徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

熊本城復旧の長い道のり

2023-05-15 19:04:23 | 熊本
 7年前の今日、つまり熊本地震発生から1ヶ月が過ぎた頃だが、下記のようなブログ記事を書いていた。思えばその当時は先のことなど想像もできないまま書いていた覚えがある。昨年11月には復旧完了時期が当初の計画から大幅に遅れ、30年後になるとの見通しが熊本市長からアナウンスされた。
 熊本地震から7年経った今、復旧工事の様子を見ながら、就中、石垣の復旧がいかに大変な工事で、この先長い長い道のりが続くことを実感している。

▼熊本城石垣のはなし。(2016.5.15)
 熊本地震により熊本城の最大の特徴である石垣が各所で崩れ、熊本の文化財専門家として著名な富田紘一さんも「熊本城の石垣は地震にもびくともしない、とさんざん喧伝してきた自分たちがまるでホラ吹きのようだ」と嘆く。それほど、かつて経験したことのない巨大地震だったということなのだろう。
 この崩れた石垣を文化財として復元するためには、ひとつひとつの石を、元あった位置に戻すことが必要なので、崩落前の写真等と照合しながら気の遠くなるような作業をしなければならないという。四百年前の加藤清正公の築城に携わったとされる石工集団、穴太衆(あのうしゅう)の末裔の方の話では、石垣だけで復元に10年かかるだろうという。もちろんそれに伴う費用も莫大なものになる。また、穴太衆の石積み技術は口伝であり、築城当時の技術は現在は伝わっていないそうなので、はたして同じ形に復元できるかどうかもわからないという。熊本城が元の姿に戻るのは何十年も先のことだろう。それを見るのはわれわれの世代ではないことだけは確かなようだ。


こんなイベントが再び行われるのはいつの日か?
(2011年10月1日 熊本城・竹の丸 秋のくまもとお城まつりオープニング)

日曜日の初耳学 ~日本のキッザニア創設者~

2023-05-14 21:05:34 | テレビ
 今夜の「日曜日の初耳学」(MBS)では子供のお仕事体験で大人気の「キッザニア東京」創設者・住谷栄之資さんにスポットを当てていた。
 実は住谷さんについては15年ほど前、いろんなメディアが取り上げていた時、このブログでも紹介したことがあったので、内容を一部編集して再掲した。

 

 東京のららぽーと豊洲にある「キッザニア東京」が凄い人気らしい。なんでも東京周辺の子どもたちにとってディズニーランドよりも魅力のあるスポットになっているそうだ。2006年秋にオープンしたこの「キッザニア東京」は、2歳から15歳までの子供向けの職業体験型テーマパークとして人気を博し、4ヶ月も先まで予約がうまっているそうだ。ここでは消防士、キャビンアテンダント、モデル、医師など、 80種類以上の職業が体験できる。さらにここで働くと「キッゾ」というパーク内だけで通用するお金が貰え、それを使って買物をしたり、口座を開設してキャッシュカードを作ったりとまさにひととおりの社会体験ができるようになっているらしい。

 ちなみに「キッザニア東京」の創設者・住谷栄之資さんは、僕が関東学生水球リーグに出始めた58年も前、慶応大学の水球部でゴールキーパーをやっていた方で、なかなか点の取れない難敵だった。東京オリンピック1964の時は日本代表のリザーブのゴールキーパーだった方だ。

高瀬裏川と近江八幡堀

2023-05-13 22:29:00 | 
 来週末から「高瀬裏川花しょうぶまつり」が始まる。今日現在の開花状況はまだチラホラのようだ。
 ここは1971年、この裏川沿いの商家を借りて工場立上げ要員宿舎としていた思い出の地。行く度に当時を思い出す。かつて米を積んだ平田舟が行き交った運河も今では花しょうぶ園の様相を呈している。
 また、ここの風景は彦根勤務時代に何度も見た近江八幡の八幡堀を思い出して懐かしい。その八幡堀は時代劇のドラマや映画によく使われるので風景を見ているだけで楽しい。


高瀬裏川の花しょうぶ(過年度)


