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国分寺と天平文化

2022-10-11 20:00:48 | 歴史
 昨日、県立図書館に行ったついでに肥後国分寺跡に立ち寄ってみた。今日残る「曹洞宗醫王山 國分寺」に至る系譜は不明だが、奈良時代、この辺りに壮大な伽藍があったことは間違いないらしい。肥後国分寺について「熊本県大百科事典」(昭和57年出版)には次のように紹介されている。

▼国分寺・国分尼寺
 天平一三年(七四一)聖武天皇の詔により国ごとに国府の所在地に造立された官寺。僧寺(国分寺)と尼寺(国分尼寺)とがあり、正式には僧寺を金光明四天王護国之寺、尼寺を法華滅罪之寺という。古代律令制と密着し鎮護国家、鎮災致福を説く仏教を国家的精神統一のために利用したもので、律令制衰退とともに国家の保護を失い中世には荒廃した。肥後国の国分寺は熊本市出水町・神水町・砂取町付近にあったとみられている。現在出水町の熊野神社に塔の礎石が残っているが、これは明治時代に動かされたもので、今日の調査では塔の跡や講堂の礎石も発見され、国府の位置との関係や瓦の様式や分布とも併せて、七重の塔のほか講堂、回廊、南大門などの配置が想定されている。この国分寺がいつ完成したかはわからないが、文献上少なくとも天平勝宝八年(七五六)以前に出来上がったとみられている。国分尼寺については、かつて渡鹿の旧練兵場や工兵隊作業場付近と推定されていた。礎石や基壇を残していたとの伝承や、同時代のものと思われる布目瓦が出土していたためだが、最近の調査では水前寺の旧動物園東方の陣山付近にあったとみられている。陣山は夏目漱石旧居や洋学校教師館がある所で、布目瓦出土を手掛かりに発掘調査が行われ、中門、講堂、金堂さらに回廊や南大門の跡などが確認されている。しかも塔の跡が見つからないことから、尼寺(国分尼寺は塔がないのが普通)と推定されている。(白木一也)

 奈良時代でも、天平年間が文化的な最盛期であったといわれ、ここ熊本にも仏教美術や寺院建築など仏教文化が花開いたであろう。


現在の国分寺(熊本市中央区出水1丁目)は奈良時代の肥後国分寺のほんの一部。


国分寺掲示板に掲げられた「肥後国分寺全景図」


国分寺掲示板に掲げられた「肥後国分寺・七重の塔図」


熊本市史(昭和7年発刊)に掲載された肥後国分寺


▼天平時代の文化を偲ぶ「女楽と女舞」を復元している「女人舞楽原笙会」の舞人たち。