徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

鉄道唱歌と熊本

2022-11-15 21:30:43 | 音楽芸能
 明治33年(1900)に国文学者の大和田建樹が作詞した「鉄道唱歌」は、「東海道編」の第一集がよく知られていますが、実は、第一集から第五集まであります。
 第二集が「山陽・九州編」で、その中の50~57番に熊本が登場します。今日、その熊本の歌詞を読んでいて「おや?」と思う箇所がありました。それは53番の「宮は紅葉の錦山」という部分です。これは当時京町台の新堀にあり、錦山神社と呼ばれていた加藤神社のことを歌っているものと思われます。当時、錦山が秋の紅葉名所だったということを初めて知りました。そんなわけで今日の散歩の時、かつて加藤神社があった新堀から錦坂を錦橋まで下りながら往時の錦山の風景に思いを馳せていました。

50 かの西南の戦争に その名ひびきし田原坂
   見にゆく人は木葉(このは)より おりて道きけ里人に
51 眠る間もなく熊本の 町に着きたり我汽車は
   九州一の大都会 人口五万四千あり
52 熊本城は西南の 役に名を得し無類の地
   細川氏のかたみとて 今はおかるる六師団
53 町の名所は水前寺 公園きよく池ひろし
   宮は紅葉の錦山 寺は法華の本妙寺
54 ほまれの花もさきにほふ 花岡山の招魂社
   雲か霞か夕ぞらに みゆるは阿蘇の遠煙
55 わたる白川緑川 川尻ゆけば宇土の里
   国の名に負ふ不知火の 見ゆるはここの海と聞く
56 線路分るる三角港 出で入る船は絶えまなし
   松橋すぎて八代と 聞くも心のたのしさよ
57 南は球磨の川の水 矢よりも早くながれたり
   西は天草洋(なだ)の海 雲かと見ゆる山もなし


錦坂


錦橋



巫女神楽

2022-11-14 21:24:57 | 日本文化
 今月25日に行われる玉名市の「梅林天満宮例大祭」は主たる祭事である「鏑流馬」(熊本県指定重要無形民俗文化財)のほか、太宰府天満宮の巫女による神楽や地元の神楽保存会による神楽も行われます。巫女神楽は3年ぶりとなります。
 例年、「扇の舞」と「榊の舞」が舞われますが、「扇の舞」は明治43年、当時、「現人神(あらひとがみ)」とされていた明治天皇が「神祇(じんぎ)」の御題で詠まれた
  「わが國は神のすゑなり神祭る昔の手ぶり忘るなよゆめ」
という御歌が詞章となっています。
 また「榊の舞」は明治37年、「鏡」の御題で詠まれた
  「打向かふ度に心を磨けとや鏡は神の造り初めけむ」
という御歌が詞章となっています。

 神楽とは、神を祀るために演じられる神事芸能のことです。神楽の起源は、「記紀」に書かれている岩戸隠れの段で、天岩戸の前で天鈿女命(あめのうずめのみこと)が神がかりの舞をしたのが始まりだといわれています。その舞たるや「おけ」の上で「胸乳を掛き出し裳紐を番登に忍し垂れ」たとあります。つまりおけを伏せて上にのり、半裸状態で神がかった舞をしたというのです。
 江戸時代まではこうした神がかりした巫女神楽があったそうですが、明治時代以降は舞も音楽も洗練され芸能化が進んだと言われています。




宇土櫓の解体保存工事

2022-11-13 17:14:44 | 熊本
 2016年の熊本地震で被災した熊本城の重要文化財宇土櫓の解体保存工事が進められています。今日の状況は下の写真のとおり、空堀の底面に敷かれたシートの上に土盛りが行われている途中のようです。これから重機が入るため重文の一部である空堀を傷つけないよう細心の注意が払われているものです。今後、雨風から部材を守るため、櫓周辺に鉄骨の素屋根を組み立て、その後始まる解体工事の完了は2025年末が予定されています。従って素屋根が組み立てられる来年秋ごろから宇土櫓の姿は見られなくなります。宇土櫓が再びその姿を現すのは約10年といわれる再建工事完了後ということになります。



▼下図のように宇土櫓を覆う形で素屋根が組み立てられます。

善光寺参り

2022-11-12 22:15:40 | 歴史
 今日は熊本学園大学で行われた脳科学者の中野信子さんの講演を聴きに行った。内容についてはまだまとまらないので後日ということにして、今日の話題は今夜放送された「ブラタモリ 善光寺編」から。