   ▼TVドラマ「剣客商売」のテーマ曲と主なロケ地となった八幡堀

父の祥月命日と謡曲「田村」

2023-05-12 21:46:29 | ファミリー
 昨夜、ブラタモリ・セレクション 「京都・清水寺編」を放送していた。6年ぶりの再見だ。清水寺は坂上田村麻呂ゆかりのお寺。と思って見ていたら、来週の父の祥月命日のことを思い出した。
 2000年に他界した父の思い出の謡曲が「田村」だった。父がまだ四つか五つの頃、立田山麓の泰勝寺に住んでおられた長岡家(細川刑部家)に日参していた。お坊ちゃまの遊び相手としてだったが、お屋敷で謡曲のお稽古が行われる日は、幼い父も末席に侍らせられていたという。父は門前の小僧よろしく謡曲「田村」の「ひとたび放せば千の矢先・・・」という一節だけは終生忘れなかった。
 昨年が父の二十三回忌にあたる年だったのだが、まだコロナ感染が危惧される時期だったので菩提寺のご住職と相談し、2024年に二十三回忌と二十七回忌を合わせた法要を行うことにした。
 謡曲「田村」のことはこのブログでもう何度もネタにしたが、毎年命日には供養のつもりで「田村」のキリの部分を聴くことにしている。


細川家立田別邸(泰勝寺跡)


立田自然公園(泰勝寺跡)の茶室仰松軒



邦楽の祭典 ~第28回くまもと全国邦楽コンクール~

2023-05-11 20:18:48 | 音楽芸能
 今年も「~長谷検校記念~ 第28回くまもと全国邦楽コンクール」が熊本市民会館で行われます。
 先日、本選出場者のメンバーが発表されました。

日 時:2023年7月2日(日)
    10:00〜12:30 コンクール本選
    12:50〜14:00 第9回 くまもと子ども邦楽祭
    14:10〜     結果発表・表彰式
会 場:市民会館シアーズホーム夢ホール(熊本市民会館)
    入場無料


前回(第27回)の被表彰者の皆さん

 前回初めて、熊本県から出場した箏曲の清原晏さんが最優秀賞に輝きましたが、今年も優秀な若手演奏家が予選を通過して本選に登場します。私が個人的に注目しているのは久しぶりに登場の筝曲の中島裕康さん、昨年奨励賞を受賞した三味線音楽の今藤政優さん、そして尺八・笛音楽部門に笙(しょう)で出場した出会ユキさんなどです。今年はどんな演奏を見せてくれるか楽しみです。

ハーンと「朝日のあたる家」

2023-05-10 23:29:52 | 音楽芸能
 日本に来る前のラフカディオ・ハーンは、1877から87年までの10年間、新聞記者としてニューオーリンズに滞在した。彼は市中の阿片窟や売春宿を告発する記事を書いていたそうである。その一方、周辺地域の民謡や習俗の収集もしていたそうで、原初のジャズなどにも触れていたと思われる。ハーンがニューオーリンズにやってくる数年前まで実在していたという「朝日楼」という娼館を歌った「朝日のあたる家(The House of the Rising Sun)」という民謡がある。1960年代にアニマルズが歌って日本でも大ヒットした。苦界に身を沈めた女の悲しみの歌だが、19世紀から歌われていたというこの歌を、ハーンは仕事柄耳にする機会があったのではないかと思われる。ただ、この歌のもとになったのは16世紀から歌われているアイルランド民謡「The Unfortunate Rake」ではないかという説もある。ハーンが聴いた可能性がある「朝日のあたる家」はわれわれが知っているアメリカのカントリーやロックの影響を受けた「朝日のあたる家」とはだいぶ異なっていたかもしれないし、自らのアイルランドの血を感じさせる何かがあったかもしれない。
 1937年アメリカで録音されたジョージア・ターナーが歌う「朝日のあたる家」とそのもとになった可能性があるアイルランド民謡「The Unfortunate Rake」を聴いてみた。




   そして、これも聞かずばなるまい。


 アイルランド民謡「The Unfortunate Rake」は多くのバリエーションを生んだが、その中に僕の大好きなカントリーソング「The Streets of Laredo」がある。この曲は多くの歌手に歌われ、映画にも使われた。1948年のジョン・フォード映画「三人の名付親」にアンダースコアとして使われている。そういえばフォード監督もアイルランド系だった。


