先々週でしたか、「津々堂のたわごと日録」さんが熊本城三の丸の呼称について疑問を呈しておられました。実は僕も前から不思議に思っていたことでしたので、熊本博物館の学芸員・中原幹彦先生におたずねしてみましたところ、次のような回答をいただきました。
二ノ丸と三ノ丸は、時代によって区割りが異なり、判然としないのが現状です。
現在の旧細川刑部邸は、以前は二ノ丸屋形跡と言っていましたが、現在では三ノ丸の範囲内になっています。
富田紘一著『熊本城歴史と魅力』63ページ「四、熊本城の曲輪と城下町」には、下のように記されています。
・江戸時代前半には「曲輪(〇〇丸)の名称も時代により大きく異なっていた。」
・江戸時代後半になると、「本丸」と「二ノ丸」になった。
・現在、熊本博物館があるあたりを「三ノ丸」と呼ぶこともある。これは上段の二の丸公園部分と
区分するためで、歴史的な呼び名ではない。
※江戸中期の宝暦年間(1751~1764)の熊本城配置図には次のように書かれている。

左側が二の丸公園、その奥が三の丸駐車場。道路を挟んで右側が三の丸第二駐車場。
熊本地震前、百閒石垣の上から撮影。

道路の左側が旧細川刑部邸(二の丸屋形跡)。右側が熊本博物館(三の丸?)。
二ノ丸と三ノ丸は、時代によって区割りが異なり、判然としないのが現状です。
現在の旧細川刑部邸は、以前は二ノ丸屋形跡と言っていましたが、現在では三ノ丸の範囲内になっています。
富田紘一著『熊本城歴史と魅力』63ページ「四、熊本城の曲輪と城下町」には、下のように記されています。
・江戸時代前半には「曲輪(〇〇丸)の名称も時代により大きく異なっていた。」
・江戸時代後半になると、「本丸」と「二ノ丸」になった。
・現在、熊本博物館があるあたりを「三ノ丸」と呼ぶこともある。これは上段の二の丸公園部分と
区分するためで、歴史的な呼び名ではない。
※江戸中期の宝暦年間(1751~1764)の熊本城配置図には次のように書かれている。


熊本地震前、百閒石垣の上から撮影。

道路の左側が旧細川刑部邸(二の丸屋形跡)。右側が熊本博物館(三の丸?)。
旧細川刑部邸のイチョウは見事ですね。熊本にいた頃は街の至る所でイチョウを見た気がします。お城、県庁、教室から校庭に黄金色に輝くイチョウが見えて、見とれることがありました。
熊本県内にもイチョウの名木が各地にありますが、県の木はクスノキとされています。(^^♪
「熊本の城、三之丸之内を坪井川と申小川ながれ申候、」という文言がなんとも不可解です。
> 三之丸之内を坪井川と申小川ながれ・・・
不思議な文章ですね。森本櫓の下を流れる井芹川を坪井川と誤認したのでしょうか。