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防府天満宮のFacebookに、3月31日の御正祭(ごしょうさい)のことが書いてあった。御正祭というのは防府天満宮の主祭神である菅原道真公のご命日の祭のことである。40年程前に、防府天満宮最大の祭「裸坊祭(御神幸祭)」に初めて参加した時のことを思い出した。「裸坊祭」というのは、毎年11月下旬に行われる祭で、道真公が大宰府へ下る途中、勝間の浦に上陸して立ち寄られた際の送迎の古式を伝えたものといわれる。数千人もの白装束姿の男衆(裸坊)が寒空の下、御神体を奉じた御網代(おあじろ)を「兄弟ワッショイ」のかけ声も勇ましく、防府天満宮から菅公上陸の地、勝間の浦の御旅所まで運び練り歩く。
天神さんと言えば「梅鉢の紋」。裸坊の白装束に、縁起物の赤い梅鉢の紋のスタンプを押してもらう。いかに多くの梅鉢の紋を押しているかを競い合ったものだ。中にはほとんど赤装束にしか見えない人もいたほどだ。あれから40年近く。僕の後輩たちはいまだにこの祭に参加し続けているようだ。
【防府天満宮のサイトより】
防府天満宮は学問の神様、菅原道真公を始め公の御祖先である天穂日命・武夷鳥命・野見宿禰の四柱をお祀りしています。
菅公は、九州の太宰府に下られる途中、船を当地勝間の浦におつけになり暫くご滞在になりました。ご滞在中、酒垂山にお登りになり、「身は筑紫にて果つるとも、魂魄は必ずこの地に帰り来らん」とお誓いになり、周防国分寺にて家宝の金の鮎12尾を国司土師信貞に託して寂しく旅立たれました。
延喜3年(903年)公のお亡くなりの日、勝間の浦に神光が現れ、酒垂山に瑞雲が棚引きました。国司は公の御霊がお帰りになられたと、翌延喜4年(904年)この地の酒垂山に社殿を建立して松崎の社と号しました。
菅公をお祀りしたお社は日本全国津々浦々に至るまで約1万2千社もありますが、当社の創建をもって日本最初の天満宮とし、北野天満宮(京都市)、太宰府天満宮(太宰府市)と共に日本三天神と称せられております。
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天神さんの「梅鉢の紋」を題材にした古典落語が「たぬさい」。この「たぬさい」をモチーフにした長唄舞踊が下の「天神さん」である。