徒然なか話

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そもそも歌舞伎のはじまりは

2023-07-09 18:11:41 | 古典芸能
 下の「歌舞伎のはじまり」という文章は、江戸時代前期の万治年間(1658年~1660年)に、浄土真宗の僧侶で仮名草子作家でもあった浅井了意(あさいりょうい)という人が書いた「東海道名所記」の中に出てくる歌舞伎の草創期についての記述である。この頃は歌舞伎の始祖といわれる出雲阿国も既に世を去っていたと思われるが、阿国と生きた時代が重なる浅井了意が書き残した話だけに、とてもリアリティを感じさせ興味深い。
 阿国歌舞伎は様々な文献によれば、大別すると「ややこ踊り」「茶屋遊び」「念仏踊り」の三つが主要な演目だといわれ、一部の題名や詞章が伝えられているだけで、音楽や舞踊についてはほとんどわかっていない。「ややこ踊り」は初期の演目で若い女性による舞踊。狂言小舞などの中世芸能をもとにしたとみられ、小歌と四拍子(笛・小鼓・大鼓・太鼓)の演奏で進行し、まだ三味線は使われていなかったと伝えられている。
 新潟県柏崎市に伝わる「綾子舞」は阿国歌舞伎の面影を最も色濃く残しているといわれているが、芸能史研究家の小笠原恭子氏によれば、「綾子舞」の代表的な曲目である「小原木踊」は、歌舞伎踊を創始する以前の出雲阿国も踊っていたという。


「綾子舞」の代表的な曲目である「小原木踊」は中世小歌にも詠まれている京都八瀬の大原女の姿を謡ったもの。
「沈(じん)や麝香(じやこう)は持たねども、におう(荷負う、匂う)てくるは焼(たき)もの」などの歌詞を持つ。

 中世の狂言小謡「七つ子」を現代の長唄に作り変えたのがこの「歌舞伎踊」。「七つ子」は阿国歌舞伎でも使われたことが分かっている。
「七つに成る子が、いたいけな事云うた、殿がほしいと諷(うと)うた、さてもさても和御寮(わごりょ)は、誰人(たれびと)の子なれば、定家葛(ていかかずら)か離れがたやの、離れがたやの。」と謡う。