 今回訪れたのは長野県の善光寺。旅のお題「善光寺はなぜ多くの人を引きつける?」。七年に一度、絶対秘仏である御本尊の御身代わり 「前立本尊」(回向柱)を拝む御開帳。3ヶ月で636万人が参拝したという圧倒的な人気はどこから?善光寺は仏の功徳随一ということで全国各地に勧請されて行った歴史的な経緯や扇状地と断層が生んだ奇跡の立地などを探っていた。
 僕は30数年前に一度だけ参拝したことがあり、本堂地下の「お戒壇巡り」などを体験した。
 熊本にもかつて善光寺があったことは今ほとんど知られていない。肥後国には建武時代(14世紀前期)に勧請されていたらしい。今の琴平神社(熊本市中央区琴平本町)の所が善光寺の跡だ。琴平神社は善光寺の別所として江戸時代から存在していた。明治初期の廃仏毀釈によって善光寺は廃寺となり、琴平神社だけが残った。
 下の熊本民謡「ポンポコニャ」は江戸時代末期に作られたといわれるが、歌詞の中に「善光寺」が出て来るので、当時は広く知られた存在だったことがわかる。


熊本の風景今昔 ~旧細川刑部邸前から~

2022-11-11 20:24:52 | 熊本
 熊本城内を旧細川刑部邸前から百間石垣前を通って新堀へ向かう道路である。この道はかつて肥後熊本から豊前小倉に至る豊前街道の一部であった。戦後、昭和50年頃までこの道の左側(三の丸)には化血研があり、売血者が列をなしていた時期もあり、僕ら子供には近寄りがたい区域だった。化血研が移転し、平成5年(1993)には子飼にあった旧細川刑部邸が移築され、観光スポットとしてイメージがガラッと変わった。
《今》


《昔》

昭和50年代初めの頃の同じ道。昭和55年(1980)出版「熊本の街道と峠」より

「熊本の街道と峠」には次のように解説されている。

 新町一丁目の元標から上熊本線の電車通りに出て、藤崎台童園への道(薬師坂)を登り、県営球場の西側から北へ抜ける道が昔の豊前街道の踏み出しである。熊本城域に取り込まれた茶臼山は、北側台地と南側平地との唯一の接点になっており、旅行者の通行をとめることができない。そこで城の西端から北端への最も低い台地上を、一般の交通路として開放していた。
 この道は既に平安時代から存在したらしく、藤崎八旛宮もこの道沿いに勧請され、現在の博物館から化血研への道路一帯は古京町と呼ばれ、その時代からの門前町と考えられる。
 百間石垣の北を通って新堀門を抜けると、京町にかかる。ここには鍵型道が残っていて、旧城下の面影を偲ばせる。京町一丁目で大津街道(豊後街道)を分岐し、京町本丁を北進すると番所があり、その北側には土居と堀があって城下町の外郭防衛線となっていた。ここを出町口と呼ぶが、今日では道路東側の堀だけが僅かに昔の面影を残している。


新町1丁目の里程元標


出町口の空堀跡(10年ほど前に埋められ集合住宅が建てられた)

柳川随想

2022-11-09 19:43:08 | 文芸
 昨日は京都祇園で「かにかくに祭」が行われたと今朝ネットニュースで見た。祇園をこよなく愛した作家であり歌人でもある吉井勇を偲ぶ祭である。祭の名は吉井が詠んだ「かにかくに 祇園はこいし寝るときも 枕の下を水のながるる」という歌に由来する。
 そんなことを考えていたら、妹が「ひつまぶし」を作って持ってきた。材料は柳川の若松屋で買ってきたらしい。柳川と聞けばまず思い出すのは北原白秋。吉井勇と北原白秋は、明治40年、歌人与謝野寛が、まだ学生だった木下杢太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇の4人を引き連れ、九州を中心に各地を旅した「五足の靴」の仲間。世の中は不思議な偶然で話がつながることがよくある。
 そういえば柳川にもしばらく行っていない。機会を見つけて再訪したいものだ。