聖と俗

2023-05-09 21:02:29 | 歴史
 昨日の熊日新聞「都市圏」の連載企画「坂道を上れば」に「錦坂」が取り上げられた。その名は錦山神社(現加藤神社)に由来することや、坂の下には坪井川の旧流路があったことなどが紹介されていた。「昔は小舟で客が訪れ、神社周辺の街はにぎわったらしい」という加藤神社権禰宜の話も紹介されていたが、これだけでは錦坂の歴史を語る話としては弱いので、以前このブログで紹介した話を付け加えておきたい。

 僕の父の教員仲間だったI先生が師範学生時代の昭和10年に著した京町についての研究レポートがある。各種文献や地区の長老の話などをまとめたものであるが、その中にこんな記述がある。

--商業都市としての京町の本通りには遊郭が生じて、今の加藤神社の所(新堀)は坪井川の河江の港として、天草、島原よりの薪船等が、百貫の港のようにどんどん港付し、一つの港町として栄えたのである。ゆえに港町にふさわしい遊郭ができるのももっともである。--

 明治7年に加藤神社が城内から新堀に遷座した時、下を流れる坪井川の舟客が錦山神社に登るために付けられたのが錦坂なのであるが、時を同じくして京町・新堀に熊本初の公許の遊郭が設置されることになった。
 そして、ブラタモリでおなじみ「聖と俗」の話になる。つまり名のある神社仏閣の周辺には参拝客のための宿屋や料理屋などができ門前町を形成する。さらにお決りのように花街ができるのである。
 当時、軍神として崇められていた加藤清正を祀った錦山神社は全国から多くの参拝者を集めた。坪井川の河運を利用してやって来る参拝客も多く、続々と錦坂を登ったのである。そして明治10年までのわずか3年余の間、京町・新堀は遊郭の町でもあったのである。

 僕が幼稚園に通った昭和25年頃、錦坂は通園ルートの一つであったが、すでに坪井川は付替えられ、新堀は平坦道路となって上熊本-藤崎宮間の電車が走り、港町の痕跡はどこにも見当たらなかったのである。

▼現在の錦坂


▼明治44年、菊池軌道(現熊本電気鉄道)が池田駅(現上熊本)と千反畑駅(現藤崎宮前)間の
 蒸気軌道を開業。
 昭和29年、熊本電気鉄道から引き継いだ熊本市交通局が熊本市電坪井線として開業する。
 昭和36年、加藤神社前を磐根橋に改称。
 昭和45年、藤崎宮前 - 上熊本間全線廃止

熊本電気鉄道時代の加藤神社前。鳥居をくぐって錦坂を登る。



大正7年の熊本市内地図。錦橋から加藤神社へ上る錦坂が描かれている。
赤いラインは旧国道3号線。



昭和36年当時の磐根橋から加藤神社石段を見た写真。


▼西南戦争で焼失した京町遊郭は復旧を断念。新たに二本木に遊郭が設置されることになった。
二本木遊郭にゆかりの「東雲節」

清少納言とたはれ島

2023-05-07 21:18:53 | 歴史
 先月4月15日、藤崎八旛宮藤祭の参拝に行った時、能舞奉納まで時間があったので境内の摂社・末社をお参りして周った。境内の一角に立つ平安時代中期に肥後国司を務めた清原元輔の歌碑「藤崎の軒の巌に生ふる松 今幾千代の子の日過ごさむ」を見ながら元輔の娘・清少納言のことを思い出した。元輔が肥後の国司時代、清少納言は、後に一条天皇の中宮となる藤原定子に出仕する前だったにもかかわらず、父とともに肥後へ下向した形跡を示す史料は見当たらないらしい。
 しかし、彼女の随筆「枕草子」の「島」の條には

 「島は 八十島 浮島 たはれ島 絵島 松が浦島 豊浦の島 まがきの島」
史料によっては
 「島は 浮島。八十島。たはれ島。水島。松が浦島。籬の島。豐浦の島。たと島。」

とあり、肥後の「たはれ島(風流島)」と「水島」が含まれている。

 これは「名にし負う」島々を列挙したものと思われるが、当時は「たはれ島」は有明海の緑川河口へ、「水島」は八代海の球磨川河口への海上交通の要衝だったと思われるので、ともに「歌枕」になるほど都まで聞こえていて清少納言も知っていたのだろう。ちなみに「たはれ島」は後撰集や伊勢物語などにも登場する。



