徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

清少納言とたはれ島

2023-05-07 21:18:53 | 歴史
 先月4月15日、藤崎八旛宮藤祭の参拝に行った時、能舞奉納まで時間があったので境内の摂社・末社をお参りして周った。境内の一角に立つ平安時代中期に肥後国司を務めた清原元輔の歌碑「藤崎の軒の巌に生ふる松 今幾千代の子の日過ごさむ」を見ながら元輔の娘・清少納言のことを思い出した。元輔が肥後の国司時代、清少納言は、後に一条天皇の中宮となる藤原定子に出仕する前だったにもかかわらず、父とともに肥後へ下向した形跡を示す史料は見当たらないらしい。
 しかし、彼女の随筆「枕草子」の「島」の條には

 「島は 八十島 浮島 たはれ島 絵島 松が浦島 豊浦の島 まがきの島」
史料によっては
 「島は 浮島。八十島。たはれ島。水島。松が浦島。籬の島。豐浦の島。たと島。」

とあり、肥後の「たはれ島(風流島)」と「水島」が含まれている。

 これは「名にし負う」島々を列挙したものと思われるが、当時は「たはれ島」は有明海の緑川河口へ、「水島」は八代海の球磨川河口への海上交通の要衝だったと思われるので、ともに「歌枕」になるほど都まで聞こえていて清少納言も知っていたのだろう。ちなみに「たはれ島」は後撰集や伊勢物語などにも登場する。



緑川河口の有明海に浮かぶ小さな岩島「たわれ島」。背景は金峰山と二の岳




清少納言が肥後国へ下向した史料は見当たらない


清原神社(熊本市西区春日1)