柳川沖ノ端のどんこ舟

 「水辺立秋」は北原白秋の詩集「思ひ出」の中の「柳河」「立秋」「水路」などをモチーフとして、白秋の詩の世界を長唄にしたもの。



熊本最近の話題から

2022-11-08 22:51:53 | 熊本
 熊本地震で被災した本妙寺の仁王門の修復工事が終わりました。耐震性の補強などが施され、震災前は門の上部に置かれていた仁王像とライオン像が下の台座に安置されました。なお、階段下ではバイパストンネル工事が来年3月まで続くため、仁王門をくぐってのお参りはまだ先になりそうです。



 加藤神社創建150年記念・熊本地震復興事業として「令和の大造営」が進められていますが、このほど「授与所兼参集所」の建設工事が完了し、真新しい授与所での受付が始まりました。



 昨年9月から始まった熊本城戌亥櫓の解体保存工事は来年3 月の完了を目指して進められていますが、このほど櫓が姿を消しました。



 復旧工事の目玉である宇土櫓は10月から解体工事の準備が始まりましたが、これから解体工事のための鉄骨屋根組立が再来年末まで行われる予定です。再建完了まで約10年かかるといわれています。


小沢昭一的こころ

2022-11-07 22:58:00 | 音楽芸能
 今から10年前(2012年)の出来事を調べていたら、12月に小沢昭一さんが亡くなっていた。没後もう10年にもなるのかと… 小沢さんは俳優、ラジオパーソナリティ、俳人、エッセイスト、芸能研究者等々、多彩な才能を発揮した方である。俳優として数多くの作品に出演しておられるが、ざっと数えただけで10本以上の出演作を見ていた。中でも最も印象深いのは、川島雄三監督の傑作時代劇コメディ「幕末太陽伝」である。落語「品川心中」を取り込んだエピソードで、落ち目の女郎お染から心中の道連れにされる、少々とんまな貸本屋の金蔵が小沢さんの役。女郎お染を演じた名女優・左幸子さんとのコミカルなやりとりが可笑しい。
 また、小沢さんのもう一つ忘れられないのが、1973年から2012年まで、約40年間続いたラジオ番組「小沢昭一の小沢昭一的こころ」である。パーソナリティとして軽妙洒脱な話術を駆使、週ごとのテーマで楽しませてくれた。番組では造詣が深い大衆芸能の中から都々逸や俗謡などを披露することもあり、その一つが下の「品川甚句」。彼が出演した「幕末太陽伝」の舞台となった品川宿で幕末から唄われているという俗謡である。この唄を聞いていると「幕末太陽伝」の一場面を髣髴とするものがある。


鳥居のある風景

2022-11-06 19:50:21 | 日本文化
 今日は散歩の途中、熊本市現代美術館に立ち寄った。しばらく休憩のつもりで入った図書室で何気なく1冊の写真集を手に取った。イギリス出身の写真家、ジョニー・ハイマスの写真集「鳥居のある風景」だった。ページをめくりながらハイマスの世界に引き込まれてしまった。われわれは日頃見慣れている鳥居が外国人にはこんな風に見えていたのかとちょっと感動した。
 帰ってから、今まで自分あるいは妻が撮った鳥居(が写った)の写真の中から印象深いものを選んでみた。これから鳥居を見る視点がちょっと変わるかもしれない。


