ブログ「津々堂のたわごと日録」さんの昨日の記事「春日局の息・稲葉内記の配流屋敷」には強い興味を抱いた。大まかに言うとこんな内容だった。
徳川3代将軍家光の乳母であり、大奥を任せられて権勢をふるった春日局(かすがのつぼね)。その実子・稲葉内記正利は仕えていた徳川忠長(家光の弟)の素行不良による改易に連座して罪を負った。春日局と親しかった細川忠利が藩主を務める肥後熊本へ配流となった。最終的に配流屋敷となったのが京町の赤尾丸城跡付近の屋敷。ここは西に金峰山を始め西山の山並みを望む小高い丘の上。すぐそばには加藤清正の殯の丘もある。
津々堂さんは以前から配流屋敷の位置を調べておられたらしいのだが、最近、江戸前期の「京町之絵図」でその位置を確認されたという。記事に貼られた「京町之絵図」を拝見し、赤枠で示された「稲葉内記の配流屋敷」の跡を現地で確認したいと思った。最初は「京町之絵図」の「稲葉内記の配流屋敷」と「京町番所」周辺の空堀との距離から、もっと北の方かと思ったが、絵図上の赤尾口の坂と思しき道や赤尾丸城跡との位置関係を見ながら、民家が建て込んだ周辺を歩いてみた。痕跡らしきものは何もないので、おそらくこの辺だろうと見当をつけていると、地区の住民の方に出会ったのでおたずねしてみた。予想どおり「稲葉内記の配流屋敷」など初耳だと言われた。
わが家の近くにもまだこんな歴史が埋もれていることに驚くとともに、新たな興味が湧いて来た。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/8e/20f399934c2dbbd879422650507cbdef.jpg)
赤尾丸城跡から北西方向を望む
徳川3代将軍家光の乳母であり、大奥を任せられて権勢をふるった春日局(かすがのつぼね)。その実子・稲葉内記正利は仕えていた徳川忠長(家光の弟)の素行不良による改易に連座して罪を負った。春日局と親しかった細川忠利が藩主を務める肥後熊本へ配流となった。最終的に配流屋敷となったのが京町の赤尾丸城跡付近の屋敷。ここは西に金峰山を始め西山の山並みを望む小高い丘の上。すぐそばには加藤清正の殯の丘もある。
津々堂さんは以前から配流屋敷の位置を調べておられたらしいのだが、最近、江戸前期の「京町之絵図」でその位置を確認されたという。記事に貼られた「京町之絵図」を拝見し、赤枠で示された「稲葉内記の配流屋敷」の跡を現地で確認したいと思った。最初は「京町之絵図」の「稲葉内記の配流屋敷」と「京町番所」周辺の空堀との距離から、もっと北の方かと思ったが、絵図上の赤尾口の坂と思しき道や赤尾丸城跡との位置関係を見ながら、民家が建て込んだ周辺を歩いてみた。痕跡らしきものは何もないので、おそらくこの辺だろうと見当をつけていると、地区の住民の方に出会ったのでおたずねしてみた。予想どおり「稲葉内記の配流屋敷」など初耳だと言われた。
わが家の近くにもまだこんな歴史が埋もれていることに驚くとともに、新たな興味が湧いて来た。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/8e/20f399934c2dbbd879422650507cbdef.jpg)
赤尾丸城跡から北西方向を望む
私も昨日、以前、古地図で見たことのある吉田如雪の本宅があったところじゃないかな?と思いました。
とにかく家が密集していまして、その狭い通路?を歩くのは、不法侵入になるのではとおそるおそるの探索でした(笑)
おっしゃるとおり「このあたり」でお茶を濁すしかなさそうです。