緑川河口の有明海に浮かぶ小さな岩島「たわれ島」。背景は金峰山と二の岳




清少納言が肥後国へ下向した史料は見当たらない


清原神社(熊本市西区春日1)

今日聴いた音楽

2023-05-06 22:09:43 | 音楽芸能
 今日は終日雨で外へ出ることもなく、テレビで石川県能登地方の地震被災状況を見ながら、7年前の熊本地震の恐怖を思い出しました。

 被災地の皆様に心よりお見舞い申し上げます 。
 一日も早く日常を取り戻せることをお祈り致します。

 午後からはミュージックビデオを見て過ごしたが、
そのうち次の3本をピックアップしてみた。

ディキシーランド・ジャズの代表曲の一つ「High Society」を田村麻紀子セッションで


玉名女子高校吹奏楽部が最近リリースした「プリンセス・イン・デイドリーム」(樽屋雅徳作編曲)


先日の第62回博多どんたく港まつりパレードにおけるブリヂストン吹奏楽団久留米のマーチング

アツモリソウ(敦盛草)のはなし。

2023-05-05 21:05:03 | 歴史
 ブログ友の「小父さんから」さんの記事に「アツモリソウ」の話が取り上げられていた。この名の植物が存在することを初めて知った。その由来について、花の形が、「一ノ谷の戦い」で命を落とした平家の若武者敦盛が、背中に風で布を膨らませる防具「母衣(ほろ)」を付けていた様に似ているからだそうだ。しかし、添付されている「一の谷合戦図屏風」を見ると敦盛を討ち取った熊谷直実も「母衣」を着けているのに対し、敦盛の「母衣」は判然としない。他に「一ノ谷の戦い」を描いた絵図はないかと探したところ、室町末期から江戸初期に奈良の絵仏師によって作られた一種の絵本である「奈良絵本」に赤い「母衣」を着けた敦盛の絵図があった。それではなぜ同じように「母衣」を着けているのに熊谷直実ではなく「敦盛草」と名付けられたのだろうか。それはおそらく弱冠15歳で命を落とした敦盛を憐れに思う日本人のメンタリティーがそうさせたのだろう。一度この花を見てみたいものだ。
※右の写真は「アツモリソウ」みんなの趣味の園芸(NHK出版)より
<P.S.>
 「小父さんから」様よりご指摘あり。「クマガイソウ」もあるのだそうな。
 考えてみれば、熊谷直実が仏門に入って弔ったからこそ敦盛伝説が今日まで伝わっているわけで。


奈良絵本に描かれた母衣を着けた敦盛の絵図

平敦盛の最期の顛末を語る幸若舞「敦盛」



雅の世界 ~曲水の宴~

2023-05-04 20:55:12 | 日本文化
 平安時代の宮中行事を再現した「曲水の宴」が今日、代継宮(熊本市北区龍田)で開催されました。代継宮の「曲水の宴」は今年で11回目になりますが、熊本では唯一です。
 平安時代の装束を身にまとった歌人たちが庭園内の小川沿いに座り、酒杯が目の前を通るまでに和歌を詠みます。今回の歌題は「山吹」と「鶯」でした。女性歌人には熊本の民放各局のアナウンサーが扮し、会場を取り巻く観客は雅な平安絵巻を楽しんでいました。


女性歌人に扮した後生川凜アナ(RKK)


巫女による豊栄の舞


天の浮橋を渡って各自の席に向かう歌人たち


酒杯が通るまでに短冊に歌をしたためる歌人たち

あの頃の熊本城

2023-05-03 18:22:16 | 熊本
 GWも後半に入り、今日も熊本城は多くの観光客で賑わっていた。
 そんな中、二の丸広場や加藤神社などで観光ボランティアガイドに観光客のグループが案内されている光景をよく目にする。ガイドの話に耳を澄ましていると、よく聴こえてくるのが「修復工事中の熊本城は今しか見られませんよ!」という言葉。今はそう言うしかないのだろうが、聴きながら僕はやっぱり、観光客の皆さんには熊本地震前の美しかった熊本城を見ていただきたかったなぁと思うのである。平成時代に入ってから櫓や続塀などが次々と復元され、築城四百年に向けて本丸御殿などが築城時の建築工法で復元された。2006年から足掛け3年にわたった築城四百年祭の頃はそれはそれは見事な名城の姿を誇っていたのである。
 当時の写真を眺めながらふり返ってみた。