梅林天満宮(玉名市津留)の伝統行事・鏑流馬に先立つ神事の様子。


水前寺成趣園(熊本市中央区水前寺公園)から熊本地震で倒壊する前の出水神社鳥居を写した1枚。


藤崎八旛宮(熊本市中央区井川淵町)例大祭の御神幸を控えて奉納団体が飾馬飾卸にやって来る。


熊本地震で笠木、島木、貫、神額などが崩落した岩立菅原神社(熊本市西区池田1丁目)の一の鳥居。


立田口大神宮(熊本市中央区坪井4丁目)の赤鳥居は江戸時代から坪井立町及び豊後街道のシンボル。


瀬戸内海に浮かぶ信仰の島、安芸の宮島のシンボル、厳島神社の鳥居。


加藤神社(熊本市中央区本丸)清正公まつりの御神輿が鳥居をくぐって御神幸へ。


かつては有明海の海上交通の守り神として崇敬された金刀比羅宮(玉名市下)。


元乃隅神社(山口県長門市油谷)は123基の赤鳥居が並ぶ景観が有名。


上内田神社(山鹿市菊鹿町上内田)の鎮守の杜は秋の稔りを静かに見守る。

熊本駅界隈の変わりよう

2022-11-05 22:08:38 | 熊本
 現在、アミュひろば(JR熊本駅前)と花畑広場で開催中の「くま博2022」で今日から「熊本総踊り」をやるというので、どんなもんかなと朝から覗きに行った。駐車場探しでウロウロしたらいけないとバスで行ったら、ラッキー!今日は「運賃大人100円」の日だった。
 肝心の「熊本総踊り」はというと、お目当ての牛深ハイヤ踊りや山鹿灯籠おどりまで見るには夜中までいなければならないことがわかり、早々にあきらめ、最初の二つほどの演目を見たところで帰ることにした。駅前バス停のベンチで茫っと眺めていると、一瞬「アレ!今どこにいるんだっけ?」と思うような景色が広がっていた。それがこの写真である。熊本駅にはたしか3年ほど来ていないのでその間に景色が変わってしまっていた。



 前はどんな景色だったかなと思い出そうとするのだが全然思い浮かばない。帰宅してから、同じアングルの写真がどこかに残ってないかと散々探し回った挙句、見つけたのがこの写真。済々黌水球部が二度目の全国制覇を果たし熊本駅に凱旋、在校生の歓迎を受けた昭和28年9月1日の駅前の風景である。今から69年前ということになるが、「昭和は遠くなりにけり」感をあらためて実感。


 昭和42年 熊本日日新聞社刊「郷土スポーツの歩み 熊本の体力」には次のように紹介されている。

▼二度目の全国制覇
 二度目の全国制覇は、二年後の二十八年である。この年は六・二六の熊本大水害の年だった。濟々黌にも付近の被災者がいっぱい避難して、プールは被災者たちの洗たく場となり、水球の練習などできる状態ではなかった。インタハイは近づくし、選手たちは練習のできない苦しみとあせりでじりじりしていた。八月になってやっとプールが使用できるようになり、選手たちはこれまでのブランクを取り戻そうと必死の練習に明け暮れた。わずか一ヵ月足らずの練習でインタハイにのぞむことになった。この年の水球部は部長・平田忠彦、コーチ・竜川武弘、主将・田久保徹、井上融、前田隆啓、宮村元信、渋谷竜志、江副一英、飯田桂三、田上新一郎、内田啓一、内田実、坂本敏寛であった。
 第二十一回日本高校水上大会は八月二十九日、三十日の両日、名古屋の振甫プールで開かれた。水球の参加チームは十四校、濟々黌は第一日の第一試合で前年の優勝校鴨沂(京都)と対戦、3-2でこの強敵をくだした。二回戦の池田(大阪)には16-0と完勝、準決勝でも西京(京都)に9-2と楽勝して三十日の決勝に進んだ。
 優勝戦は午後一時四十分から高松宮ご夫妻を迎えて開始された。対戦相手は山城(京都)。濟々は立ち上がりLB井上がドリブルで山城ゴールに迫り、パスを受けたCF田久保が決めてリード。その後の出足の良さと、スピードにのった攻撃で田久保にボールを集め、前半3-1の優位に立った。だが後半に入って濟々黌は得意の泳力を生かせず、山城の強引な攻撃で同点に持ち込まれる苦戦。しかし終了前3分に田久保が決勝のシュートを決めて、二度目の優勝を飾った。

雨もまた佳きかな

2022-11-04 22:01:15 | 音楽芸能
 最近、クラリネット奏者の田村麻紀子さんにハマっていて、毎日のようにYouTubeで彼女の演奏を探しては聴いている。今日聴いたのはディキシーランド・ジャズの名曲「クラリネット・マーマレード」。クレセント・シティ・ウォーカーズの一員として参加した7年前のストリートジャズ・フェスティバルにおける映像のようだ。雨にもかかわらず、新宿の街角での演奏はなかなかクールだ。



 彼女の演奏を視聴していたら、なぜか発想が雨の中のイベントに飛んだ。これまでイベントに参加していて雨に見舞われたことが何度かある。中でもひどかったのは2018年8月4日、水前寺成趣園能楽殿で行われた「出水神社薪能」だった。目玉の演目「紅葉狩」は初見の能で楽しみにしていた。ところが前場のシテの中ノ舞が始まるという見どころに差し掛かった頃から、雨粒が落ち始めた。雨具の用意もしていなかったので濡れるのも我慢して見ていたが、雨足はだんだん強くなり、遂には土砂降りとなった。ここに至って芝生席から周囲の木陰に退避したが、それでも雨は容赦なく降り続いた。これはもう無理だと思い、成趣園の休憩所に退避、小1時間、小降りになるのを待ったが、公園の閉門時間となったので駐車場まで走り、車で帰路についた。後場を見ることが出来なかったがまたそのうちこの演目「紅葉狩」はやってくれるだろう。


