に伝わる民謡として紹介されているが、元治元年(1864)の第二次長州征伐(四境戦争)において大村益次郎率いる長州軍が 「石州口の戦い」で幕府軍を破ったとき、奇兵隊の一員として参戦していた人が陣営で唄われていたこの唄を持ち帰ったものという説があるという。
のちに「淡海節」として名古屋で流行ったそうで、下の東海風流プロジェクトの映像で、崎秀五郎さんが、名古屋甚句と同じ手付(三味線演奏用の作曲)という話をされているが、おそらくその頃に手付が行われたものと思われる。
唄の歴史を遡って調べると実に興味深いことが次々と出てくる。
大正初期の大和座の賑わい
▼志賀廼家淡海が唄う「淡海節」
▼東海風流プロジェクトが演奏する「淡海節」