大小天守と宇土櫓の三天守の偉容


ライトアップされた三天守を背景に行われた薪能


二の丸広場では春秋のお城まつりなど様々なイベントが三天守を背景に行われた。


桜の開花時季には長塀前で大勢の市民が花見を楽しんだ。


二の丸北側の百間石垣は往時の偉容を残していた。


天守閣手前に構えた豪壮な本丸御殿


本丸御殿で最も格式が高い昭君之間


大広間は手前から「鶴之間」「梅之間」「櫻之間」「桐之間」、そして一番奥が藩主の部屋「若松之間」


大広間では季節ごとに宴が催され、各種芸能が披露された。

或る少女

2023-05-02 21:19:39 | 世相
 今日、散歩コースの一つ、往生院へ向かっていた。県道303号を渡ろうと横断歩道で信号待ちをしていると、一人の少女が近づいて来た。見た目は12,3歳くらいだろうか。髪は短めで眼鏡をかけているが冬のようなウィンドブレーカーを着ていた。なんとなく薄汚れた感じがした。
「おじちゃん、どこ行くの?」と声をかけてきた。
「そこのお寺だよ。キミはどこへ行くの?」と返した。
すると「わからない」と言う。そこで僕は発達障害の子かなと気付いた。
「家はどこなの?」と聞いても「わからない」と言う。
「どこから来たの?」と聞いても「わからない」
「誰か来るの?」と聞くと「何かあったらここに電話しなさいと言われた」と言って1枚のカードをポケットから出した。
見るとパトロールカードと書かれていて名前と電話番号が書かれていた。どうやらおまわりさんが渡したものらしい。前に保護されたことでもあるのだろうか。とにかく連絡してみようとスマホで電話してみた。やはり警察署だった。当の警察官はいなかったようだが、電話に出た女性の係員が女の子の特徴をしつこく聞くものだから「カードを渡した警察官に聞いてください」と言って電話を切ろうとしたところに、女の子を知っている人が通りかかった。なんでも割と近いところに住んでいる子らしい。「またね」と言って別れたあと、あまり良い家庭環境ではないように思え、この子がこれからどんな人生を歩んで行くのだろうと思うとせつない気持になった。


坪井川

合羽町の家

2023-05-01 21:05:36 | 文芸
 今日は例月のとおり藤崎八旛宮へ朔日詣りに歩いて行った。その途中、八雲通りを歩いていると漱石の合羽町の家跡(現坪井2丁目)の駐車場で掃除をしている中年男性が目に入った。ひょっとしてここの家主さんかなと思い声を掛けてみた。
「ここは漱石旧居があったところですよね」
「そうです。合羽町の家のあったところです」
とにこやかに返事された。
「その痕跡は何にもないんですか」と聞くと、漱石旧居だったことはずっと前から聞いていたが何も痕跡がないことなどを話していただいた。
 漱石が熊本に来て最初に住んだ光琳寺の家からわずか3ヶ月で引っ越してきた二番目の家がこの合羽町の家である。この合羽町の家に住んでいた頃、次の句を詠んでいる。

 枕辺や星別れんとする晨(まくらべやほしわかれんとするあした)

 鏡子夫人が病の床に伏したことがあり、漱石は寝ずの看病をしたそうだ。その時の心境を詠んだものらしいが、まんじりともせず夜が明ける状況を牽牛と織女の別れ星の寓話にでもなぞらえたのだろう。この句を俳句の師正岡子規へ送ったのが明治29年9月25日というから引っ越してすぐである。まぁ何とやさしい旦那様と思われる向きもあろうが、エリート官僚の舅やお手伝いの老女まで一緒に付いて来た箱入り娘と結婚式を挙げてまだ3ヶ月。そりゃあそうなるでしょう。漱石まだ29歳である。
 この合羽町の家もその年が暮れて初めて迎えた正月にお客や生徒が押しかけて来て、これに懲りた漱石は1年にも満たない30年7月に大江村の家に引っ越すことになる。


漱石の合羽町の家跡


漱石が住んでいた当時の合羽町の家


   牽牛と織女(織姫と彦星)の天の川の逢瀬をモチーフとした端唄「もみじの橋」