金春流「紅葉狩」


 もう一つ忘れられない雨の思い出は、2012年3月17日、くまもと森都心プラザ前広場で行われた「九州新幹線開業一周年記念イベント」である。この日は朝から雨が降っていたが、そのうちやむだろうとタカをくくって見に行った。ところが、雨足はだんだん強くなった。しかし、"ザ・わらべ"の公演は予定時刻に始まった。さすがにステージ前の観客は4、5人くらいしかおらず、皆、傘を差して立ったまま見ていた。それでも"ザ・わらべ"の3人はいつもと同じように笑みを絶やさず一生懸命踊る姿を見ながら泣きそうになった。


風流ってナニ?

2022-11-03 19:13:07 | 伝統芸能
 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の評価機関は、「風流踊」をユネスコ無形文化遺産へ提案することを決定し、熊本県荒尾市の「野原八幡宮風流」を含む24都府県41件の民俗芸能「風流踊(ふりゅうおどり)」を無形文化遺産に登録するよう勧告した、と文化庁が1日発表した。



 当初計画にはたしか「野原八幡宮風流」は含まれていなかったと記憶しているので、熊本県民としては喜ばしいことには違いないのだが、この「十把一絡げ」的な登録ってどうなの?という気がしないでもない。周りのおっちゃんおばちゃん達も「目出度いな、知らんけど」といった感じでその意味はよくわかっていない。文化庁によれば「風流踊」について次のように説明している。

「風流踊」は、広く親しまれている盆踊や、小歌踊、念仏踊、太鼓踊など、各地の歴史や風土に応じて様々な形で伝承されてきた民俗芸能。華やかな、人目を惹くという「風流」の精神を体現し、衣裳や持ちものに趣向をこらして、笛、太鼓、鉦などで囃し立て、賑やかに踊ることにより、災厄を祓い、安寧な暮らしがもたされることを願うという共通の特徴をもつ。

 これを読んでもよくわからないが、そもそも「風流」ってナニ?という疑問も湧く。
 折口信夫の著書に「能舞台の解説」という短編がある。自らが会主を務める観能の会での前説をまとめたものだと思われるが、能や松囃子と風流の関係性についての話がなかなか興味深い。その一部を抜粋してみた。



▼ユネスコ無形文化遺産への登録が勧告された「風流踊」一覧

〽旅の衣は篠懸の…

2022-11-01 20:03:38 | 熊本
 先週所用で玉名に行った。帰りは久しぶりに河内経由で河内川沿いに山越えのコースを選んだ。漱石ゆかりの小天の前田家別邸に寄ってみようかと思ったのだが、また今度ゆっくり来ることにして通過した。車窓から「草枕」の一場面となる風呂場がチラッと見えた。思わず「旅の衣は鈴懸の…」という長唄「勧進帳」の一節が頭に浮かんだ。
 「草枕」の第七章、画工が「那古井の宿」の湯槽につかってあれこれ思いめぐらしていると、どこからか三味の音が聞こえてくる。それは画工の意識を子供の頃に飛ばす。近くの酒屋の娘が長唄のおさらいをやっていて「旅の衣は鈴懸の…」という唄声が聞こえてくる。そんな遠い昔の世界に浸っていると、突然風呂場の戸が開き、現実の世界に引き戻される。やがて、湯煙りの向こうに裸の那美さんが現れるという場面になる。


漱石が逗留した前田家別邸


「草枕絵巻」より松岡映丘筆「湯煙」


 河内川沿いに登り鳥越の峠の茶屋まで来ると、ちょっと「草枕の道」をトレースして見たくなり、逆戻りになるが大将陣の棚田から竹林を通り抜けて芳野の追分まで戻ってみた。


鳥越の峠の茶屋から金峰山登山道に入る。


大将陣の棚田の向こう、昼なお暗い竹林の道を通って芳野の追分に戻る。


   「〽旅の衣は篠懸の…」という唄い出しで始まる長唄「勧進帳」